綾菜が生まれた日
第4話
「綾菜が生まれた日」
2062年10月1日。
予定日どおり、穂乃果に陣痛が始まった。
春介は最初こそ落ち着いていた。
「大丈夫。荷物も確認した。母子手帳もある。病院へのルートも確認した」
だが、いざ病院へ向かう段階になると、完全に挙動不審になった。
「車の鍵どこ!?」
穂乃果。
「春介、それ手に持っとる」
「……あ」
「落ち着いて」
「落ち着いとる!」
「全然落ち着いとらんよ」
この時点で、すでに赤嶺家の血筋が濃かった。
病院へ到着し、診察。
陣痛は順調に進み、やがて穂乃果は分娩室へ。
春介も付き添う。
穂乃果は痛みに耐えながら呼吸を整える。
「ふぅ……っ、ふぅ……」
春介が手を握る。
「穂乃果、大丈夫。俺おるけん」
「うん……」
また陣痛。
「うぅ……っ!」
春介が緊張で顔を引きつらせる。
「大丈夫? 本当に大丈夫?」
穂乃果。
「春介」
「うん?」
「今、一番大丈夫じゃなさそうなの、あなた」
看護師が吹き出す。
春介。
「え?」
医師も少し笑いながら言う。
「お父さん、深呼吸してください」
春介。
「俺ですか?」
穂乃果。
「そう、あなた」
分娩室に笑いが起こる。
しかし、さらに陣痛が強くなる。
穂乃果は歯を食いしばる。
「うぅぅ……っ!」
春介は必死に励ます。
「頑張れ、穂乃果!」
「言われんでも頑張っとる!」
「はい!」
看護師たち、肩を震わせる。
穂乃果。
「春介!」
「はい!」
「水!」
「はい!」
「タオル!」
「はい!」
「次、ボケたら退場!」
「はい!」
看護師がとうとう笑ってしまう。
「すみません……お二人、息ぴったりですね」
穂乃果は苦しみながらも言う。
「この人、昔からこうなんです……」
春介。
「昔からって!」
「今しゃべらんで!」
「はい!」
完全に夫婦漫才だった。
そこへ助産師が声をかける。
「赤ちゃん、順調ですよ。もう少しです」
穂乃果の表情が変わる。
「春介……」
「うん」
「もうすぐ会えるね」
「うん」
春介の目に涙が浮かぶ。
穂乃果。
「まだ泣かんで」
「無理」
「優馬ひいじいちゃんの血、強すぎ」
春介は泣きながら笑った。
「それは否定できん」
陣痛の合間にも笑いが生まれる。
だが、いよいよその時が来る。
医師。
「次でいきましょう」
穂乃果は大きく息を吸った。
春介が手を握る。
「穂乃果、頑張れ!」
そして――。
赤ちゃんの泣き声が、分娩室に響いた。
春介の顔が一瞬で崩れた。
「……生まれた」
穂乃果も涙を流す。
「うん……」
医師が微笑む。
「元気な女の子ですよ」
春介は声にならなかった。
看護師が赤ちゃんを穂乃果のそばへ連れてくる。
小さな顔。
小さな手。
穂乃果は涙を流しながら言った。
「綾菜……」
春介も顔を近づける。
「綾菜……お父さんやぞ」
その瞬間。
綾菜が、小さく顔をしかめた。
春介。
「え、嫌そうな顔した?」
穂乃果。
「第一声それ?」
助産師。
「ただの反射ですよ」
春介。
「よかった……」
穂乃果。
「生まれて一分で娘に嫌われたと思う父親がおる?」
分娩室がまた笑いに包まれた。
命が生まれた瞬間なのに、なぜか最後まで赤嶺家式だった。
⸻
しばらくして。
美香のスマートフォンが鳴る。
春介からだった。
「母さん」
「春介?」
「生まれたよ」
美香が立ち上がる。
「ほんと!?」
「うん。女の子」
美香の目に涙が浮かぶ。
「穂乃果ちゃんは?」
「元気。綾菜も元気」
「綾菜……」
その名前を口にした瞬間、美香の声が震えた。
「おめでとう、春介」
「ありがとう、母さん」
隣ではアキラがすでに涙目。
美香が電話を切る。
「アキラ」
「うん」
「生まれたって」
「うん……」
「綾菜」
「うん……」
「うちら、おじいちゃんとおばあちゃんになったね」
アキラ、号泣。
「うん」
美香も泣きながら笑った。
「あなた、優馬お父さんに似てきたね」
「美香も泣いとるやん」
「それはそう」
二人は急いで病院へ向かった。
⸻
病室。
美香は初めて綾菜を腕に抱いた。
「小さか……」
昔、春介を抱いた時と同じ言葉が出た。
春介が笑う。
「母さん、俺の時もそれ言った?」
「言ったと思う」
穂乃果も微笑む。
「綾菜、おばあちゃんですよ」
美香は一瞬固まった。
「おばあちゃん……」
春介。
「まだ慣れん?」
「全然」
綾菜が小さな手を動かし、美香の指を握った。
その瞬間。
美香は息を止めた。
小さな指。
小さな力。
それでも確かに生きている。
美香の目から涙が溢れる。
「会えてよかった……」
アキラが隣で静かに見つめる。
美香の頭の中に、一瞬だけ遠い風景が浮かんだ。
那珂川。
暗い水面。
未来など何も見えなかった少女。
もし、あの日で終わっていたら。
春介にも会えなかった。
そして、この綾菜にも会えなかった。
美香は綾菜を胸に抱き寄せた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
春介は、その言葉を聞いて黙って母を見ていた。
自分が幼い頃、美香が何度も自分に言ってくれた言葉。
今、その言葉が娘へ渡っている。
穂乃果も目を潤ませた。
アキラが静かに言う。
「命が続いとるね」
美香は頷いた。
「うん」
⸻
そして当然。
小倉家にも知らせが届く。
優馬。
「生まれたぁぁぁぁ!」
美鈴。
「優馬、声!」
「俺、ひいじいちゃんになったぞ!」
「分かったから!」
数秒後。
美鈴も泣く。
「綾菜ちゃん……」
優馬が横を見る。
「美鈴も泣いとうやん」
「泣くよ!」
そこへ、すでに事情を知っている光子と優子からビデオ通話。
光子。
「美鈴ひいばあちゃん、おめでとう!」
美鈴。
「その呼び方やめて!」
優子。
「優馬ひいじいちゃんもおめでとう」
優馬。
「俺はいい!」
美鈴。
「なんで自分だけ受け入れとると!」
光子。
「そして美香お姉ちゃん、ばあばレベル1!」
美香。
「その設定まだ生きとったん!?」
病室も小倉家も、一斉に爆笑。
穂乃果はベッドの上で笑いながら言った。
「綾菜、すごい家族に生まれてきたね」
春介。
「今さら?」
美香。
「安心して。これでも昔より落ち着いた方よ」
光子。
「どこが?」
優子。
「説得力ゼロ」
美香。
「あんたらが言うな!」
再び大爆笑。
⸻
夜。
病室で穂乃果と綾菜が眠る。
春介は椅子に座り、娘の寝顔を見つめていた。
美香とアキラは帰る前に、もう一度だけ綾菜を見る。
美香は小さく言った。
「春介」
「ん?」
「お父さんになったね」
「うん」
「大変なこといっぱいあるよ」
「うん」
「でも、穂乃果ちゃんと二人で、ちゃんと話して、ちゃんと助け合ってね」
「分かっとる」
美香は微笑む。
「なら大丈夫」
春介は少し照れながら言った。
「母さんが俺らにしてくれたこと、綾菜にもしてやりたい」
美香は言葉を失った。
そして静かに頷いた。
「うん」
それだけで十分だった。
負の連鎖は、もうここにはない。
代わりに、
愛情が続いている。
笑いが続いている。
命が続いている。
2062年10月1日。
赤嶺家に、新しい家族が誕生した。
綾菜。
美香にとって、初めての孫。
そして――。
あと四日。
もう一つの命が、この家族のもとへやって来ようとしていた。
第4話 終
次回予告
綾菜の誕生から四日。
2062年10月5日。
今度は春海に陣痛が始まる。
水湊は「自分は冷静」と言い張るが、病院へ向かう途中ですでに挙動不審。
春海はそんな夫に、
「うちが産むんやけど?」
と一喝。
そして美香とアキラは、四日前とは別の意味でまた落ち着かない。
二人目の孫。
男の子。
慶太郎。
次回、第5話
「慶太郎が生まれた日」




