児童相談所
第三十話
「児童相談所」
美香が一時保護された翌日、香織が児童相談所へやって来た。
顔には、心配している母親の表情を貼りつけていた。
「先生方にもご迷惑をおかけしました。主人にも、よく言って聞かせましたので、もう大丈夫です」
香織は何度も頭を下げた。
「美香も、少し大げさに受け取ってしまっただけで……家に帰れば落ち着くと思います」
職員は静かに聞いていた。
だが、美香の状態は“大げさ”では済まなかった。
痩せた身体。
必要な物を与えられていない生活。
不自然な痣。
過度な怯え。
学校と市役所側の記録。
どれも、家庭へすぐ戻していい状態ではなかった。
一方、黒木家では、和正が不機嫌そうに缶ビールを開けていた。
「下着とか、生理用品とか、買ってもらったらしいな」
香織は黙っていた。
和正は鼻で笑った。
「これはラッキーやん」
「ラッキーって……」
「お前、これからもずっとそうやって買ってもらえって言っとけ。学校でも市役所でも、くれるもんはもらえばいい」
その言葉に、香織は何も返せなかった。
美香の尊厳を守るために用意されたものを、和正は“得をした”としか見ていなかった。
児童相談所で、美香は職員に聞かれた。
「お母さんが迎えに来ています。会いたい?」
美香の身体が固まった。
母に会いたい。
でも、帰りたくない。
その二つが胸の中でぶつかり、声にならなかった。
「……怒られます」
やっと出た言葉は、それだった。
職員は静かに頷いた。
「今は、美香さんの安全を一番に考えます」
美香は膝の上で手を握りしめた。
帰らなくていい。
その言葉が、怖いのに、少しだけ温かかった。
香織は帰り際、職員に言った。
「本当に、もう大丈夫なんです。家庭のことですから」
しかし、家庭の中で守られなかったから、美香はここにいる。
その事実だけは、もう誰にも消せなかった。
次回予告
香織は美香を連れ戻そうとする。
和正は支援を“得”としか見ず、美香の苦しみを理解しない。
児童相談所は、一時保護の継続を判断する。
だが、黒木家の執着は終わらない。
次回、第三十一話
「夜の足音」
帰らなくていい場所で、美香は初めて夜を越える。
第三十一話
「夜の足音」
数日後。
香織は再び児童相談所を訪れた。
何度も頭を下げた。
「主人にもきつく言いました」
「もう手は出しません」
「私もちゃんと見ます」
「美香を返してください」
児童相談所側も、すぐに完全な帰宅を認めたわけではなかった。
だが、家庭側の改善意思の確認、学校・市役所との連携、一時的な指導と条件付きという形で、美香は一度、家へ戻ることになった。
黒木家へ戻る日。
香織は、以前より少しだけ優しかった。
「帰ろっか」
美香は、小さく頷いた。
車窓から見える街を眺めながら、美香は思った。
ひょっとしたら。
本当に、少し変わるのかもしれない。
家に帰ると、和正は珍しく怒鳴らなかった。
「……戻ったんか」
それだけだった。
食卓には、少しだけ肉が並んでいた。
香織は言った。
「今日はちゃんと食べなさい」
美香は戸惑った。
「……うん」
食べながらも、身体は緊張したままだった。
でも、その日は何も起きなかった。
和正も酒の量を少し抑えていた。
夜。
美香は久しぶりに、自分の布団へ入った。
見慣れた天井。
古いカーテン。
小さな机。
児童相談所の静かな部屋とは違う。
でも、ここは自分の家だった。
もしかしたら。
もしかしたら本当に。
変わるのかもしれない。
そう思いたかった。
時計の針が進む。
外を車が通る音。
冷蔵庫の低い音。
香織が風呂場を片づける音。
そして。
ギシ。
廊下が鳴った。
美香の身体が、一瞬で固まった。
足音。
ゆっくり。
重く。
近づいてくる。
ギシ。
ギシ。
美香の呼吸が浅くなる。
児童相談所では聞こえなかった音。
家で何度も聞いてきた音。
夜の足音。
その音だけで、身体が勝手に震えた。
止まれ。
こっちに来ないで。
心の中で何度も思う。
足音は、美香の部屋の前で止まった。
美香は毛布を握りしめた。
ドアが少し開く。
暗い廊下の向こうに、和正の影が見えた。
「……起きとるんか」
酒の匂いがした。
美香は答えられなかった。
和正はしばらく立ったまま、美香を見ていた。
そして低く言った。
「余計なこと、学校や児相に言うなよ」
美香の喉が詰まる。
「……うん」
「次は、もう知らんけんな」
ドアが閉まる。
足音が遠ざかっていく。
ギシ。
ギシ。
静かになったあとも、美香の身体の震えは止まらなかった。
変わっていなかった。
何も。
昼間の優しさも。
少し増えたおかずも。
怒鳴らなかった態度も。
全部、“外向け”だった。
本当の夜になると、戻ってくる。
美香は布団の中で目を閉じた。
もう期待しちゃだめだ。
期待すると、その分だけ苦しくなる。
夜の足音は、美香にそれを思い出させた。
この家では、安心して眠ってはいけないのだと。
次回予告
一時保護から戻った黒木家。
表面だけは、少し穏やかに見えた。
だが夜になると、和正の足音が美香を凍りつかせる。
「余計なことを言うな」
その言葉は、再び美香の口を閉ざしていく。
そして学校では、ある異変に先生が気づく。
次回、第三十二話
「笑わなくなった子」
子どもは、限界に近づくほど表情を失っていく




