懲戒解雇
第十一話
「懲戒解雇」
会社から呼び出された朝、和正はほとんど眠れていなかった。
顔色は悪く、髭もきちんと剃れていない。
作業着に袖を通そうとして、途中で手が止まった。
もう、この服を着ていいのだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
香織は台所に立っていたが、いつものように弁当を作ってはいなかった。
「……行ってくる」
和正が言う。
香織は振り返らなかった。
「ちゃんと謝ってきて」
「わかっとる」
「わかっとったら、最初から飲んだ翌日に運転なんかせんやろ」
和正は何も言い返せなかった。
美香は部屋の隅で、幼稚園の鞄を抱えていた。
父の顔を見る。
いつもの父ではなかった。
トラックの助手席で「安全第一」と言っていた父でも、海の中道で膝の土を払ってくれた父でもなかった。
何かを失くしてしまった人の顔だった。
「父ちゃん……」
和正は美香の声に振り向いた。
「……大丈夫や」
そう言った。
でも、美香にはわかった。
大丈夫じゃない。
会社の会議室は、冷たかった。
長机。
パイプ椅子。
壁に貼られた安全運転の標語。
そこに書かれていた言葉が、和正の胸を刺した。
――飲酒運転、絶対禁止。
――安全はすべてに優先する。
上司と総務担当者が座っていた。
和正は深く頭を下げた。
「このたびは、本当に申し訳ありませんでした」
上司は、厳しい顔をしていた。
「黒木。わかっていると思うが、今回の件は非常に重大だ」
「はい」
「事故がなかったからよかった、では済まない」
「はい」
「うちは運送業だ。ドライバーが酒気帯びで検挙された。これは会社の信用に直結する」
和正は、頭を下げたまま奥歯を噛んだ。
何を言われても当然だった。
「取引先にも説明が必要になる。社内でも示しがつかない」
「……はい」
総務担当者が書類を差し出した。
そこに記されていた言葉を見た瞬間、和正の視界が少し揺れた。
懲戒解雇。
その四文字は、あまりにも重かった。
「本日付で、懲戒解雇とする」
和正は、椅子に座ったまま動けなかった。
謝れば済むと思っていたわけではない。
処分があることもわかっていた。
それでも、心のどこかで、まだ働ける道が残るのではないかと思っていた。
だが、その道は閉ざされた。
「……わかりました」
声が、自分のものではないようだった。
会議室を出ると、廊下に同僚たちがいた。
誰も軽口を言わなかった。
以前なら、
「黒木、今日も忙しいぞ」
「美香ちゃん元気か」
そんな声が飛んできた。
だが、この日は違った。
同情。
怒り。
呆れ。
距離。
いろんな視線が、和正を通り過ぎていく。
年配のドライバーが、ぽつりと言った。
「……なんでやったんや」
和正は答えられなかった。
会社の駐車場に並ぶトラックを見た。
何度も乗った車。
美香を助手席に乗せた車。
家族を支えるはずだった仕事。
もう、そこに戻ることはできない。
家に帰る道は、異様に長かった。
アパートの玄関を開けると、香織が立っていた。
「どうやった?」
和正は靴を脱ぐ前に、つぶやいた。
「クビになった」
香織の顔から血の気が引いた。
「……ほんとに?」
「懲戒解雇」
部屋の空気が止まった。
美香は、意味がわからないまま二人を見ていた。
「クビってなに?」
誰もすぐには答えなかった。
香織は両手で顔を覆った。
「どうすると……家賃は? 食費は? 美香の幼稚園は?」
「わかっとる」
「わかっとるって何? 何もわかってないやん!」
その声に、美香は肩を震わせた。
和正はうつむいた。
「仕事、探す」
「懲戒解雇って書かれたら、次の会社に何て言うと?」
「……探すしかないやろ」
「飲まんかったらよかっただけやん!」
香織の声が、部屋に鋭く響いた。
その瞬間、美香は初めて、家の中の音が怖いと思った。
父と母が喧嘩している。
でも、ただの喧嘩ではない。
何かが戻らないところまで壊れた音だった。
その夜、食卓に会話はなかった。
味噌汁は冷めていた。
和正は箸を持ったまま、ほとんど食べなかった。
香織も黙っていた。
美香だけが、小さな声で言った。
「父ちゃん、またトラック乗る?」
和正の手が止まった。
香織も顔を上げた。
和正は、長い沈黙のあと、答えた。
「……もう乗れんかもしれん」
「なんで?」
「父ちゃんが、悪いことしたけん」
美香は目を伏せた。
悪いこと。
酒が残っていたこと。
警察。
会社。
クビ。
まだ全部はわからない。
でも、ひとつだけわかった。
父は、自分で教えた約束を破った。
黄色は急げじゃない。
安全第一。
事故したら、大事なものが壊れる。
事故は起きなかった。
けれど、大事なものは壊れ始めていた。
翌日から、和正は仕事に行かなくなった。
朝、作業着に着替える音がしない。
玄関のドアが早朝に開く音もしない。
缶コーヒーの匂いもしない。
美香は、家に父がいることに最初は少し安心した。
でも、その安心はすぐに不安へ変わった。
和正は、座っている時間が増えた。
テレビを見ているようで、見ていない。
求人情報を眺めているようで、手が止まっている。
香織のため息が増える。
家の中は、狭くなった。
前より三人でいる時間は増えたはずなのに、温かさは減っていった。
美香は、幼いながらに思った。
父ちゃん、前みたいに笑わん。
その背中は、疲れているというより、崩れていた。
そして、黒木家はこの日を境に、坂を転げ落ち始める。
仕事を失った父。
不安に押しつぶされる母。
意味もわからず、空気だけを読もうとする娘。
美香はまだ知らない。
このあと、父の怒りがどこへ向かうのかを。
母の余裕がどれほど削られていくのかを。
そして、自分の名前が、いつか愛情ではなく憎しみの中で呼ばれるようになることを。
⸻
次回予告
懲戒解雇。
その四文字が、黒木家から収入と信用を奪った。
和正は再就職を試みるが、面接では必ず退職理由を問われる。
隠せない過去。
戻らない信用。
膨らむ焦り。
香織の不安。
そして、美香は少しずつ、家の空気を読む子どもになっていく。
次回、第十二話
「止まった給料日」
給料が止まる時、家庭の時間も止まり始める。




