優しかった頃
第二話
「優しかった頃」
黒木家は、決して裕福ではなかった。
旅行雑誌に載るような温泉旅館にも、飛行機に乗るような遠出にも、縁はなかった。
それでも、美香が幼い頃の家には、まだ小さな楽しみがあった。
日曜日の朝。
和正は、眠そうな顔で布団から起き上がると、台所に立つ香織に声をかけた。
「今日、ちょっと出るか」
「どこに?」
「親戚んとこ。美香、昨日から行きたいって言いよったやろ」
美香はその言葉に、ぱっと顔を上げた。
「行く!」
「まだ何も準備しとらんやろ」
「行く!」
「返事だけ早いな」
和正が笑う。
香織も呆れたように言いながら、美香の髪を結んだ。
「ほら、じっとしとき。髪ぐちゃぐちゃのまま行けんやろ」
「痛い」
「痛くしとらん」
「痛いもん」
「はいはい、お姫様」
小さな美香は、少し膨れながらも、鏡の中の自分を見ていた。
親戚の家に行くと、お菓子が出た。
従兄弟たちが遊んでくれた。
大人たちは台所で世間話をし、和正は「仕事きつかろう」と言われて苦笑いした。
「まあ、きついけど、働かんと食えんけんね」
「美香ちゃん、大きくなったねぇ」
親戚のおばが言うと、美香は香織の後ろに隠れた。
「ほら、美香。こんにちはは?」
「……こんにちは」
「えらいねぇ」
褒められると、美香は照れたように笑った。
その笑顔を、和正は少し離れた場所から見ていた。
帰り道。
古い軽自動車の後部座席で、美香は眠っていた。
小さな手には、親戚にもらった駄菓子の袋。
和正はバックミラー越しにそれを見て、ふっと笑った。
「寝たな」
「はしゃぎすぎ」
「楽しかったんやろ」
「うん」
香織は少し疲れた声で答えた。
けれど、その声はまだ柔らかかった。
別の日には、海の中道海浜公園へ行った。
朝から香織が小さなおにぎりを握った。
中身は鮭と昆布。
卵焼きは少し焦げていた。
「焦げとる」
和正が言うと、香織がにらんだ。
「文句あるなら食べんでいい」
「いや、焦げたとこがうまい」
「急に態度変えた」
美香はそのやり取りを見て、けらけら笑った。
公園では、美香が芝生の上を走り回った。
「父ちゃん、見て!」
「見よる見よる」
「ちゃんと見て!」
「見よるって」
「こっち!」
美香は小さな足で一生懸命走り、途中で転んだ。
「あっ」
香織が立ち上がりかける。
けれど、美香は自分で起き上がった。
膝に少し土がついている。
泣くかと思ったが、美香は口をへの字にして、こらえた。
「強いやん」
和正が近づき、膝の土を払った。
「痛かった?」
「ちょっと」
「泣かんかったな」
「泣いてない」
「えらい」
和正は美香の頭を撫でた。
その手は大きくて、少し硬かった。
仕事で荷物を運ぶ手だった。
その手が、まだ美香にとっては安心できるものだった。
昼になると、三人でレジャーシートを広げた。
香織が弁当箱を開ける。
「おにぎり、食べる?」
「食べる!」
「手、拭いてから」
美香はウェットティッシュで手を拭き、両手でおにぎりを持った。
少し大きすぎて、海苔が頬につく。
和正が笑った。
「顔まで食いよる」
「食べてないもん」
「海苔ついとる」
香織が指で取ってやる。
美香は恥ずかしそうに笑った。
空は広かった。
風が吹いて、草が揺れた。
遠くで子どもたちの笑い声がした。
美香はその日、帰りの車でこう言った。
「また来たい」
和正はハンドルを握ったまま答えた。
「また来ような」
その約束は、何度か守られた。
だが、永遠には続かなかった。
大濠公園にも行った。
池の周りを歩き、ベンチで休み、香織が水筒のお茶を注いだ。
美香は池を泳ぐ鳥を見つけて、目を輝かせた。
「あれ、なに?」
「カモやない?」
和正が答える。
「カモ?」
「そう。泳ぎ上手いやろ」
「美香も泳げる?」
「練習したら泳げる」
「父ちゃん教えて」
「父ちゃん、泳ぎ苦手」
「えー」
香織が笑った。
「じゃあ、母ちゃんが教えようか」
「母ちゃん泳げると?」
「少しだけ」
「じゃあ母ちゃん先生」
「はいはい」
ベンチに座って、おにぎりを食べる。
豪華な弁当ではなかった。
唐揚げが入っている日もあれば、ウインナーと卵焼きだけの日もあった。
それでも、美香には十分だった。
父と母が隣にいる。
自分のためにおにぎりがある。
それだけで、幼い美香には世界が満ちていた。
公園の帰り道、和正はときどき美香を肩車した。
「高い!」
「落ちるなよ」
「もっと高く!」
「無理。父ちゃんの首が折れる」
「折れんで」
「折れるわ」
香織が後ろから声をかける。
「和正、無理せんとよ」
「大丈夫大丈夫」
そう言いながらも、和正は少し息を切らしていた。
美香は父の髪をつかみ、遠くを見た。
いつもより高い景色。
池も、人も、木も、全部が少し違って見えた。
あの頃、美香にとって父は、自分を高い場所まで連れて行ってくれる人だった。
母は、転びそうな時に手を引いてくれる人だった。
家は、帰れば「おかえり」と言ってもらえる場所だった。
そういう時間が、確かにあった。
夜。
遊び疲れた美香は、布団の中でうとうとしていた。
香織が洗濯物を畳んでいる。
和正は缶ビールを一本だけ開け、テレビを小さな音でつけていた。
「今日、楽しかったな」
和正が言う。
「うん」
香織が答える。
「金はかけられんけどさ」
「別に、あれで十分やろ」
「美香、喜んどったしな」
「うん」
和正は缶ビールを見つめた。
「もっと稼げたらな」
香織は洗濯物を畳む手を止めなかった。
「無理せんでいいよ」
「でもさ、たまには旅行とか連れて行ってやりたいやん」
「いつかでいいよ」
「いつかね」
その“いつか”は、結局来なかった。
けれど、その時の和正には、まだそう願う気持ちがあった。
美香は布団の中で、半分眠りながら二人の声を聞いていた。
怒鳴り声ではない。
責める声でもない。
普通の父と母の声。
その声に包まれて、美香は眠った。
その頃の記憶は、後の美香にとって、とても厄介なものになる。
全部が悪夢だったなら、憎むだけでよかった。
最初から冷たい家だったなら、諦めるだけでよかった。
けれど、そうではなかった。
親戚の家に連れて行ってくれた父がいた。
海の中道で膝の土を払ってくれた父がいた。
大濠公園で肩車してくれた父がいた。
髪を結んでくれた母がいた。
おにぎりを握ってくれた母がいた。
「母ちゃん先生」と笑ってくれた母がいた。
だからこそ、美香は長い間、自分を責めることになる。
私が悪い子になったから、変わったのだろうか。
私がいなければ、父も母も苦しまなかったのだろうか。
そんなはずはなかった。
けれど、子どもはそう考えてしまう。
愛された記憶が少しでもあると、失われた理由を自分の中に探してしまう。
そして、黒木家の歯車は、少しずつ軋み始めていた。
和正の仕事は忙しさを増していた。
配送量は増え、時間指定は厳しくなり、遅れれば怒鳴られる。
帰宅は遅くなった。
缶ビールの本数が、一本から二本になる日が増えた。
香織のため息も、少しずつ長くなった。
「今日も遅かったね」
「道が混んどった」
「美香、待っとったよ」
「仕事やけん仕方ないやろ」
「責めてないやん」
「そう聞こえる」
その夜、美香は布団の中で目を開けていた。
まだ喧嘩というほどではなかった。
けれど、空気が少しだけ重かった。
小さな美香には、それが何なのかわからない。
ただ、楽しかった公園の帰り道とは違う音が、家の中に混じり始めていることだけは感じていた。
缶ビールを置く音。
ため息。
短くなる返事。
閉まる扉の音。
それでも翌朝には、和正は美香の頭を撫でて出勤した。
「行ってくる」
「いってらっしゃい」
「幼稚園、ちゃんと行けよ」
「うん」
「帰ったら話聞かせろ」
「うん」
美香は笑って手を振った。
和正も手を振り返した。
まだ、壊れてはいなかった。
まだ、戻れる場所があるように見えていた。
だが、幸せな時間は、いつも音もなく減っていく。
気づいた時には、もう手の中に残っていない。
美香はまだ知らない。
この先、父の手が頭を撫でるものではなくなることを。
母の声が髪を結ぶ優しさを失うことを。
そして、小学四年生の十二月。
忘年会の翌朝、酒が抜けきらないままトラックに乗った和正が、黒木家の運命を決定的に変えてしまうことを。
⸻
次回予告
城南幼稚園で友達と遊び、家ではまだ父と母の笑い声を聞いていた美香。
だが、和正の仕事は少しずつ過酷になっていく。
配送の遅れ。
疲労。
職場の愚痴。
増えていく酒。
そして、美香は城南小学校へ入学する。
次回、第三話
「城南幼稚園」
幼い美香は、まだ家族を疑うことを知らなかった。




