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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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服の下

 第二十話

「服の下」


 美香は、長袖を着るようになった。


 まだ本格的な冬ではなかったが、朝の冷え込みを理由にすれば不自然ではなかった。


 城南小学校の教室でも、上着を脱がない。


「黒木さん、暑くない?」


 隣の席の子に聞かれても、美香は首を振った。


「寒いけん」


 本当は、袖の下に青紫色の痣があった。


 父・和正の手が掴んだ跡。

 椅子にぶつかった跡。

 転んだことにされた跡。


 頬の赤みは、数日で消えた。


 けれど、服の下の痣は消えるまでに時間がかかった。


 そして、消える前に、また新しい痣ができた。


 和正は、顔には手を出さなくなった。


 学校で見つかる。


 香織がそう言ったからだった。


「顔はやめて。学校に言われる」


 美香は、その言葉を聞いた時、胸の奥が冷たくなった。


 母は、自分を守ろうとしているのではない。


 見つからないようにしている。


 そう感じた。


 その夜から、痛みは服で隠れる場所に移った。


 腕。

 肩。

 背中。

 太もも。


 食卓で箸を落とした。

 洗濯物を取り込むのが遅れた。

 風呂の時間が長かった。

 学校の集金袋を出すのを忘れた。


 理由は、何でもよかった。


「何回言わせるんだ」


「ごめんなさい」


「ごめんなさいで済むと思うな」


「ごめんなさい……」


 美香は、身体を小さくして耐えることを覚えた。


 声を出さない。

 泣かない。

 抵抗しない。


 泣けば、余計に怒られる。


 だから、息を止める。


 力を抜く。


 早く終わるのを待つ。


 小学四年生の子どもが覚えてはいけないことを、美香は覚えていった。


 学校では、田上先生が注意深く美香を見ていた。


 頬の赤み。

 マスク。

 震える字。

 そして、体育の着替えを嫌がる様子。


「黒木さん、今日の体育、体調悪い?」


「少し……」


「保健室行く?」


「大丈夫です」


 大丈夫。


 またその言葉だった。


 田上先生は、すぐに踏み込めなかった。


 子どもは、急に問い詰められると閉じてしまう。


 まして美香は、家のことを話すと怒られると学んでしまっている。


 だから先生は、焦らず、見守りながら記録をつけ始めた。


 欠席。

 体調不良。

 筆記用具の不足。

 服装の変化。

 表情の暗さ。

 給食の食べ方。


 美香は、給食を以前より早く食べるようになっていた。


 食べられる時に食べる。


 家で十分に食べられない日が増えたからだった。


 ある日の体育。


 更衣室で、同級生の一人が美香の腕を見た。


「え、なにそれ」


 美香は慌てて袖を下ろした。


「なんでもない」


「痣?」


「転んだ」


「そんなとこ転んでできる?」


 数人の視線が集まる。


 美香は顔を伏せた。


「ほんとに転んだだけ」


 その声は小さかった。


 教室に戻ったあと、その話は少しずつ広がった。


「黒木さん、痣あった」


「なんか怖くない?」


「家で何かあったんかな」


「知らん」


 心配する声もあった。


 けれど、からかう声もあった。


「また転んだん?」


 誰かが笑った。


 美香は答えなかった。


 家のことを知られるのが怖い。

 でも、知られないままも苦しい。


 その二つの間で、美香は動けなくなっていた。


 その日の夕方。


 田上先生は、美香を教室に残した。


「黒木さん」


「はい」


「腕、痛いところある?」


 美香は固まった。


「……ないです」


「本当に?」


「転んだだけです」


 先生は静かに言った。


「黒木さんが悪いことをしたと思って聞いているんじゃないよ」


 美香の目が揺れた。


「困っていることがあったら、先生は聞きたい」


「困ってません」


「そっか」


 先生はそれ以上、責めなかった。


 ただ、机の上に新しい鉛筆を一本置いた。


「これは先生の予備。忘れた時に使っていいよ」


 美香はそれを見た。


 欲しい。


 でも、受け取ったら家で何か言われるかもしれない。


「……大丈夫です」


「じゃあ、教室に置いておくね。必要な時だけ使って」


 先生は、逃げ道を残した。


 美香は小さくうなずいた。


 帰り道。


 美香はランドセルを背負って、ゆっくり歩いた。


 家に帰りたくなかった。


 でも帰らなければならない。


 玄関の前に立つと、胸が苦しくなる。


 ドアの向こうから、テレビの音が聞こえた。


 父はいる。


 美香は、鍵を開ける前に深呼吸した。


 静かに入ろう。

 音を立てないように。

 怒らせないように。


「ただいま……」


 居間には、和正が座っていた。


 テーブルには、空き缶が一本。


 まだ夕方なのに。


「遅かったな」


 美香の身体が固まった。


「先生に……呼ばれて」


「何を話した」


「何も……」


「何もないのに呼ばれるわけないだろ」


「ほんとに……」


 和正の目が鋭くなった。


「家のこと、言ったんじゃないだろうな」


 美香は必死に首を振った。


「言ってない」


「本当か」


「言ってない」


「嘘ついたらわかるぞ」


「言ってない……ごめんなさい」


 その日の美香は、何もされなかった。


 だが、何もされないことが安心ではなくなっていた。


 いつ来るかわからない。


 その恐怖だけが残った。


 夜、美香は布団の中で腕の痣を見た。


 青紫色の跡。


 自分の身体なのに、自分のものではないようだった。


 痛みは、時間が経てば少しずつ薄れる。


 けれど、怖さは薄れなかった。


 服の下に隠された傷は、誰にも見えない。


 見えないから、なかったことにされる。


 でも、美香の身体には確かに残っていた。


 助けて。


 その言葉が喉まで上がる。


 けれど、声にはならない。


 言えば、もっと怒られる。


 言えば、家がもっと壊れる。


 言えば、自分のせいになる。


 そう思ってしまうから。


 美香は、毛布を首元まで引き上げた。


 そして、服の下の痛みを隠すように、身体を丸めた。


 黒木家では、傷は見えない場所へ移されていく。


 そして美香は、見えない傷ほど深く残ることを、まだ知らなかった。


 次回予告


 暴力は、服で隠れる場所へ移っていった。


 腕。

 背中。

 太もも。

 そして、心。


 田上先生は違和感に気づき始めるが、美香は「転んだだけ」と繰り返す。


 家では、和正が学校に知られることを恐れ、香織は止められない。


 次回、第二十一話

「見えない痣」


 見えない場所にある傷ほど、誰にも届きにくい。

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