再就職
第十三話
「再就職」
美香の鉛筆は、もう鉛筆とは呼べないほど短くなっていた。
指でつまむのも難しい。
書こうとすると、爪がノートに当たる。
それでも美香は、ぎりぎりまで使っていた。
消しゴムも同じだった。
角はすべて丸くなり、指先ほどの大きさしかない。
強くこすると破れそうで、間違えた字を消すのにも時間がかかった。
ノートも、余白という余白を使っていた。
行と行の間。
ページの端。
前に書いた字の隙間。
それでも、とうとう限界が来た。
算数の時間。
美香は短くなった鉛筆を持ち、問題を書こうとした。
だが、芯が折れた。
カチッ。
小さな音がして、黒い芯が机の上に転がる。
美香はしばらく、それを見つめていた。
もう削れない。
もう書けない。
放課後、美香はランドセルを背負ったまま、台所に立つ香織に声をかけた。
「母ちゃん……」
「なに?」
「鉛筆、買ってほしい」
香織の手が止まった。
「この前も言わんかった?」
「まだ言ってない」
「学校にあるやつ使えばいいやん」
「もう、書けんと」
美香は筆箱を開けた。
短くなった鉛筆。
小さくなりすぎた消しゴム。
余白だらけに見えて、実は端までびっしり使われたノート。
香織はそれを見た。
見たのに、すぐには財布を出さなかった。
「今月、厳しいんよ」
「うん……」
「ノートも?」
「あと一ページ」
「なんで早く言わんかったと」
その言葉に、美香はうつむいた。
早く言えば、きっと怒られると思った。
だから言えなかった。
けれど、そう言えばもっと怒られる気がして、黙った。
香織はため息をついた。
「明日、買えたら買う」
「……うん」
「買えたら、やけんね」
「うん」
その夜、和正は面接から帰ってきた。
顔は暗かった。
「どうやったと?」
香織が聞く。
「だめやった」
「また?」
「退職理由、聞かれた」
「……」
「飲酒運転で懲戒解雇なんて言ったら、そこで終わりや」
和正は椅子に座り込んだ。
「どこも雇ってくれん」
香織の目に、疲れと怒りが浮かんだ。
「だから、あの時飲まんかったらよかったやん」
「それを今さら言ってどうなる」
「今さらでも言いたくなるやろ!」
また、声が大きくなる。
美香は筆箱を抱えたまま、自分の部屋の隅に座っていた。
鉛筆を買ってほしい。
たったそれだけのことが、家の中では大きな問題になってしまう。
翌日。
美香は、芯の折れた鉛筆を無理やり削ろうとした。
だが、短すぎて鉛筆削りに入らない。
仕方なく、前に使っていた古い色鉛筆の黒で授業を受けた。
字は薄く、少し青みがかっていた。
担任の先生は、提出されたノートを見て手を止めた。
城南小学校四年二組。
担任の田上先生は、普段から美香の変化に少しずつ気づいていた。
以前より表情が暗い。
授業中、何度もぼんやりしている。
給食を残さず、むしろ急いで食べる。
そして、最近のノート。
文字が異様に小さい。
余白がほとんどない。
消し跡が黒く残っている。
紙が破れかけている。
先生は、美香の筆箱をちらりと見た。
そこには、ほとんど使えない鉛筆と消しゴムしか入っていなかった。
「黒木さん」
呼ばれて、美香はびくっと肩を震わせた。
「はい」
「鉛筆、書きにくくない?」
「大丈夫です」
美香は反射のように答えた。
大丈夫。
最近、その言葉ばかり使っている。
先生は穏やかに聞いた。
「新しい鉛筆は家にある?」
「……あります」
本当はなかった。
でも、そう答えてしまった。
先生は少しだけ表情を曇らせた。
「そっか。困ったら言ってね」
「はい」
その日の放課後。
田上先生は職員室でしばらく考え込んだあと、黒木家に電話をかけた。
香織が出た。
「はい、黒木です」
「城南小学校の田上です。美香さんのことで、少しお話がありまして」
香織の声が硬くなった。
「美香が何かしましたか?」
「いえ、そうではありません。ただ、最近ノートや筆記用具のことで、少し気になることがありまして」
「筆記用具?」
「鉛筆や消しゴムがかなり使い込まれていて、ノートも余白までぎりぎり使っている様子でした。ご家庭で何かお困りのことがあれば、学校にも相談できますので」
電話の向こうで、香織は黙った。
その沈黙の中に、恥ずかしさと苛立ちが混じっていた。
「……すみません。買いますので」
「責めているわけではありません。美香さんが困っていないか心配で」
「大丈夫です」
香織はそう言った。
美香と同じ言葉だった。
大丈夫。
大丈夫ではない家ほど、その言葉を使う。
電話を切ったあと、香織はしばらく立ち尽くしていた。
学校に気づかれた。
生活が苦しいことを見られた。
その恥ずかしさが、怒りに変わるまでに時間はかからなかった。
夕方、美香が帰宅した。
「ただいま」
香織はすぐに言った。
「美香」
「なに?」
「学校で何か言った?」
美香の顔がこわばった。
「何も言ってない」
「先生から電話があった」
「……」
「鉛筆がどうとか、ノートがどうとか。そんなことまで先生に見せて、恥ずかしいやろ」
「見せたわけじゃない……」
「じゃあなんで電話が来ると?」
美香は言葉を失った。
先生は心配してくれた。
でも、その心配が家では怒りになる。
それを、美香はこの日知った。
「ごめんなさい」
美香は謝った。
悪いことをしたわけではない。
でも、謝るしかなかった。
香織は財布から小銭を出し、テーブルに置いた。
「明日、鉛筆と消しゴムだけ買いなさい。ノートはまだ最後まで使えるやろ」
「うん」
「無駄に使わんでよ。お金ないんやけん」
「うん」
その夜、和正はまた酒を飲んだ。
面接に落ちた悔しさ。
学校から電話が来た恥ずかしさ。
香織の苛立ち。
美香の沈黙。
全部が狭い部屋に詰まっていた。
美香は、テーブルの上の小銭を見つめた。
鉛筆と消しゴムを買える。
普通なら嬉しいはずだった。
けれど、美香の胸には、重いものだけが残っていた。
欲しいと言えば怒られる。
困っていると先生に気づかれても怒られる。
黙っていても、いつか限界が来る。
じゃあ、どうすればいいのだろう。
小学四年生の美香には、答えがわからなかった。
ただひとつだけ、覚えた。
困っていることを、外に見せてはいけない。
それは、後に美香をさらに追い詰めていく癖になる。
⸻
次回予告
鉛筆、消しゴム、ノート。
子どもにとって当たり前のものさえ、黒木家では重荷になり始めた。
先生の心配は、家では怒りに変わる。
再就職は決まらず、和正の焦りは深くなる。
面接。
退職理由。
沈黙。
落選通知。
次回、第十四話
「面接」
過去は、履歴書の空白よりも重かった。




