見えない痣
第二十一話
「見えない痣」
田上先生は、職員室で美香のノートを開いていた。
字は、以前より小さくなっていた。
行の隙間に、逃げ込むように書かれた文字。
端まで使われたページ。
消しゴムで強くこすった跡。
そして、最近増えた欠席と体調不良。
「黒木さん、少し気になります」
田上先生は、学年主任にそう言った。
保健室の先生も加わった。
「この前、腕に痣がありました。本人は転んだと言っていましたが、場所が少し不自然でした」
「給食の食べ方も変わっています。かなり急いで食べる日があります」
「服装や匂いのことも、子どもたちの間で言われ始めています」
職員室の空気が重くなった。
誰も、軽く扱ってはいなかった。
けれど、踏み込むには怖さがあった。
児童相談所や警察に通報すれば、美香を守れるかもしれない。
だが、家に連絡が入ったあと、和正の怒りが美香へ向かう可能性もある。
「このままでは、黒木さんが壊れてしまう」
田上先生の声は震えていた。
「でも、動き方を間違えたら、さらに危険になるかもしれません」
学年主任は静かに頷いた。
「記録を続けましょう。保健室、学年、管理職で共有します。本人が話せる場も作る。ただし、家庭には慎重に」
その慎重さは、必要だった。
けれど同時に、時間を奪った。
美香は五年生になった。
担任は変わったが、申し送りは行われた。
新しい担任の先生も、美香を注意深く見ていた。
だが、美香はさらに話さなくなっていた。
「大丈夫です」
「転びました」
「何もありません」
その三つの言葉で、自分を守る。
学校でのいじめもひどくなっていった。
「黒木さん、また同じ服?」
「なんか臭い」
「近く来んで」
誰かが鼻をつまむ。
別の誰かが笑う。
美香は何も言わない。
言い返せば、もっと目立つ。
目立てば、もっと言われる。
家でのことを知られたら、もっと怖い。
だから黙る。
休み時間、美香は教室の隅にいた。
給食の時間だけは、まだ少しだけ救いだった。
温かい汁物。
白いご飯。
ちゃんと用意されたおかず。
でも、それすらもからかいの材料になった。
「黒木さん、食べるの早すぎ」
「家で食べてないんじゃない?」
笑い声。
美香は箸を止めた。
本当のことに近い言葉ほど、傷は深かった。
放課後、先生に呼ばれた。
「黒木さん、最近つらいことない?」
美香は首を振った。
「ないです」
「学校で何か言われてない?」
「大丈夫です」
「家では?」
その瞬間、美香の顔がこわばった。
「普通です」
先生は、それ以上聞けなかった。
美香の目が、はっきり怯えていたからだった。
その日の帰り道。
美香は、ランドセルを背負ったままゆっくり歩いた。
家に帰れば父がいるかもしれない。
母は疲れているかもしれない。
学校ではまた明日、誰かに臭いと言われるかもしれない。
どこへ行っても、息がしにくい。
小学五年生の春。
美香は、まだ子どもだった。
けれどもう、子どもらしく泣くことも、甘えることも、助けてと言うこともできなくなっていた。
見えない痣は、身体だけではなかった。
心の奥に、誰にも見えない青黒い跡が、少しずつ広がっていた。
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次回予告
学校は美香の異変を共有し始めた。
だが、踏み込めない時間の中で、美香は五年生になる。
家では暴力と沈黙。
学校では匂いと服装を理由にしたいじめ。
給食だけが、かすかな救い。
そして、美香はますます自分の存在を小さくしていく。
次回、第二十二話
「お風呂に入れない」
清潔でいることさえ、許されない生活が始まっていた。




