生まれてきた音
第一話
「生まれてきた音」
2012年8月4日。
福岡市城南区。
真夏の熱気が、病院の窓ガラスをじっとりと曇らせていた。
蝉の声が、朝から途切れない。
ミーン、ミーン、と鳴き続ける音が、白い廊下にまで染み込んでいる。
午前十時二十七分。
その泣き声は、突然響いた。
「おぎゃあっ――!!」
分娩室の中で、看護師たちが一斉に笑顔になる。
「元気な女の子ですよ!」
汗で髪が額に張りついた母・黒木香織は、荒い呼吸のまま目を閉じていた。
「……終わった……」
「お疲れさまでした。頑張りましたね」
その横で、小さな命が必死に泣いている。
赤くて、しわくちゃで、まだ世界に慣れていない小さな身体。
けれど、その泣き声だけは驚くほど力強かった。
廊下では、父・黒木和正が落ち着かない様子で歩き回っていた。
配送会社の制服姿。
汗でシャツが背中に張りついている。
自販機の前まで行っては戻り、時計を見て、また廊下を歩く。
「黒木さーん」
看護師に呼ばれ、和正が慌てて顔を上げた。
「はいっ」
「おめでとうございます。女の子ですよ」
その瞬間、和正は言葉を失った。
ただ、分娩室の向こうから聞こえる泣き声を、ぼんやり聞いていた。
「……女の子……」
「抱っこされます?」
「えっ、いや、俺……」
「大丈夫ですよ」
看護師に促され、和正はぎこちなく両手を出した。
渡された赤ん坊は、想像していたよりずっと軽かった。
軽いのに、熱かった。
小さな身体が、生きるために懸命に動いている。
和正は息を呑んだ。
「……ちっちゃ」
その声に、香織が疲れ切った顔で笑う。
「当たり前やん……」
「いや、なんか……すげぇな」
和正は恐る恐る赤ん坊を見下ろした。
赤ん坊は泣きながら、小さな手をばたばた動かしている。
その指が、和正の制服の胸元を掴んだ。
ほんの少しだけ。
それだけなのに、和正は固まった。
「……俺、父親なんか」
「今さら?」
「いや……実感なくて」
香織は小さく笑った。
「名前、どうする?」
「決めとったやろ」
「あぁ……」
香織は赤ん坊を見つめた。
「美香」
その名前を聞いた瞬間、赤ん坊は少しだけ泣き声を弱めた。
偶然だったのかもしれない。
けれど、その場にいた全員が、少しだけ笑った。
「美香か」
和正はゆっくり名前を口にする。
「よろしくな、美香」
赤ん坊は当然返事をしない。
ただ、また小さな手を動かした。
病院の窓の外では、真夏の空が広がっていた。
雲が白い。
強い日差しが街を照らしている。
その日、黒木家は小さなアパートの一室に、新しい命を迎える準備をしていた。
古い二DK。
駅から少し離れた住宅街。
エアコンの効きが悪く、夏は暑く、冬は寒い。
けれど、窓際には小さなベビーベッドが置かれていた。
親戚から譲ってもらった中古品。
上にはプラスチック製のメリー。
風が吹くと、ちりん、と小さな音が鳴る。
「こんなんで喜ぶんかね」
和正が言う。
「赤ちゃんは好きなんよ、こういうの」
「へぇ」
香織は、小さなベビー服を畳みながら笑った。
「和正、ちゃんと父親できる?」
「失礼な」
「すぐ酒飲んで寝そう」
「それは否定できん」
「ほらね」
その頃の黒木家には、まだ笑い声があった。
和正は仕事帰りにコンビニでプリンを買って帰ることもあった。
香織はスマホで美香の寝顔を何枚も撮っていた。
「見て、笑った!」
「まだ笑ってないやろ」
「笑ったもん」
「寝とるだけや」
「和正より表情豊か」
「なんやそれ」
そんな何気ない会話が、確かに存在していた。
美香は、まだ何も知らない。
父が酒に逃げる未来も。
飲酒運転で人生が崩れる日も。
怒鳴り声が日常になることも。
自分の名前が、優しくではなく、憎しみの中で呼ばれるようになることも。
まだ知らない。
その夜。
病院の新生児室。
小さなベッドに寝かされた美香は、静かに眠っていた。
メリーが、風に揺れる。
ちりん。
ちりん。
その音を聞くと、美香は少しだけ安心したように呼吸を緩めた。
看護師が微笑む。
「この子、音が好きなんかな」
窓の外では、遠くを走るトラックのエンジン音が聞こえていた。
和正が毎日乗っている車と、よく似た音だった。
低く、重く、街の夜を震わせながら走っていく。
その音は、まだ“生活の音”だった。
けれど数年後、その音は黒木家を壊す音になる。
そして美香は、失われた音を探すように、音楽へ向かっていくことになる。
まだ誰も、それを知らない。
⸻
次回予告
城南幼稚園へ通い始めた美香。
父・和正は忙しく働きながらも、まだ娘を愛していた。
母・香織も、まだ笑っていた。
だが、少しずつ疲れが積もり始める。
長時間労働。
配送の遅れ。
酒。
ため息。
そして、家族を壊す最初の小さな亀裂。
次回、第二話
「優しかった頃」
壊れる前にも、人はちゃんと笑っていた。




