遠足の日
第二十六話
「遠足の日」
夏休みが明けても、美香の表情は戻らなかった。
城南小学校では、秋の遠足の話が出始めていた。
「お弁当、何入れてもらおうかな」
「うちは唐揚げ!」
「卵焼きとウインナー!」
教室の中は楽しそうな声でいっぱいだった。
けれど、美香だけは違った。
遠足。
その言葉を聞いた瞬間、胸が重くなった。
お弁当がいる。
水筒がいる。
敷物がいる。
服も靴も、みんなに見られる。
楽しいはずの行事が、美香には不安のかたまりだった。
家に帰ると、プリントを香織に渡した。
「遠足……」
香織はプリントを見て、ため息をついた。
「またお金かかる」
「ごめんなさい」
「美香が謝ることじゃないけど」
そう言いながらも、香織の声には苛立ちが混じっていた。
和正はテレビの前で缶ビールを飲んでいた。
「遠足?」
「うん」
「弁当くらい、コンビニのおにぎりでよかろ」
香織が小さく言った。
「他の子はちゃんとしたお弁当持ってくるんよ」
「見栄張る金なんかない」
美香は、黙ってプリントを畳んだ。
遠足当日の朝。
弁当箱には、白ご飯と、冷凍食品の小さなおかずが少しだけ入っていた。
唐揚げも、卵焼きもなかった。
でも、美香は文句を言わなかった。
「ありがとう」
そう言った。
香織は返事をしなかった。
集合場所で、同級生たちが弁当の話をしていた。
「今日のお弁当、キャラ弁だって!」
「うちはお母さんが唐揚げいっぱい入れてくれた」
美香は、弁当袋をぎゅっと握った。
靴は相変わらずきつい。
歩くたびに、つま先が痛んだ。
遠足先の公園では、みんなが走り回った。
美香も誘われたが、足が痛くてうまく走れなかった。
「黒木さん、また遅い」
「靴変じゃない?」
笑い声。
昼食の時間になると、美香はみんなから少し離れた場所に座った。
弁当箱を開ける。
白いご飯。
小さなおかず。
それでも、家で食べるよりは安心できるはずだった。
だが、隣を通った子が中を覗き込んだ。
「え、それだけ?」
美香は慌てて蓋を閉めた。
「見ないで」
「なんで?」
「……」
その時、担任の先生が近づいた。
「黒木さん、ここで食べてたの?」
「はい」
「先生も隣、いい?」
美香は驚いて顔を上げた。
先生は責める顔をしていなかった。
ただ、同じレジャーシートの端に腰を下ろした。
「今日はよく歩いたね」
「……はい」
「足、痛くない?」
美香は一瞬、靴を見た。
「大丈夫です」
先生は少しだけ沈黙した。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言っていいんだよ」
美香は何も答えられなかった。
その言葉が、胸の奥に触れた。
でも、言えなかった。
帰り道。
美香は痛む足で歩きながら、ただ考えていた。
遠足は、楽しいもののはずだった。
けれど美香には、疲れと恥ずかしさと、帰宅後の不安だけが残った。
家に帰ると、和正が聞いた。
「楽しかったか」
美香は少し迷ってから答えた。
「うん」
嘘だった。
でも、本当のことを言うより安全だった。
次回予告
遠足の日。
お弁当も、靴も、服も、美香にとっては不安の種だった。
先生は気づく。
足の痛み。
弁当を隠す仕草。
「大丈夫」と繰り返す声。
そして次の日、美香の弁当箱はさらに軽くなる。
次回、第二十七話
「空っぽの弁当箱」
子どもの沈黙は、空腹よりも重い。




