序章~音が消えた家から~
「音が消えた家から」
美香が、初めて自分の名前を好きになったのは、ずっと後のことだった。
世界中のホールで拍手を浴びるようになってからでもない。
ファイブピーチ★の一員として、何万人もの観客の前に立った日でもない。
アキラと出会い、音で会話するように心を通わせた日でも、まだ少し足りなかった。
本当に初めて、
「ああ、私は美香でよかった」
と思えたのは、小倉家の食卓で、美鈴が味噌汁をよそいながら、何でもない顔で言った時だった。
「美香、今日はご飯多めにしとくけんね」
それだけだった。
叱る声ではなかった。
責める声でもなかった。
ため息混じりの声でもなかった。
ただ、そこにいていい人間に向けられる、普通の声だった。
その“普通”が、美香には奇跡だった。
幼い頃の美香にとって、家という場所は、帰る場所ではなかった。
そこは、足音を聞き分ける場所だった。
玄関のドアがどれくらい強く閉まったか。
父・黒木和正の靴音が乱れているか。
ビールの缶が袋の中で鳴ったか。
母・香織のため息が長いか短いか。
それだけで、美香はその夜の運命を知った。
ご飯がある日。
ない日。
怒鳴られる日。
殴られる日。
何もされない代わりに、存在しないものとして扱われる日。
子どもは、本来そんなことを覚えなくていい。
けれど美香は覚えた。
覚えなければ、生き残れなかった。
「お前なんか、生まなければよかった」
その言葉を初めて言われた日のことを、美香ははっきりとは覚えていない。
ただ、その言葉が何度も何度も繰り返されるうちに、いつしか自分の中に染み込んでいった。
私は、いない方がいい。
私は、お金がかかる。
私は、迷惑をかけている。
私は、食べてはいけない。
私は、笑ってはいけない。
私は、泣いてはいけない。
城南中学校に通っていた頃、美香はいつも小さくなって歩いていた。
靴は足に合っていなかった。
服は古く、誰かのおさがりで、季節に合わないことも多かった。
髪はきちんと整えられず、風呂にも満足に入れなかった。
だから学校でも、美香は居場所を失っていった。
家で傷つき、学校で笑われる。
逃げ場はどこにもなかった。
卒業式の日、保護者席に両親の姿はなかった。
入学式の日も、同じだった。
美香は泣かなかった。
泣くことにも、体力がいる。
期待することにも、心がいる。
その頃の美香には、もうどちらも残っていなかった。
そんな美香が、ある日、保護された。
児童保護施設。
その名前を最初に聞いた時、美香は何も思わなかった。
未来。
種。
そんな言葉は、自分には関係ないと思った。
明日が来ることすら怖いのに、未来なんて遠すぎた。
それでも、《みらいのたね》には、怒鳴り声がなかった。
食事の時間になると、ご飯が出た。
夜になると、布団があった。
「食べていいよ」と言われた。
「眠っていいよ」と言われた。
美香は、最初それが信じられなかった。
そして、あの日。
山口から、音がやって来た。
爆笑コントを投稿していた中学生カップル。
湯田温也と上田郷子。
彼らが山口第一中学校の吹奏楽部員だと知った《みらいのたね》の理事長が、子どもたちに生の音楽を聴かせたいと依頼した。
最初、美香は体育館の隅に座っていた。
前に出る気などなかった。
目立つ気など、もっとなかった。
けれど、温也と郷子のコントで、体育館が笑いに包まれた。
笑っても、誰も怒らない。
そのことに、美香は驚いた。
そして演奏が始まった。
トランペットが空を開き、クラリネットが風を運び、打楽器が心臓みたいに鳴った。
その中で、トロンボーンの音が、美香の胸に届いた。
低くて、あたたかくて、まっすぐで。
その瞬間、美香は思った。
音楽は、人を殴らない。
音楽は、怒鳴らない。
音楽は、そこにいることを責めない。
美香は初めて、自分から前を見た。
これをやりたい。
声には出なかった。
でも、心の奥で、確かに何かが芽を出した。
それが、美香の未来だった。
その後、美香は小倉家に引き取られる。
小倉優馬。
小倉美鈴。
そして、騒がしくて、明るくて、どうしようもなく人の心に入り込んでくる双子、光子と優子。
美香は、そこで初めて家族を知る。
血ではなく、守ること。
名前ではなく、呼び続けること。
同じ屋根の下にいるだけではなく、帰ってきた人に「おかえり」と言うこと。
やがて美香は、博多南中学校へ転入し、吹奏楽部に入る。
トロンボーンを手にした少女は、少しずつ、自分の声を取り戻していく。
けれど、過去は簡単には消えない。
黒木和正と香織は、美香を奪い返そうと現れる。
《みらいのたね》を襲い、小倉家の前に立ちはだかり、やがて大人になった美香の前にも、金を求めて現れる。
そのたびに、美香は問われる。
血は、家族なのか。
産んだ人は、親なのか。
傷つけた人を、許さなければならないのか。
そして美香は、いつか答える。
「私は、あなたたちを親だと思っていません。私の両親は、小倉優馬と美鈴です」
これは、虐待を生き延びた少女が、音楽に出会い、家族に守られ、自分の人生を取り戻していく物語。
これは、怒鳴り声しかなかった家から、世界中の拍手へ歩いていく物語。
これは、消えかけた命に、もう一度名前が与えられる物語。
美香。
その名前は、やがて世界のステージに響く。
けれど始まりは、たった一粒の小さな種だった。
《みらいのたね》。
そこから、美香の音は、生まれ直した。




