助けて
第二十九話
「助けて」
その言葉は、美香の喉の奥で凍っていた。
助けて。
言えば、家に知られる。
家に知られれば、また怒られる。
もっとひどいことになる。
だから美香は、今日も言った。
「大丈夫です」
けれど、大人たちはもう見過ごさなかった。
保健室の先生、六年生の担任、そして村瀬由紀。
三人は、美香の状態を重く受け止めていた。
食事。
衣服。
靴。
衛生用品。
成長に合った下着。
子どもが生きるため、学校生活を送るため、尊厳を守るために必要なものが、美香には与えられていなかった。
それは「貧しいから仕方ない」ではなかった。
明確なネグレクトだった。
休み時間。
保健室の先生が、美香にやさしく声をかけた。
「黒木さん、少しだけ保健室に来られる?」
美香はびくっとした。
「……何かしましたか?」
「何もしてないよ。怒るためじゃない」
保健室には、担任と村瀬由紀もいた。
美香は入口で足を止めた。
逃げたい気持ちと、助けてほしい気持ちが、胸の中でぶつかった。
保健室の先生は、静かに言った。
「美香さん。必要なものが足りていないこと、先生たちは気づいています」
美香の目が揺れた。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃなくていいよ」
その言葉に、美香は固まった。
村瀬由紀が言った。
「あなたが悪いんじゃない。必要なものを用意してもらえないことは、美香ちゃんのせいじゃない」
美香は唇を震わせた。
涙が浮かんだ。
けれど、まだ声は出なかった。
保健室の先生は、美香の身体に合うものを用意するため、必要最小限の確認をした。
恥ずかしい思いをさせないように。
責めないように。
ひとつひとつ、本人の気持ちを確認しながら。
そして、その日のうちに、村瀬由紀と担任は、美香に必要なものを揃えた。
下着。
生理用品。
靴下。
肌着。
清潔に過ごすためのもの。
それらが袋に入れられて、美香の前に置かれた。
美香は、それを見つめたまま動けなかった。
「……これ、私が使っていいんですか」
担任の先生は、静かに頷いた。
「もちろん。美香さんに必要なものだから」
「お金……」
「心配しなくていい」
「でも……」
村瀬由紀が、やさしく言った。
「美香ちゃん。子どもが必要なものを持つのは、わがままじゃないよ」
その言葉で、美香の中の何かが崩れた。
「……ごめんなさい」
涙がこぼれた。
「ごめんなさい……」
保健室の先生は首を振った。
「謝らなくていいよ」
美香は泣いた。
声を殺すこともできず、ただ泣いた。
それは、長い間凍っていた言葉が、少しだけ溶けた瞬間だった。
その日の夕方。
学校は児童相談所へ通告した。
田上先生、新しい担任、保健室の先生、村瀬由紀が共有してきた記録。
不自然な痣。
衣服や靴の不適切な状態。
食事や衛生の不足。
家庭内での暴言と暴力の疑い。
支援金が本人のために使われていない可能性。
積み重ねられた事実は、もう「様子を見る」段階ではなかった。
児童相談所は緊急性を判断し、一時保護の措置を取ることになった。
美香は、職員から説明を受けた。
「今日は、おうちには帰りません」
その言葉を聞いた瞬間、美香の身体が震えた。
怖い。
でも、帰らなくていい。
その二つが同時に来た。
「お父さんとお母さんに……怒られます」
職員は、はっきり言った。
「美香さんを守るために、私たちが動きます」
守る。
その言葉を、美香はすぐには信じられなかった。
けれど、保健室の先生がそばで頷いていた。
担任も、村瀬由紀もいた。
誰も美香を責めていなかった。
美香は、小さく聞いた。
「私……帰らなくていいんですか」
「今日は帰らなくていい」
その瞬間、美香はまた泣いた。
助けて。
声にはならなかった。
でも、大人たちはようやく、その言葉を受け取った。
⸻
次回予告
学校と村瀬由紀の通告により、美香は一時保護される。
初めて帰らなくていい夜。
初めて怒鳴り声のない場所。
初めて、必要なものを必要だと言っていい場所。
だが、黒木和正と香織は黙っていない。
次回、第三十話
「児童相談所」
守るための扉が、ようやく開いた。




