給食だけが楽しみ
第二十五話
「給食だけが楽しみ」
美香にとって、給食だけが救いだった。
温かい汁物。
白いご飯。
ちゃんと分けられたおかず。
家では、食べることさえ気を遣う。
けれど学校では、給食の時間だけは、誰にも「金食い虫」と言われなかった。
夏休みが近づくにつれ、教室は浮き立っていた。
「おばあちゃんち行くんだ」
「海行く!」
「キャンプ!」
その声を聞きながら、美香は黙っていた。
美香にとって夏休みは、楽しみではなかった。
給食がなくなる。
学校という逃げ場がなくなる。
朝から晩まで、家にいなければならない。
親戚の家にも行けなかった。
和正の飲酒運転が親戚中に知れ渡ってから、黒木家は少しずつ疎遠になっていた。
「あそこの家、関わらん方がいい」
そんな空気が、美香にも伝わっていた。
そして夏休みが始まった。
一ヶ月半。
美香にとっては、長すぎる時間だった。
朝から和正が家にいる日がある。
昼間からパチンコへ行く日もある。
香織はパートで疲れ切り、帰ってくると美香にきつく当たった。
「昼ごはん、勝手に食べたと?」
「少しだけ……」
「少しだけって、食費かかるんよ」
「ごめんなさい」
美香は、食べる量を減らした。
その頃、同級生の母親であり、市役所で児童福祉関係の仕事をしている村瀬由紀は、学校と連絡を取り合っていた。
美香の様子。
家庭の状態。
支援金の使われ方への疑い。
だが、直接踏み込むには慎重さが必要だった。
ある日、由紀は娘に言った。
「ねえ、黒木さん、呼んできてくれる?」
「美香ちゃん?」
「うん。遊ぼうって」
娘はうなずき、黒木家の近くまで行った。
「美香ちゃん、遊ぼ」
玄関先に出てきた美香は、驚いた顔をした。
「私?」
「うん。うち来ない?」
美香は一瞬迷った。
家を出られる。
でも、勝手に行ったら怒られるかもしれない。
そこへ香織が奥から声を出した。
「行ってきたら。夕方までには帰ってきなさい」
美香は小さくうなずいた。
「……うん」
村瀬家に着くと、美香は玄関で固まった。
きれいに片づいた部屋。
洗剤の匂い。
冷えた麦茶。
テーブルの上のお菓子。
それだけで、別世界のようだった。
「美香ちゃん、麦茶飲む?」
由紀が優しく聞いた。
「……はい」
「遠慮せんでいいよ」
美香は両手でコップを持ち、少しずつ飲んだ。
由紀は、問い詰めなかった。
ただ、さりげなく見ていた。
細くなった手首。
サイズの合わない服。
袖口からわずかに見えた古い痣。
落ち着かない目。
物音にびくつく肩。
「お昼、食べた?」
由紀が聞くと、美香はすぐに答えた。
「食べました」
でも、その声は少し遅れた。
由紀は、冷蔵庫から小さなおにぎりを出した。
「うち、作りすぎちゃったから、よかったら食べてくれる?」
美香は戸惑った。
「いいんですか?」
「もちろん」
美香は、しばらくおにぎりを見つめた。
そして小さく一口食べた。
その瞬間、目が少しだけ潤んだ。
由紀は見て見ぬふりをした。
助ける時に、相手の恥を暴いてはいけない。
それを知っていた。
その日、美香は少しだけ笑った。
村瀬家の娘とボードゲームをして、麦茶を飲み、おにぎりを食べた。
夕方、帰る時間になると、美香の顔が曇った。
「また来ていいよ」
由紀が言う。
美香は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
帰り際、由紀は静かに言った。
「美香ちゃん。困ったことがあったら、学校の先生でも、私でもいいから言ってね」
美香は一瞬だけ目を上げた。
でも、すぐに伏せた。
「大丈夫です」
また、その言葉だった。
由紀は無理に引き止めなかった。
「そっか。でも、いつでも来ていいからね」
美香はうなずいて、家へ帰っていった。
その背中を見送りながら、由紀は確信に近いものを感じていた。
この子は、危ない。
夏休みは、まだ始まったばかりだった。
けれど、美香にとってはもう、終わりの見えない地獄の入口だった。
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次回予告
夏休み。
給食がなくなり、学校という逃げ場も消えた。
村瀬由紀は美香を家に招き、さりげなく様子を観察する。
見えてきたのは、痩せた身体、怯える目、そして帰宅を怖がる表情。
だが、家庭の中では和正の酒とパチンコがさらに進んでいく。
次回、第二十六話
「遠足の日」
楽しいはずの行事さえ、美香には不安の種になっていた。




