ごめんなさい
第十九話
「ごめんなさい」
美香は、最近よく謝るようになっていた。
茶碗を置く音が少し大きかっただけで。
「ごめんなさい」
宿題の鉛筆が転がっただけで。
「ごめんなさい」
父と母の声が少しでも強くなると、何もしていなくても。
「ごめんなさい」
謝れば、少しだけ空気が弱まる気がした。
怒鳴り声が止まることもあった。
母がこちらを見なくなることもあった。
父が舌打ちだけで済ませることもあった。
だから美香は、謝ることを覚えた。
けれど、その夜は違った。
和正は、日雇いの現場から帰ってきた時から機嫌が悪かった。
靴を脱ぐ音が荒い。
冷蔵庫を開ける音が強い。
缶ビールの音。
プシュ。
美香の背中が固くなる。
食卓には、白ご飯と味噌汁、安い豆腐だけが並んでいた。
和正はそれを見て、鼻で笑った。
「またこれか」
香織が小さく言う。
「今月、厳しいけん」
「毎月厳しいやろ」
「……」
「俺が悪いって言いたいんか」
「言ってない」
また始まる。
美香は茶碗を持つ手に力を入れた。
その時、和正が低く言った。
「学校にも、近所にも、俺が稼げんって思われとるんやろうな」
香織は黙った。
美香は、思わず口を開いてしまった。
「父ちゃん……お酒、やめたら?」
部屋の空気が止まった。
言った瞬間、美香は失敗したと思った。
和正の目が、ゆっくり美香に向いた。
「なんて?」
「……ごめんなさい」
「今、なんて言った」
「ごめんなさい」
「俺に説教か」
「違う……」
「小学生のくせに、俺に酒やめろって?」
美香は首を振った。
「父ちゃん、体に悪いから……」
その言葉が、和正の中の何かに触れた。
劣等感。
焦り。
恥。
怒り。
全部が、一番弱い場所へ流れ込んだ。
次の瞬間、和正の手が振り下ろされた。
鋭い音が、部屋に響いた。
美香は椅子から崩れるように床へ座り込んだ。
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
頬が熱い。
耳の奥が鳴っている。
視界が揺れる。
香織が息を呑んだ。
「和正……!」
和正自身も、自分の手を見ていた。
だが、すぐに顔を歪めた。
「親に向かって、偉そうなこと言うからや」
美香は床に座ったまま、震える声で言った。
「ごめんなさい」
それしか出なかった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
頬の痛みよりも、父の目の方が怖かった。
香織は美香に駆け寄ろうとした。
けれど、和正が立ち上がる音に、足が止まった。
「甘やかすな」
その一言で、香織は動けなくなった。
美香は見てしまった。
母が、自分を守ろうとして、守れなかった瞬間を。
その夜、美香は布団の中で頬を押さえていた。
熱を持っている。
鏡を見るのが怖かった。
泣く声を出せば、また怒られるかもしれない。
だから、声を殺して泣いた。
ごめんなさい。
何に謝っているのか、もうわからなかった。
お酒をやめてと言ったこと。
父を怒らせたこと。
母を困らせたこと。
自分がここにいること。
全部に謝っていた。
翌朝、頬の赤みは少し残っていた。
香織はそれを見て、目を逸らした。
「……マスクして行きなさい」
美香はうなずいた。
「うん」
「学校で何か聞かれても、転んだって言うのよ」
「うん」
それは、母の頼みではなく、命令だった。
美香はマスクをつけ、ランドセルを背負った。
玄関を出る前、和正はまだ寝ていた。
美香は小さく言った。
「行ってきます」
返事はなかった。
学校で、田上先生はすぐに気づいた。
「黒木さん、今日マスク?」
「風邪気味です」
「熱は?」
「ないです」
「頬、痛くない?」
美香の心臓が跳ねた。
「転びました」
田上先生は、美香をしばらく見つめた。
嘘だと、たぶん気づいていた。
でも、その場で問い詰めることはしなかった。
「そっか。痛かったら言ってね」
「はい」
美香は席に着いた。
ノートを開く。
鉛筆を持つ。
けれど、字が少し震えた。
その日から、美香はさらに慎重になった。
父の前で言葉を選ぶ。
母の前でも言葉を選ぶ。
食卓で余計なことを言わない。
目立たない。
音を立てない。
欲しがらない。
逆らわない。
そして何かあれば、すぐに謝る。
「ごめんなさい」
それは、美香を守るための言葉だった。
けれど同時に、美香自身を少しずつ削っていく言葉でもあった。
黒木家で最初に振り下ろされた暴力は、決して最後にはならなかった。
その日を境に、家の中の境界線がひとつ壊れた。
怒鳴り声だけだった夜に、手が加わった。
美香はまだ知らない。
この一撃が、長い苦しみの始まりになることを。
そしていつか、自分を守るために本気で怒ってくれる大人たちに出会うことを。
⸻
次回予告
美香の言葉が、和正の逆鱗に触れた。
初めて振り下ろされた暴力。
香織は止められず、美香は「転んだ」と嘘をつく。
だが、学校の先生は違和感を見逃さない。
隠される頬。
震える字。
増えていく「ごめんなさい」。
次回、第二十話
「服の下」
見えない場所に、傷は隠されていく。




