帰る場所 その先へ ― 綾菜と慶太郎 ―』
スピンオフ
『帰る場所 その先へ ― 綾菜と慶太郎 ―』
美香は、福岡交響楽団を退団したあとも、音楽家として忙しい日々を送っていた。
現在の活動の中心は、ファイブピーチ★。
美香はリーダーとして、光子、優子、奏太、小春とともに国内ツアーを行い、時には海を越えて海外のステージにも立つ。
演歌からヘビメタ、クラシック、ポップスまでを一つのライブで演奏するファイブピーチ★のスタイルは健在だった。
その一方で、夫のアキラとは二人だけのクラシックコンサートも開いていた。
美香のピアノやトロンボーン。
アキラのトランペットとテナーサックス。
二人が作曲した組曲。
ニュージーランドの旅を描いた『南半球の約束』や、春介と春海の子育てを描いた『二つの命への賛歌』も、今では夫婦の代表作となっている。
そして、美香にはもう一つ大切な活動があった。
自分自身の経験を語ることだった。
虐待。
家庭崩壊。
那珂川の橋。
みらいのたね。
フラッシュバック。
そして、家族や音楽によって人生を取り戻していった日々。
学校や福祉施設、テレビ番組、講演会などで、美香は自分の言葉で伝え続けていた。
「助けを求めていい」
「あなたが悪いわけじゃない」
「傷が残っていても、未来まで奪われるわけじゃない」
かつて助けられる側だった少女は、今では誰かに手を差し伸べる側になっていた。
そんな美香にも、年月は流れた。
春介と春海は大人になった。
春介は、青柳翼の妹・青柳穂乃果と結ばれた。
春海は、柳川拓実の弟・柳川水湊と結ばれた。
そしてある日。
海外公演から福岡へ戻ったばかりの美香とアキラのもとへ、春介と穂乃果が訪ねてくる。
春介は、妙に落ち着かない。
穂乃果は、隣で少し照れくさそうに笑っている。
美香が首を傾げた。
「二人とも、どうしたと?」
春介は穂乃果と顔を見合わせた。
「母さん、父さん」
「うん?」
「俺たち、赤ちゃんできた」
美香の動きが止まった。
アキラも固まる。
「……ほんと?」
穂乃果が頷いた。
「はい」
美香は両手で口元を覆った。
「うち……おばあちゃんになると?」
春介が笑う。
「うん」
次の瞬間、美香の目から涙が溢れた。
世界中のステージに立ってきた。
何万人もの前で演奏した。
自分の過去も、多くの人の前で語ってきた。
それでも、この知らせを受けた時だけは、言葉が出なかった。
「春介が……お父さんになるんやね……」
アキラもすでに泣いていた。
「僕も、おじいちゃんか……」
春介が苦笑する。
「父さんも母さんも泣くの早いって」
美香は涙を拭きながら笑った。
「仕方なかやろ」
そして穂乃果の手を握った。
「ありがとう。身体、大事にしてね」
その日の夜。
当然、光子と優子にも連絡が入った。
美香がビデオ通話で、
「うち、おばあちゃんになる」
と告げる。
光子は数秒固まったあと、叫んだ。
「美香お姉ちゃん、ついに完熟ばあば!」
美香が即座に怒鳴る。
「誰が完熟ばあばよ!」
優子は笑い崩れながら言った。
「みっちゃん、それ何十年前の完熟トマトネタ引っ張っとると!」
感動の報告は、やはり数分も持たなかった。
美香は腹を抱えて笑った。
でも、その笑い声の中で思った。
ここまで生きてきた。
子どもが生まれた。
その子どもが大人になった。
そして、さらに新しい命が生まれようとしている。
人生は、まだ続いている。
しかも、自分が想像したこともないところまで。
美香は静かに微笑んだ。
「会えるの、楽しみやね」
アキラが隣で頷いた。
「うん」
そして二人は、新しい命を迎える日を待ち始めた。




