怒鳴り声の食卓
第十七話
「怒鳴り声の食卓」
食卓は、少し前まで家族が集まる場所だった。
焼き魚と味噌汁。
安い惣菜。
美香の学校の話。
和正の仕事の愚痴。
香織の小さな笑い声。
それでも、そこにはまだ家族の形があった。
だが今、食卓は変わっていた。
皿の数は減り、会話は消え、代わりに怒鳴り声が落ちるようになった。
「またパチンコ行ったと?」
香織が言った瞬間、和正の箸が止まった。
「なんや、その言い方」
「生活費、足りんのよ」
「わかっとる」
「わかっとるなら、なんで使うと?」
「増やそうと思ったんやろ!」
「減っとるやん!」
声が大きくなる。
美香は、ご飯を小さく口に運んだ。
噛んでも味がしなかった。
食卓で音を立てない。
余計なことを言わない。
目を合わせない。
それが、美香が覚え始めた生き方だった。
数日後、美香は熱を出した。
朝から顔が赤く、身体がだるかった。
城南小学校へ行く支度をしようとしても、ランドセルがやけに重い。
「母ちゃん……頭痛い」
香織はパートへ行く準備をしながら振り向いた。
「熱あると?」
額に手を当てた瞬間、香織の顔が曇った。
「熱い……」
体温計は三十九度近くを示した。
だが、すぐに病院へ行こうとはならなかった。
財布の中には、ほとんどお金がなかった。
和正は居間で黙っていた。
「病院……行った方がいいよね」
香織が言う。
和正は低く答えた。
「金、あるんか」
「……」
「明日まで様子見たら下がるかもしれん」
美香は布団の中で、その会話を聞いていた。
病院に行くにも、お金がいる。
自分が熱を出すことも、家の負担になる。
そう思った。
「大丈夫……寝てたら治る」
美香はかすれた声で言った。
大丈夫ではなかった。
それでも、美香はそう言った。
翌日、熱は少し下がったが、顔色は悪いままだった。
登校した美香の様子に、担任の田上先生はすぐ気づいた。
「黒木さん、顔色悪いよ」
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
授業中、美香は何度もぼんやりした。
給食も、いつもより食べるのが遅い。
田上先生は、もう見過ごせなかった。
放課後、先生は家庭訪問を決めた。
黒木家のアパートを訪ねると、香織は驚いた顔で扉を開けた。
「先生……」
「突然すみません。美香さんの様子が気になりまして」
部屋は、以前より散らかっていた。
洗濯物が隅に積まれ、台所には空き缶が数本置かれている。
田上先生は、責めるような顔はしなかった。
ただ、静かに話した。
「美香さん、体調を崩していたようですね」
「少し熱が出ただけです」
「医療機関には?」
香織は目を逸らした。
「……様子を見ていました」
その沈黙で、先生は察した。
「お金のことで困っているなら、使える制度があります」
香織は顔を上げた。
「制度?」
「支援センターや、行政の相談窓口があります。医療費や学校用品、給食費のことも相談できます。条件によっては給付金や就学援助が使える場合もあります」
香織は黙って聞いていた。
和正は部屋の奥で、気まずそうに座っていた。
田上先生は続けた。
「責めに来たわけではありません。ただ、美香さんに必要なことを、必要な時にしてあげてほしいんです」
香織の顔が歪んだ。
「わかってます……でも」
「一人で抱え込まないでください。学校からもつなげます。支援を受けることは恥ずかしいことではありません」
美香は隣の部屋で、その声を聞いていた。
先生は怒っていない。
責めていない。
でも、家の中に外の大人が入ってきたことが、少し怖かった。
その夜、香織は先生から渡された窓口のメモを見つめていた。
和正は言った。
「学校にまで心配されて、恥ずかしいな」
香織は反論しなかった。
以前なら言い返したかもしれない。
今は、怒らせない方を選んだ。
「……でも、美香のためやけん」
小さな声だった。
和正は舌打ちした。
美香は布団の中で目を閉じた。
先生が言った言葉だけが、耳に残っていた。
美香さんに必要なことをしてあげてほしい。
それは当たり前の言葉だった。
けれど黒木家では、その当たり前すら難しくなっていた。
⸻
次回予告
高熱を出しても病院へ行けなかった美香。
見かねた担任は家庭訪問し、支援センターや給付金、就学援助の手続きを伝える。
だが、支援の話は和正の劣等感を刺激する。
香織は怒らせないように言葉を選び、美香はますます自分を責める。
次回、第十八話
「支援の紙」
救いの手は、届く前に家の中でねじ曲げられていく。




