お前なんか
第三十三話
「お前なんか」
美香は、空腹よりも先に、心が削れていく音を聞いていた。
家では食べるなと言われる。
学校では臭いと言われる。
助けてもらえば、それすら責められる。
そしてその夜、和正は酒の匂いをまとったまま、美香を見た。
「お前なんか、生まれんかったらよかったんや」
美香は、何も言えなかった。
香織は台所にいた。
振り向かなかった。
「お前がいるから金がかかる。飯もいる。服もいる。学校にも行く。ほんと、何の役にも立たん」
美香の胸の奥で、何かが静かに折れた。
泣く力もなかった。
怒る力もなかった。
ただ、思ってしまった。
もう、消えたい。
死んでしまいたい。
この家からも、学校からも、自分の身体からも、全部から解放されたい。
それは、はっきりした決意ではなかった。
まだ十二歳の子どもが、限界まで追い詰められた末に浮かべてしまった、悲鳴のような思いだった。
助けて。
本当は、そう言いたかった。
でも、美香の口から出たのは、いつもの言葉だった。
「ごめんなさい」
和正は鼻で笑った。
「謝るくらいなら、最初から生まれてくるな」
その夜、美香は布団の中で目を開けていた。
眠れなかった。
お腹が空いているのか、胸が痛いのか、自分でもわからなかった。
天井を見つめながら、ただ思った。
明日が来なければいい。
朝にならなければいい。
学校にも行きたくない。
家にもいたくない。
どこにもいたくない。
翌朝。
村瀬家で靴を履き替えた時、由紀はすぐに気づいた。
美香の目に、光がなかった。
「美香ちゃん」
呼びかけても、美香の反応は鈍かった。
「……はい」
「昨日、何かあった?」
美香は首を振った。
「大丈夫です」
その声は、もう“大丈夫”ではなかった。
由紀は、それ以上その場で聞かなかった。
だが、学校へ連絡した。
担任も、保健室の先生も、同じ危機感を抱いた。
美香は限界を超えかけている。
もう、様子見では済まない。
その日の給食。
美香は箸を持ったまま、しばらく動かなかった。
目の前に食べ物があるのに、食べる気力すらなくなっていた。
担任は、そっと声をかけた。
「黒木さん。保健室に行こう」
美香は顔を上げた。
「……私、何かしましたか」
「何もしてないよ」
先生は静かに言った。
「でも、先生たちは、あなたを一人にしたくない」
その言葉に、美香の目が揺れた。
一人にしたくない。
そんな言葉を、久しぶりに聞いた。
保健室に入ると、村瀬由紀も来ていた。
保健室の先生が、温かいお茶を出した。
「飲める?」
美香は小さく頷いた。
湯気が上がっている。
美香は両手でカップを持った。
少しだけ温かかった。
その温かさに触れた瞬間、凍っていたものがゆるんだ。
「……もう、いやです」
美香の声は、ほとんど息のようだった。
先生たちは黙って聞いた。
「家に帰りたくない」
涙が落ちた。
「生まれてこなければよかったって……言われた」
村瀬由紀の表情が変わった。
担任の先生は、震える手を握りしめた。
美香は、ようやく言った。
「助けて……」
それは、小さな声だった。
でも、確かに声だった。
大人たちは、もう迷わなかった。
次回予告
「お前なんか、生まれなければよかった」
その言葉は、美香の心を限界まで追い詰めた。
死んでしまいたい。
消えてしまいたい。
そう思うほどに。
だが、保健室で、美香は初めて言葉にする。
「家に帰りたくない」
「助けて」
次回、第三十四話
「閉じ込められた夜」




