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帰る場所~光の指す方へ  作者: リンダ


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飲酒検問

 第十話

「飲酒検問」


 翌朝。


 空は、まだ薄暗かった。


 黒木家の小さなアパートでは、和正が重たい身体を起こしていた。


 頭が少し痛い。

 胃の奥が重い。

 喉が渇く。


 それでも和正は、洗面所で顔を洗い、作業着に袖を通した。


 台所で水を飲む。


 香織が眠そうな声で言った。


「大丈夫?」


「大丈夫」


「昨日、結構飲んどったやろ」


「寝たけん抜けとる」


 その言葉に、根拠はなかった。


 けれど和正は、自分に言い聞かせるようにもう一度言った。


「大丈夫」


 布団の中で、美香が目を開けた。


「父ちゃん……?」


「起こしたか」


「お仕事?」


「ああ。行ってくる」


 美香は眠そうにしながらも、昨日の約束を思い出した。


「ピクニック、行く?」


「年末終わったらな」


「約束」


「約束」


 和正は笑おうとした。


 けれど、その笑顔は少しだけ疲れていた。


 会社に着くと、駐車場にはいつものようにトラックが並んでいた。


 冷たい朝の空気。

 エンジン音。

 荷物を積む音。

 伝票をめくる音。


 和正は何事もないように作業を始めた。


 だが、ハンドルを握った時、手のひらが少し汗ばんでいた。


 自分では気づいていなかった。


 体の中に、まだ昨夜の酒が残っていることに。


 道路はいつもより混んでいた。


 和正は何度も時計を見た。


「間に合え……」


 その時だった。


 前方に警察官の姿が見えた。


 検問。


 誘導灯が振られる。


「こちらへお願いします」


 和正の胸が、ひやりとした。


 けれど、すぐに打ち消した。


 大丈夫。

 寝た。

 水も飲んだ。

 仕事なんだから。


 警察官が窓の横に立った。


「おはようございます。飲酒検問です。息をお願いします」


 和正は一瞬、言葉を失った。


「……はい」


 呼気検査。


 数秒。


 警察官の表情が変わった。


「運転手さん、こちらに車を寄せてください」


「え……?」


「基準値を超えています」


 その言葉が、和正の耳に落ちた。


 基準値を超えている。


 意味はわかる。


 だが、頭が理解を拒んだ。


「いや、昨日の夜です。もう寝てます」


「体内にアルコールが残っています」


「仕事なんです。配送が」


「運転はできません」


 和正はハンドルを握ったまま固まった。


 トラックのエンジン音だけが、低く鳴っていた。


 安全第一。


 黄色は急げじゃない。


 事故したら、大事なものが壊れる。


 助手席に座っていた美香の声が、頭の中で一瞬よみがえった。


 その日の昼前。


 黒木家に電話がかかってきた。


 香織は受話器を取った。


「はい、黒木です」


 相手の声を聞いた瞬間、香織の顔色が変わった。


「……え?」


 美香は、テーブルで絵を描いていた。


 父のトラック。


 青い車体。

 大きなタイヤ。

 助手席の自分。


 香織の声が震えていることに気づき、美香は手を止めた。


「どうしたと?」


 香織は答えなかった。


 受話器を握ったまま、何度も「はい」「はい」と繰り返している。


 そして電話を切ると、その場に座り込んだ。


「母ちゃん?」


 美香が近づく。


「父ちゃん、どうしたと?」


 香織は顔を上げた。


 怒りなのか、恐怖なのか、呆然なのか、自分でもわからない表情をしていた。


「……お父さん、警察に止められたって」


「警察?」


「お酒が……残っとったって」


 美香には、意味がわからなかった。


 お酒が残る。


 警察に止められる。


 父が悪いことをした。


 その全部が、ばらばらの言葉にしか聞こえなかった。


「父ちゃん、帰ってくる?」


 香織はすぐには答えなかった。


 美香は、その沈黙で気づいた。


 ただ事ではない。


 夕方になっても、和正は帰ってこなかった。


 香織は何度も電話をかけ、会社からの連絡を受け、警察とのやり取りに追われた。


 美香は、部屋の隅で小さく座っていた。


 いつもなら父が帰ってくる時間。


 玄関の音がしない。


 作業着の匂いもしない。


 缶コーヒーの匂いもしない。


 家の中から、音がひとつ消えたようだった。


 夜遅く、和正はようやく戻ってきた。


 顔は青ざめていた。


 香織は立ち上がった。


「何しとると」


 和正は何も言わなかった。


「仕事は? 会社は? これからどうすると?」


「……わからん」


「わからんって何?」


 美香は布団の中で、目を閉じていた。


 でも眠ってはいなかった。


 父と母の声が、少しずつ強くなる。


 責める声。

 言い訳する声。

 ため息。

 沈黙。


 美香は毛布をぎゅっと握った。


 怖かった。


 何が起きたのか、完全にはわからない。


 けれど、何か大きなものが壊れたことだけはわかった。


 翌日。


 会社から正式な連絡が来た。


 厳しい処分は避けられない。


 配送会社にとって、飲酒運転は致命的だった。


 たとえ事故を起こしていなくても、信用は失われる。


 荷主からも、取引先からも、会社内部からも、和正を見る目は変わった。


 和正は、もう以前のようには働けなかった。


 そして黒木家の生活は、坂を転げ落ちるように崩れていく。


 最初に消えたのは、予定だった。


 ピクニックの約束。


 大濠公園。

 おにぎり。

 肩車。


 その言葉は、誰の口からも出なくなった。


 次に消えたのは、笑い声だった。


 そして、最後に残ったのは、重たい沈黙だった。


 美香はまだ幼かった。


 父を責める言葉も知らない。

 母を慰める方法も知らない。

 自分に何ができるのかもわからない。


 ただ、部屋の隅で思っていた。


 父ちゃん、安全第一って言ったのに。


 その言葉だけが、小さな胸の中で何度も響いた。


 次回予告


 飲酒検問で摘発された和正。


 事故は起きなかった。

 だが、信用は失われた。


 会社、取引先、同僚、そして家庭。


 すべてが少しずつ和正から離れていく。


 処分。

 謝罪。

 収入の不安。

 崩れる父の背中。


 次回、第十一話

「懲戒解雇」


 人を傷つけなかったとしても、飲酒運転は人生を壊す。

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