表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/16

止まった給料日

第十二話


「止まった給料日」


 給料日が来ても、黒木家の空気は明るくならなかった。


 以前なら、その日は少しだけ違っていた。


 家賃を払う。

 光熱費を払う。

 食費を分ける。

 美香の学校で必要なものを買う。


 余裕はなくても、和正の給料が入ることで、家の中に一度だけ小さな息継ぎが生まれていた。


 けれど、その息継ぎが消えた。


 香織は通帳を見つめていた。


 何度見ても、数字は増えていない。


 和正の給料は、もう入らない。


 台所の椅子に座った香織は、深く息を吐いた。


「……どうすると」


 和正は居間で求人情報誌を開いていた。


 だが、目は文字を追っていなかった。


「探しよる」


「探しよるだけじゃ、お金は入らん」


「わかっとる」


「わかっとるって、何回言うと?」


 香織の声には、疲れが混じっていた。


 怒りだけではない。


 恐怖だった。


 家賃。

 食費。

 電気代。

 水道代。

 美香の学校用品。

 給食費。


 暮らしは、待ってくれない。


 香織は、スーパーのパートの時間を増やした。


 短時間勤務だったはずが、昼過ぎまでになり、やがて夕方近くまで入るようになった。


「黒木さん、大丈夫? 無理してない?」


 職場の同僚に声をかけられても、香織は笑ってごまかした。


「大丈夫です。子どもも大きくなってきたし」


 大丈夫ではなかった。


 足は痛い。

 腰は重い。

 帰れば洗濯と夕飯が待っている。

 それでも、働かなければ家が回らない。


 だが、香織のパート代だけでは、和正の給料には遠く及ばなかった。


 買えるものが減っていく。


 夕食のおかずが一品減る。

 肉よりも安いもやしや豆腐が増える。

 菓子パンは買わなくなる。

 美香が欲しがったノートも、すぐには買えない。


「母ちゃん、算数のノートなくなりそう」


 美香が言うと、香織は財布を開けた。


 小銭を数える。


「まだ少し余っとるやろ」


「あと二ページ」


「じゃあ、きれいに使いなさい」


「うん……」


 美香はそれ以上言わなかった。


 以前なら、香織は「帰りに買っとくね」と言ってくれた。


 今は違う。


 言ってはいけないことが増えていく。


 欲しい。

 足りない。

 買って。


 その言葉が、家の空気を悪くすることを、美香は覚え始めていた。


 ある夜。


 食卓には、ご飯と味噌汁と、少しの卵焼きだけが並んでいた。


 美香は黙って食べていた。


 和正は求人情報誌を横に置いたまま、箸を動かしていない。


 香織が言った。


「今日、面接どうやったと?」


「だめやった」


「また?」


「退職理由聞かれた」


「なんて言ったと?」


「正直に言うしかないやろ」


「そしたら落ちるに決まっとるやん」


「じゃあ嘘つけって言うとか」


「生活どうするとって言いよると!」


 香織の声が鋭くなる。


 美香は箸を止めた。


 和正が低く言う。


「俺だけが悪いみたいに言うな」


 香織は目を見開いた。


「悪いやろ」


「わかっとるって言っとるやろ!」


 和正の声が部屋に響いた。


 美香は肩を震わせた。


 その瞬間、和正の目が美香に向いた。


「……なんや、その顔」


 美香は慌てて首を振った。


「何でもない」


「何でもないなら、さっさと食え」


 その言い方は、以前の父とは違っていた。


 美香は、卵焼きを小さく切って口に入れた。


 味がしなかった。


 香織も苛立っていた。


「美香、こぼさんで。洗濯増やさんでよ」


「ごめんなさい」


「あと、電気つけっぱなしにせんで。お金かかるんやけん」


「うん」


「お風呂も長く入らんで。ガス代かかる」


「うん」


 それは、まだ暴言ではなかった。


 けれど、暮らしの余裕のなさが、美香の一つ一つの行動に向けられ始めていた。


 食べること。

 電気を使うこと。

 水を使うこと。

 ノートを欲しがること。


 子どもが普通に生きるために必要なことが、少しずつ“迷惑”のように扱われていく。


 美香は、それを敏感に感じ取った。


 翌朝。


 美香は学校へ行く前、ランドセルの中を何度も確認した。


 鉛筆は短くなっている。

 消しゴムは小さい。

 ノートは残りわずか。


 でも、言わなかった。


 香織はパートに行く準備で忙しく、和正は布団の中で背中を向けていた。


「行ってきます」


 美香が言う。


 香織は財布の中を見ながら返した。


「はい、行ってらっしゃい」


 和正からの返事はなかった。


 玄関を出たあと、美香は一度だけ振り返った。


 扉の向こうから、ため息が聞こえた気がした。


 城南小学校では、友達が明るく話していた。


「昨日、新しい筆箱買ってもらった」


「いいなー」


「今度の日曜、映画行くんだ」


「うちも行きたい」


 美香は笑ったふりをした。


 自分の家でそんな話をしたら、きっと空気が重くなる。


 だから、何も言わなかった。


 給食の時間。


 美香はいつもより丁寧に食べた。


 温かい汁物。

 白いご飯。

 おかず。


 学校の給食だけが、一日の中で安心して食べられる時間になり始めていた。


 そのことに、美香自身はまだ気づいていなかった。


 ただ、家で食べる時より、給食の方が胸が苦しくならなかった。


 夕方。


 香織は疲れ切った顔で帰ってきた。


 パートの時間を増やした分、帰宅は遅くなった。


 美香が洗濯物を取り込もうとして、少し落としてしまった。


「あっ」


 香織がそれを見た瞬間、声を荒げた。


「何しよると!」


「ごめんなさい」


「洗い直しやん! 水道代も洗剤もただじゃないんよ!」


「ごめんなさい……」


 美香はすぐに謝った。


 泣きそうになったが、泣かなかった。


 泣けば、また怒られる気がした。


 香織は言ったあとで、一瞬だけ後悔した顔をした。


 けれど、謝らなかった。


 余裕がなかった。


 その夜、和正は酒を飲んだ。


 仕事が決まらない。

 面接で落とされる。

 香織に責められる。

 家にいても居場所がない。


 缶ビールの音が、台所に響いた。


 プシュ。


 美香は、その音を聞いて顔を上げた。


 以前は、父の仕事のあとに聞こえる音だった。


 今は違う。


 何かが始まる前の音に聞こえた。


 和正はテレビを見ながら、低くつぶやいた。


「俺だって、好きでこうなったわけじゃない」


 香織が言った。


「でも、飲酒運転したのはあんたやろ」


「うるさいな」


「うるさいって何?」


「毎日毎日、金、金、金って」


「お金がないから言いよるんやろ!」


 また声が大きくなる。


 美香は自分の部屋の隅で、耳をふさいだ。


 でも、声は聞こえた。


 家の壁は薄かった。


 怒鳴り声は、どこまでも入り込んできた。


 美香は膝を抱えた。


 私がノート欲しいって言ったからかな。

 私が洗濯物を落としたからかな。

 私が食べるから、お金が減るのかな。


 子どもは、家の問題を自分のせいにしてしまう。


 誰もそう教えなくても、そう思ってしまう。


 その夜、美香は眠る前に、短くなった鉛筆を筆箱から出した。


 まだ使える。

 まだ大丈夫。

 まだ言わなくていい。


 そう自分に言い聞かせた。


 黒木家の給料日は、止まった。


 そして、それと同時に、美香の中の子どもらしさも少しずつ止まり始めていた。



次回予告


 和正の給料が止まり、香織はパートの時間を最大まで増やした。


 それでも生活は苦しい。


 節約。

 我慢。

 苛立ち。

 増えていく酒。


 そして、美香は少しずつ「自分が迷惑なのではないか」と思い始める。


 次回、第十三話

 「再就職」


 戻りたい場所はある。

 だが、信用は簡単には戻らない

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ