缶ビールの音
第十八話
「缶ビールの音」
プシュ。
その音が、黒木家の夜を決めるようになっていた。
冷蔵庫の扉が開く音。
缶を取り出す音。
プルタブに指をかける音。
そして、プシュ、という乾いた音。
美香は、その音を聞くたびに肩を小さく震わせるようになっていた。
以前は違った。
父が仕事から帰ってきて、缶コーヒーを開ける音は、安心の音だった。
作業着の匂い。
トラックの話。
安全第一という言葉。
けれど今、缶の音は違う。
父が苛立ちを飲み込めなくなる合図だった。
その夜も、和正は日雇いの仕事から帰ってきた。
顔色は悪く、作業着は土埃で汚れていた。
「ただいま」
声に力はなかった。
香織は台所で、安いもやしを炒めていた。
「おかえり」
美香は宿題をしていたが、鉛筆を動かす手を止めた。
父の足音が重い。
今日は、機嫌が悪い。
そう感じた。
和正は冷蔵庫を開けた。
缶ビールを取り出す。
プシュ。
美香の背筋が固まった。
香織が言った。
「ご飯、先に食べる?」
「飲んでからでいい」
「空きっ腹で飲むと、体に悪いよ」
「うるさいな」
たったそれだけで、空気が変わった。
香織はすぐに黙った。
美香はノートに目を落とした。
けれど、数字が読めない。
父の声。
母の息遣い。
缶を置く音。
そればかりが耳に入る。
食卓につくと、和正は皿を見た。
「また、もやしか」
香織は小さく言った。
「安かったけん」
「毎日毎日、こんなんばっかりやな」
「お金がないんやけん、仕方ないやろ」
その言葉に、和正の眉が動いた。
「俺が悪いって言いたいんか」
「そんなこと言ってない」
「言っとるやろ、顔が」
「言ってないって」
美香は急いでご飯を口に入れた。
早く食べ終わりたい。
ここにいたくない。
でも、残したら怒られるかもしれない。
和正は缶ビールをもう一口飲んだ。
「先生が来たんやろ」
香織の手が止まった。
「……うん」
「支援がどうとか、給付金がどうとか」
「美香のために必要なことやけん」
「俺が稼げんって、学校にまで知られたわけやな」
「そういう話じゃない」
「そういう話やろ!」
和正の声が跳ね上がった。
美香は箸を落としそうになった。
「ごめんなさい」
反射のように口から出た。
和正が美香を見た。
「なんでお前が謝るんだよ」
美香は固まった。
なぜ謝ったのか、自分でもわからなかった。
ただ、声が大きくなったら、謝らなければならない気がした。
香織が言った。
「美香、早く食べて宿題しなさい」
「うん」
美香は椀を持ち、味噌汁を飲んだ。
薄い味だった。
でも、喉を通すのが苦しかった。
その夜、和正は二本目の缶を開けた。
プシュ。
美香は自分の部屋で布団に入っていた。
けれど眠れなかった。
壁の向こうから、父と母の声が聞こえる。
「俺だって働いとる」
「わかっとる」
「日雇いでも何でも行っとるやろ」
「わかっとるって」
「なのに、学校にまで心配されて」
「美香が困っとったんよ」
「俺のせいか」
「そんなこと言ってない」
「全部俺のせいなんやろ!」
何かが床に置かれる音がした。
強い音だった。
美香は毛布をぎゅっと握った。
缶ビールの音。
父の怒鳴り声。
母の小さな謝罪。
それらが、少しずつ美香の中に染み込んでいった。
翌朝。
台所には空き缶が二本残っていた。
美香はそれを見ないようにして、学校へ行く準備をした。
「行ってきます」
香織は疲れた顔で言った。
「行ってらっしゃい」
和正は寝ていた。
返事はなかった。
学校では、田上先生が美香の顔を見て、少しだけ眉を寄せた。
「黒木さん、眠れてる?」
「はい」
「本当に?」
「大丈夫です」
また、その言葉だった。
大丈夫。
美香はそれ以外の答え方を知らなくなっていた。
授業中、窓の外で作業員が空き缶を踏む音がした。
カコン。
その瞬間、美香はびくっと肩を震わせた。
隣の席の子が笑った。
「なにびびってんの?」
美香は首を振った。
「なんでもない」
なんでもない。
大丈夫。
ごめんなさい。
その三つの言葉が、美香の口癖になり始めていた。
帰宅すると、香織は支援センターに電話をかけていた。
「はい……はい、学校の先生から教えていただいて……」
その声は、少し震えていた。
美香は玄関で靴を脱ぎながら、黙って聞いていた。
助けてもらえるのかもしれない。
そう思う一方で、父が知ったらまた怒るかもしれないとも思った。
夜。
和正が帰ってきた。
冷蔵庫を開ける音。
缶を取り出す音。
プシュ。
美香は、もうその音だけで、その日の夜が怖くなった。
黒木家では、缶ビールの音が合図になっていた。
父が壊れていく音。
母が黙っていく音。
美香が小さくなっていく音。
そして、家族の会話が、怒鳴り声と謝罪に変わっていく音だった。
次回予告
缶ビールの音に、身体が反応するようになった美香。
父の怒り。
母の沈黙。
支援を受けることへの恥と苛立ち。
家庭の中で、美香は少しずつ「謝れば場が収まる」と覚えていく。
悪いことをしていなくても。
何も言っていなくても。
ただそこにいるだけでも。
次回、第十九話
「ごめんなさい」
子どもが最初に覚えた防御の言葉は、自分を責める言葉だった。




