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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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空っぽの弁当箱

第二十七話


「空っぽの弁当箱」


 美香はもう、自分がつらいのかどうかも、よくわからなくなっていた。


 お腹が空いている。

 足が痛い。

 服がきつい。

 教室で笑われる。

 家に帰るのが怖い。


 その全部が毎日になりすぎて、心が反応しなくなっていた。


 痩せた身体。

 感情の薄い目。

 言われたことにだけ小さく頷く仕草。


 まるで、感情をどこかに置いてきたロボットのようだった。


 その日の昼休み。


 美香の弁当箱は、ほとんど空だった。


 白ご飯が少し。

 小さな梅干しがひとつ。


 それだけ。


 美香は、誰にも見られないように弁当箱を開けた。


 でも、隠して食べることにも慣れてしまっていた。


 食べ終わるのは早かった。


 空っぽの弁当箱を見ても、悲しいとは思わなかった。


 ただ、何も考えずに蓋を閉めた。


 放課後。


 校門の近くで、村瀬由紀が待っていた。


 その隣には、同級生の村瀬千夏が立っている。


「美香ちゃん」


 呼ばれて、美香はびくっとした。


「こんにちは」


 由紀はやわらかく笑った。


「ちょっとだけ、うち寄っていかない?」


 美香は迷った。


 帰りが遅くなれば、怒られるかもしれない。


 でも、村瀬家の空気は怖くなかった。


 美香は小さく頷いた。


 村瀬家に着くと、由紀は玄関で一足の靴を出した。


 白と水色の、まだきれいなスニーカーだった。


「美香ちゃん、靴、痛いよね」


 美香は黙った。


 否定しなかった。


 由紀は続けた。


「これ、うちの上の子が去年履いてた靴なんだけど、まだ使えるの。よかったら履いて」


 美香は靴を見つめた。


 欲しい。


 痛くない靴を履きたい。


 でも、家に持って帰ったら。


 父に見つかったら。

 母に聞かれたら。


 美香の身体が固まった。


 由紀は、それを見逃さなかった。


「お父さんとお母さんに見つかると、怒られる?」


 美香は、ゆっくり頷いた。


 その一回の頷きに、言葉にできないものが全部詰まっていた。


 由紀は静かに息を吸った。


 責めないように。

 驚かせないように。


「そっか」


 千夏が、美香の隣にしゃがんだ。


「じゃあさ、うち近いし、朝うちに来て履き替えてから学校行けばいいよ」


 美香は顔を上げた。


「え……」


 由紀も頷いた。


「そうしよう。家からは今までの靴で出てきて、うちでこの靴に履き替える。帰りも、うちで履き替えてから帰ればいい」


「でも……」


「大丈夫。ここに置いておけばいいから」


 由紀は靴箱の端を指差した。


「美香ちゃん専用の場所にしよう」


 美香は何も言えなかった。


 胸の奥が、少しだけ熱くなった。


 でも、泣くのも怖かった。


 泣いたら迷惑かもしれない。


 だから、ただ小さく頭を下げた。


「……ありがとうございます」


 由紀は言った。


「お礼はいいよ。足、痛いまま歩くのはつらいから」


 美香は、そっと新しい靴に足を入れた。


 痛くない。


 つま先が当たらない。

 爪が食い込まない。

 歩いても、身体が少し軽い。


 たったそれだけのことなのに、美香は立ったまま動けなくなった。


「どう?」


 千夏が聞く。


 美香は小さく答えた。


「……痛くない」


 由紀は笑った。


「よかった」


 その笑顔を見た瞬間、美香の目に涙が滲んだ。


 でもすぐに袖で拭いた。


「ごめんなさい」


 由紀は首を振った。


「謝らなくていいよ」


 その言葉に、美香はまた固まった。


 謝らなくていい。


 そんなことを言われたのは、いつ以来だろう。


 その日の帰り、美香は元の靴に履き替えた。


 また痛みが戻った。


 でも、明日の朝には村瀬家に寄れば、痛くない靴を履ける。


 それだけで、学校へ行く道が少しだけ短く感じた。


 家に帰ると、和正はテレビを見ていた。


 香織は台所にいた。


「遅かったな」


 和正が言う。


 美香はすぐに頭を下げた。


「ごめんなさい。千夏ちゃんと話してた」


「余計なこと言ってないだろうな」


「言ってない」


「ならいい」


 美香は息を殺して、自分の部屋へ入った。


 ランドセルを下ろし、足を見る。


 爪の周りはまだ赤い。


 でも、美香の頭には、村瀬家の靴箱が浮かんでいた。


 小さな場所。


 自分のために用意された場所。


 家ではないのに、そこには少しだけ安心があった。


 美香は布団の中で、初めて小さく思った。


 明日、村瀬さんの家に行けばいい。


 それは、救いというには小さすぎるものだった。


 けれど、その小ささが、美香を翌日へつないだ。



次回予告


 村瀬家に置かれた一足の靴。


 それは美香にとって、痛みから逃げられる小さな避難場所だった。


 だが、家庭の崩壊は止まらない。


 空腹。

 疲労。

 無表情。

 そして、学校での孤立。


 先生と村瀬由紀は、美香の限界が近いことを感じ始める。


 次回、第二十八話

 「透明人間」


 見えているのに、誰にも本当の姿を見てもらえない。

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