表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/12

城南幼稚園

 第三話

「城南幼稚園」


 美香が城南幼稚園に入園した朝、香織はいつもより早く起きた。


 小さな制服。

 黄色い帽子。

 新品ではないけれど、きれいに洗われた上履き袋。


「美香、こっち向いて」


 香織が髪を結ぶと、美香は鏡の中で少し緊張した顔をしていた。


「幼稚園、行くと?」


「行くよ」


「母ちゃんも来る?」


「今日は入園式やけん、行くよ」


 その言葉に、美香の顔がぱっと明るくなる。


 和正も仕事の時間を調整して、入園式に顔を出した。


「美香、似合っとるやん」


「ほんと?」


「ほんとほんと。父ちゃんよりちゃんとしとる」


「父ちゃん、制服ないもん」


「あるぞ。作業着やけどな」


 香織が吹き出した。


「それ制服って言うん?」


「会社指定やけん制服やろ」


 久しぶりに、三人で笑った。


 幼稚園の門の前には、同じように緊張した子どもたちと、少し誇らしげな親たちが並んでいた。


 城南幼稚園。


 小さな園庭には、色あせた遊具があり、玄関には紙で作られた花が飾られていた。


 美香は和正と香織の手を握ったまま、門をくぐった。


 入園式の間、美香は何度も後ろを振り返った。


 和正が手を振る。


 香織が小さくうなずく。


 それだけで、美香は前を向けた。


 その頃の両親は、忙しくても、まだ行事には来てくれていた。


 運動会。


 美香はかけっこで三番だった。


 本人は一番になるつもりだったらしく、ゴールした後、悔しそうに唇を尖らせていた。


「三番やった……」


「三番もすごいやん」


 香織が言う。


「一番がよかった」


 和正はしゃがんで、美香の目線に合わせた。


「じゃあ来年、一番目指せばいい」


「来年?」


「そう。父ちゃん、また見に来るけん」


 美香は少しだけ笑った。


「ほんと?」


「ほんと」


 その約束は、その年はまだ守られた。


 発表会では、美香は童謡を歌った。


 緊張で声が小さくなり、隣の子につられて振り付けを間違えた。


 それでも、ステージの上から客席を見ると、香織が笑っていた。


 和正はスマホを構えていた。


 録画ボタンを押し忘れて、あとで香織に怒られることになるのだが、その時の和正は真剣そのものだった。


「美香、よう頑張ったな」


 発表会の帰り道、和正が言った。


「間違えた」


「間違えても最後までやったやろ」


「うん」


「それがえらい」


 香織も言った。


「声、かわいかったよ」


 美香は照れて、帽子のつばをぎゅっと握った。


 その日、帰りにコンビニでプリンを買ってもらった。


 ひとつだけ。


 でも、美香はスプーンで少しずつ食べた。


 特別な日の味だった。


 美香が幼稚園に慣れてきた頃、香織はパートに出るようになった。


 スーパーの品出しとレジ補助。


 短時間ではあったが、家計を助けるには必要だった。


「美香が幼稚園行っとる間だけやけん」


 香織はそう言った。


 和正は少し申し訳なさそうに頷いた。


「悪いな」


「別に。私も少し外に出た方がいいし」


「無理すんなよ」


「和正こそ」


 その会話には、まだ思いやりが残っていた。


 けれど、生活の余白は少しずつ削られていった。


 香織は朝、美香を幼稚園へ送り、その足でパートへ向かう。

 帰ってきて洗濯物を取り込み、夕食を作る。

 和正は朝早く出て、夜遅く帰る。


 すれ違いが増えた。


 会話が短くなった。


 それでも、美香の前ではまだ笑おうとしていた。


「今日、幼稚園で何した?」


 夕食の席で和正が聞く。


「お絵描き」


「何描いた?」


「カモ」


「大濠公園の?」


「うん」


「おお、覚えとったんか」


 香織が皿を並べながら言った。


「この子、あの日からカモ好きなんよ」


「カモの歌とか作るか?」


「父ちゃん、歌へたやん」


「失礼な」


 美香が笑った。


 その笑い声が、部屋を明るくした。


 まだ、黒木家には灯りがあった。


 しかし、和正の仕事は忙しくなっていく。


 配送の件数は増えた。

 道は混んだ。

 時間指定は厳しくなった。

 少しでも遅れれば、会社にも客にも頭を下げなければならない。


 帰宅後の缶ビールが、一本から二本になる日が増えた。


 香織も疲れていた。


「飲みすぎやない?」


「これくらい飲まんと寝られん」


「明日も運転やろ」


「わかっとる」


 美香はその会話を、幼い耳で聞いていた。


 意味はよくわからなかった。


 でも、父の声が少し硬くなったこと。

 母のため息が少し増えたこと。

 それだけは、なんとなく感じていた。


 それでも翌朝、和正は出勤前に美香の頭を撫でた。


「幼稚園、行ってこいよ」


「うん」


「先生の話、ちゃんと聞くんぞ」


「聞く」


「ほんとか?」


「ほんと」


 香織が後ろから言った。


「美香の方が和正よりちゃんと聞くよ」


「俺も聞いとるわ」


「都合悪いことだけ聞こえんくなるやん」


「それは特殊能力」


 美香はまた笑った。


 あの頃の家には、まだ冗談があった。


 まだ、取り返しがつくように見えていた。


 城南幼稚園で覚えた歌。

 発表会の拍手。

 運動会で見つけた両親の顔。

 パート帰りの香織が買ってきた半額の菓子パン。

 疲れていても、美香に「おかえり」と言った和正。


 その一つ一つが、美香の中に残っていく。


 そして後に、彼女を苦しめる。


 なぜなら、悪夢の前に幸せがあったから。


 優しかった頃を知っているからこそ、変わってしまった父と母を、すぐには憎めなかった。


 幼い美香は、まだ知らない。


 この家が、自分を守る場所ではなくなることを。


 そしていつか、別の大人たちが、本当の意味で自分を守ってくれることを。


 次回予告


 城南幼稚園で少しずつ成長していく美香。


 香織はパートに出始め、和正は配送の仕事に追われながらも、まだ父親であろうとしていた。


 だが、家計の不安、仕事の疲労、増えていく酒が、黒木家の空気を少しずつ変えていく。


 次回、第四話

「父の仕事」


 トラックのエンジン音は、まだ家族を支える音だった。


 次回予告


 城南幼稚園で少しずつ成長していく美香。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ