閉じ込められた夜
第三十四話
「閉じ込められた夜」
保健室で、美香は初めて言った。
「助けて」
その声は、あまりにも小さかった。
けれど、担任の先生も、保健室の先生も、村瀬由紀も、確かに聞いた。
美香は泣きながら、言葉を途切れ途切れにこぼした。
「家に……帰りたくない」
「お父さんが……怖い」
「お母さんも……何も言ってくれない」
「食べるなって……」
「生まれなければよかったって……」
保健室の空気が、静かに重くなる。
誰も美香を急かさなかった。
誰も「本当なの?」とは言わなかった。
ただ、美香の言葉がこぼれ落ちるたびに、大人たちの表情は固くなっていった。
村瀬由紀は、机の端を強く握っていた。
市役所で児童福祉に関わってきた彼女には、わかっていた。
これはもう、様子見の段階ではない。
担任の先生も同じだった。
美香は限界だった。
痩せた身体。
怯える目。
必要な物を与えられない生活。
家に帰りたくないという訴え。
そして、自分の命を消したいと思うほどの追い詰められ方。
学校は再び児童相談所へ連絡した。
今度は、さらに強い危機感を持って。
だが、手続きはすぐに完結しなかった。
確認。
家庭への聞き取り。
本人の安全確保。
関係機関との調整。
その時間が、美香には永遠のように感じられた。
保健室のベッドに座り、美香は膝の上で手を握っていた。
「今日……帰らないとだめですか」
その問いに、保健室の先生はすぐには答えられなかった。
答えられない沈黙を、美香は敏感に感じ取った。
胸が冷たくなる。
帰るのだ。
また、あの家に。
夕方。
児童相談所からの緊急対応は進んでいたが、その日のうちに完全な一時保護へ移るには、家庭側とのやり取りが必要だった。
香織に連絡が入った。
学校へ迎えに来た香織の顔は、硬かった。
心配している母親の顔ではなかった。
怒らないように我慢している顔だった。
「美香」
名前を呼ばれた瞬間、美香の身体が震えた。
担任の先生が間に入る。
「お母さん、今日は美香さんがかなり不安定です。ご家庭でも絶対に責めないでください」
「わかっています」
香織はすぐに答えた。
「主人にも言います。もう大丈夫ですから」
その言葉を、美香は信じられなかった。
前にも聞いた。
もう大丈夫。
でも、大丈夫ではなかった。
学校の玄関を出る時、美香は一度だけ振り返った。
担任の先生が立っていた。
保健室の先生もいた。
村瀬由紀も、遠くから見ていた。
みんな心配そうな顔をしていた。
なのに、美香は帰らなければならなかった。
家までの道。
香織は何も言わなかった。
沈黙が怖かった。
怒鳴られるよりも、今は沈黙の方が怖かった。
玄関の前に着くと、美香の足が止まった。
「早く入りなさい」
香織の声が低くなる。
美香は小さく頷き、靴を脱いだ。
家の中には、和正がいた。
テレビはついていない。
缶ビールも、まだ開いていない。
それが逆に怖かった。
和正は座ったまま、美香を見た。
「お前、学校で何言った」
香織が慌てて言う。
「和正、やめて。先生にも言われたやろ」
「黙れ」
その一言で、香織は黙った。
美香は玄関近くで立ち尽くした。
「何言ったか聞いとるんだ」
「……」
「答えろ」
「……何も」
美香の声は震えていた。
「何も言わんかったら、なんで学校から電話が来るんや」
和正は立ち上がった。
美香の足が、勝手に後ろへ下がる。
「家に帰りたくないって言ったんか」
美香は答えられなかった。
その沈黙が、答えになった。
和正の顔が歪む。
「そうか。俺を悪者にしたんか」
「違う……」
「違わんやろ」
「ごめんなさい」
「またそれか」
和正は笑った。
笑っているのに、目は笑っていなかった。
「助けて、って言ったんか」
美香の喉が詰まった。
「……」
「言ったんやな」
香織が小さく言った。
「和正、もうやめて」
「お前もや。何を他人面しとるんや」
香織は顔を伏せた。
美香は見ていた。
母は、また止められない。
この家では、誰も自分を守れない。
その夜、美香は夕飯を与えられなかった。
「学校で助けてもらえばいいやろ」
和正はそう言った。
「助けてって言ったんやろ。じゃあ、家で食う必要ない」
美香は自分の部屋に行くよう命じられた。
部屋といっても、小さなスペースだった。
布団と机があるだけ。
ドアを閉めると、外の音がよく聞こえた。
缶ビールを開ける音。
プシュ。
美香の身体が跳ねた。
その音に続いて、和正の声が聞こえる。
「ほんと面倒くさいガキや」
香織の声は聞こえない。
美香は布団の上に座り、膝を抱えた。
助けてと言った。
言えた。
でも、帰ってきてしまった。
助けてと言ったせいで、もっと怖くなった。
やっぱり言わなければよかったのだろうか。
そんな考えが、美香の頭に浮かぶ。
けれど、保健室の先生の声も思い出す。
謝らなくていいよ。
担任の先生の声も思い出す。
あなたを一人にしたくない。
村瀬由紀の声も思い出す。
必要なものを持つのは、わがままじゃないよ。
その言葉たちは、暗い部屋の中で、小さな灯りのように浮かんでいた。
でも、すぐに夜の足音が近づいてきた。
ギシ。
廊下が鳴る。
美香の身体が固まる。
ギシ。
足音が近づく。
ドアの前で止まる。
美香は息を止めた。
ドアは開かなかった。
その代わり、和正の声がした。
「明日から余計なこと言うな」
美香は声を出さなかった。
「言ったら、どうなるかわかっとるな」
足音は遠ざかっていった。
でも、美香の震えは止まらなかった。
その夜、美香は眠れなかった。
空腹と恐怖で、目を閉じてもすぐに開いてしまう。
朝が来れば学校へ行ける。
でも、学校へ行ったら、先生に何を言えばいいのだろう。
助けてと言った。
でも、また家に帰された。
このまま誰にも救われないのではないか。
その考えが胸を締めつけた。
深夜。
美香は布団の中で、小さくつぶやいた。
「もう、いや……」
声は、誰にも届かなかった。
朝。
美香はほとんど眠れないまま起きた。
鏡を見ると、目の下に薄い影ができていた。
香織は台所に立っていた。
美香に朝食はなかった。
「学校行きなさい」
それだけだった。
美香はランドセルを背負った。
玄関を出る前、和正が言った。
「昨日のこと、先生に言うなよ」
美香は小さく頷いた。
「……はい」
村瀬家へ寄ると、由紀はすぐに気づいた。
美香の顔色。
目の下の影。
動きの鈍さ。
そして、声のなさ。
「美香ちゃん、昨日……大丈夫だった?」
美香は答えようとした。
でも、和正の声が頭に響いた。
言ったら、どうなるかわかっとるな。
美香は口を閉じた。
そして、いつもの言葉を出した。
「大丈夫です」
由紀は、美香の目を見た。
その「大丈夫」は、もう完全に危険信号だった。
学校へ連絡が入った。
担任と保健室の先生は、美香が登校した瞬間に様子を確認した。
「黒木さん」
担任が呼ぶ。
美香はびくっとした。
「保健室に行こう」
「授業……」
「いいから」
保健室に入ると、美香は椅子に座った。
先生たちは、もう遠回しには聞かなかった。
「昨日、家で何か言われた?」
美香は黙った。
「言うなと言われた?」
美香の目から涙が落ちた。
それだけで十分だった。
担任は、静かに言った。
「もう一度、児童相談所に連絡します」
美香は震えた。
「また……帰りますか」
保健室の先生は、強く首を振った。
「今度は、帰さないようにする」
その言葉に、美香は泣き崩れた。
長い夜は終わっていなかった。
けれど、扉の外で、大人たちはようやく本気で動き始めていた。
⸻
次回予告
「助けて」と言った美香は、いったん家に戻された。
だが、夜の足音と脅しは、美香の恐怖をさらに深くする。
翌朝、村瀬由紀と学校は異変を見逃さない。
今度こそ、帰してはいけない。
児童相談所への再通告。
緊急保護。
そして、黒木家との決定的な断絶が始まる。
次回、第三十五話
「卒業式の空席」




