生きていていい ~傷ついた子どもたちへ~
特別番組
『生きていていい ~傷ついた子どもたちへ~』
土曜日の午後七時五十八分。
日本文化教育テレビの第一スタジオは、普段の生放送とは少し違う緊張に包まれていた。
客席には数百人。
親子で来た人もいれば、学校関係者、児童福祉施設の職員、医療関係者もいる。番組の趣旨を知り、自分自身が子どもの頃に家庭の問題を経験したという人もいた。
ステージ中央には、一台の黒いグランドピアノ。
その前に座っているのは、赤嶺美香だった。
少し離れたところには、夫の赤嶺アキラ。
その後方には、ファイブピーチ★のメンバーがいる。
青柳光子。
柳川優子。
大畑奏太。
大畑小春。
今夜はいつものライブとは違う。
客席を盛り上げるための派手な照明もなければ、大型スクリーンを埋め尽くすような演出もない。
ただ、美香の後ろにある巨大スクリーンへ、静かな川の映像が映し出されていた。
那珂川。
夕暮れの水面がゆっくり流れている。
午後八時。
スタジオの時計が時刻を示すと同時に、赤いランプが点灯した。
生放送が始まった。
美香が鍵盤へ指を置く。
最初の一音。
静かなピアノだった。
音に合わせて、スクリーンの映像が変わっていく。
幼い少女。
暗い部屋。
ランドセル。
一人で歩く帰り道。
那珂川。
そして、支援施設「みらいのたね」。
そこから映像の色が少しずつ変わっていく。
小倉優馬。
小倉美鈴。
まだ幼かった光子と優子。
音楽と出会った美香。
アキラとの出会い。
ファイブピーチ★。
ステージ。
結婚。
春介と春海。
家族写真。
最後に、成長した美香が家族と一緒に那珂川の橋に立っている写真が映った。
ピアノの音が消える。
しばらく、誰も拍手をしなかった。
そして静かに拍手が広がった。
司会を務める日本文化教育テレビのアナウンサーが、カメラの前へ進み出た。
「こんばんは。今日の特別番組『生きていていい――傷ついた子どもたちへ』は、いじめ、虐待、家庭の問題などによって、今この瞬間にも苦しんでいる子どもたち、そして、その子どもたちを支える大人たちへ向けてお送りします」
声は穏やかだった。
「この番組では、つらい経験について具体的な話が出てきます。ご覧になっていて苦しくなった場合は、無理に見続けないでください。画面から離れたり、信頼できる人と一緒に見たりしてください」
そして、美香を見る。
「まず、この方のお話から始めます」
照明が美香へ集まった。
美香は一度だけ深く息を吸った。
何百回ステージに立っても、この話だけは慣れなかった。
歌なら、練習できる。
ピアノなら、何度でも弾き直せる。
しかし、自分の過去は弾き直せない。
アナウンサーが尋ねた。
「美香さん。子どもの頃、ご自宅は美香さんにとって、どんな場所だったのでしょうか」
美香はすぐには答えなかった。
客席も待った。
「……怖い場所でした」
やがて、美香はそう答えた。
「毎日、怖かったです」
声は落ち着いている。
しかし、膝の上で組んだ指には力が入っていた。
「家に帰るのが怖かった。夜になるのが怖かった。朝、目が覚めるのも怖かったです」
「朝も、ですか」
「はい」
美香は頷いた。
「目が覚めたら、また一日が始まるけん」
その一言で、客席の空気が変わった。
「今日、何が起きるんやろう。怒られるかな。何かされるかな。そう考えながら生活しとったから……寝る前も怖いし、起きても怖い。安心できる時間がほとんどなかったです」
「誰かに相談しようとは?」
美香は首を横に振った。
「できませんでした」
「なぜでしょう」
「自分が悪いと思っとったからです」
美香は自分でも信じられないものを見るような表情をした。
「今考えたら、おかしいですよね。でも子どもの頃は、本気でそう思っとったんです。自分がもっといい子やったら怒られん。もっとちゃんとできたら嫌われん。自分が悪いけん、こうなるんやって」
隣に座る臨床心理士が深く頷いた。
「これは、とても重要なところです」
アナウンサーが心理士を見る。
「虐待を受けている子どもが、自分自身を責めてしまうことはあるのでしょうか」
「あります。子どもにとって、家庭は世界の大部分を占めています。養育する大人から傷つけられた時に、『この大人がおかしい』と考えるより、『自分が悪いからだ』と理解してしまうことがあります」
美香はその説明を聞きながら、静かに頷いていた。
「だから、私はこれだけは言いたいです」
美香がカメラを向いた。
正面からレンズを見る。
「今、家で怖い思いをしとる子がおったら」
少し間を置く。
「あなたは悪くないです」
静かな言葉だった。
「大人に怒鳴られる理由を、自分の中から探さんでください。傷つけられる理由なんてありません」
客席の一角で、母親らしい女性が目元を押さえた。
美香は続けた。
「うちは、それに気づくまで、すごく時間がかかりました」
*
番組開始から約三十分。
画面に第二章のタイトルが現れた。
――助けてと言えなかった日。
事前収録された再現映像が流れた。
支援施設「みらいのたね」。
安全な部屋。
清潔な布団。
温かい食事。
優しい職員。
それだけを見るなら、美香は救われたように見える。
しかし映像の途中で、少女役の美香がテレビを見ている。
ニュースから大きな声が流れた。
少女の身体が固まる。
呼吸が速くなる。
画面が暗転した。
スタジオへ戻る。
「保護されたあと、美香さんは安全な場所に移りました。それでも苦しさは続いたそうですね」
「はい」
「なぜだったのでしょう」
美香は考えながら答えた。
「身体は安全になったけど、心がまだ安全になっとらんかったんやと思います」
アナウンサーは黙って続きを待った。
「誰も怒鳴らん。誰も殴らん。ご飯もある。鍵を閉めて寝てもいい。でも、身体のどこかがずっと『また何か起きる』って構えとるんです」
「テレビのニュースがきっかけになったことも?」
「ありました」
美香は一度、アキラを見た。
アキラは何も言わない。
ただそこにいる。
「ニュースを見て昔のことを思い出して、パニックになったことがあります」
美香は唇を結んだ。
「その時……」
言葉が止まる。
「無理に話さなくても大丈夫です」
アナウンサーが言った。
「いえ」
美香は首を振った。
「ここは話したいです」
少し息を整える。
「『誰か私を殺して』って泣きました」
スタジオのあちこちから、すすり泣く音が聞こえた。
「助けてもらったのにですよ。安全なところにおるのに。それでも、もう生きたくないって思ってしまった」
小児精神科医が静かに口を開いた。
「この部分は、ぜひ誤解しないでいただきたいと思います」
カメラが医師へ切り替わる。
「危険な環境から離れれば、その瞬間に心も元通りになるわけではありません。強い恐怖を経験した子どもでは、安全になったあとも記憶が突然よみがえったり、音や映像などがきっかけになって強い恐怖反応が起きたりすることがあります」
美香が頷く。
「ですから、保護されたのに元気にならない、笑わない、学校へ行けない。それを『せっかく助けてもらったのに』と責めてはいけません」
「回復そのものにも時間が必要なんですね」
「そうです。そして、その時間を一人にしないことが大切です」
*
番組は第三章へ入った。
スクリーンに映ったタイトルは、
――助けてくれた人。
「美香さんが、それでも少しずつ生きる方向へ戻っていけた理由は何だったと思いますか」
質問が終わるより早く、美香は答えた。
「人です」
迷いはなかった。
美香は客席近くに座っている優馬を見る。
「お父さん」
次に美鈴。
「お母さん」
優馬の目が、もう赤くなっている。
それを見た光子が優子の耳元で囁いた。
「早くない?」
優子が時計を見る。
「まだ三十分ちょいやね」
優馬が振り向く。
「聞こえとるぞ!」
客席から笑いが起きた。
美香まで笑った。
番組が始まって初めて、スタジオ全体の肩から少し力が抜けた。
アナウンサーも微笑む。
「優馬さん、もうハンカチを?」
「娘の話聞いとるんですよ。泣くでしょうが!」
「まだ先長いよ」
光子が言う。
「二時間あるっちゃけん」
「光子、今日はお父さんをいじめる番組やないぞ」
「分かっとるよ」
「その顔、絶対分かっとらん!」
また笑いが起きた。
美香はそのやり取りを見ながら、涙を拭いた。
「こういうところなんです」
「どういうところでしょう」
「重たいことを話しとっても、ずっと重たいままにせんでくれる」
美香は優馬と美鈴を見る。
「血はつながってません」
優馬の表情が変わる。
「でも、私のお父さんとお母さんです」
優馬がとうとう顔を伏せた。
光子が小声で言う。
「はい、二枚目」
「数えるな!」
客席からまた笑いが起こった。
アナウンサーは優馬に尋ねた。
「優馬さんにとって、美香さんは?」
優馬はハンカチを目元へ当てたまま答えた。
「娘です」
それだけだった。
しかし会場から自然に拍手が起こった。
「血がどうとか、そんなん関係ないです。美香が泣いとったら心配するし、嬉しいことがあったら嬉しい。困っとったら助けたい」
優馬は美香を見る。
「娘やけん」
美香の目から、また涙が落ちた。
*
第四章では、「家族とは何か」がテーマになった。
アナウンサーが出演者一人ひとりへ同じ質問を投げかけた。
「皆さんにとって、家族とは何でしょう」
最初に答えたのは美鈴だった。
「守ることだと思います」
「守る?」
「はい。ただ、何でも代わりにやるという意味ではありません。この子は困った時に帰ってきていい。この子が何か失敗しても、ここから追い出されない。そう思える場所を作ることです」
優馬は少し考えてから言った。
「帰る場所になることですかね」
その言葉に、美香がゆっくり頷いた。
アキラにもマイクが向けられた。
「アキラさんはいかがでしょう」
「隣にいることだと思います」
美香がアキラを見る。
「何かを全部解決できるわけやないです。でも、つらい時に一人にせんことはできると思うとです」
アキラは少し照れくさそうに美香を見る。
「僕も昔、美香さんにそうしてもらいましたから」
美香の表情が柔らかくなった。
昔。
まだ二人が「美香さん」「アキラ君」と呼び合っていた頃。
アキラがいじめによってトランペットの音さえ思うように出せなくなった日。
放課後の音楽室で、美香は隣に座った。
何か立派なことを言ったわけではない。
ただ、ピアノを弾いた。
アキラが震えるトランペットで返した。
二人の音が、そこで初めて重なった。
奏太は「失敗しても見捨てないこと」と答え、小春は「一緒に笑えること」と答えた。
どれも少しずつ違う。
しかし根っこは同じだった。
帰ってもいい場所。
弱くてもいい場所。
自分を演じなくてもいい場所。
それが、この人たちの考える家族だった。
*
番組開始から一時間を超えた頃。
アナウンサーが少しだけ表情を変えた。
「ここまでかなり重い話が続きました。そこで第五章では、少し違う角度から考えます」
画面に出た文字を見て、優子が嫌そうな顔をした。
――第五章「笑うこと」。
光子がマイクを握った。
「はい。ここからはうちらの専門分野たい」
「なんで急に講師みたいになると」
優子が即座に返す。
「笑いの専門家、青柳光子です」
「誰が認定した」
「自称」
「一番信用できんやつ!」
会場が笑った。
光子は笑いが収まるのを待ってから、少し真面目な顔になった。
「でもね、人間って、ずっと泣いとくことはできんと思うとです」
優子も頷く。
「ずっと重たい話だけしよったら、心がもたん時もあるけんね」
臨床心理士が同意した。
「これは大切な視点です。笑うことは、つらい出来事を軽く扱うこととは違います。安心できる人と笑える時間を持つことが、回復の中で大切になることもあります」
光子が得意げに胸を張る。
「つまり」
優子が眉を寄せる。
「嫌な予感しかしない」
「ボケは世界を救う」
「先生、そこまでは言ってない!」
臨床心理士まで吹き出した。
客席から大きな笑いが起こる。
「でも」
美香が笑いながら言った。
「うちは光子と優子に、ほんとに何回も笑わせてもらいました」
光子が胸を張る。
「ほら」
「調子乗らんで」
優子が即座に落とす。
スタジオがまた笑いに包まれた。
美香はその光景を見ながら思った。
自分が欲しかった家庭は、こういうものだったのかもしれない。
泣いていい。
笑っていい。
黙っていてもいい。
そして、笑える時が来たら一緒に笑ってくれる。
*
第六章では、生放送中に届いた視聴者からの質問が取り上げられた。
「十四歳の方からです」
アナウンサーが読む。
「学校でいじめられています。先生に言ったらもっとひどくなる気がします。学校を休んだら負けたような気がします。どうすればいいですか」
スタジオが再び静かになった。
美香はすぐに答えなかった。
やがて、ゆっくり言った。
「逃げていいです」
アナウンサーが美香を見る。
「学校を休んでもいい?」
「はい」
美香は頷いた。
「まず生きてください」
声は静かだった。
「逃げることは負けじゃないです。危険なところから離れるのは、生き残るための選択です」
臨床心理士も続けた。
「学校へ行くことより、本人の安全が優先される状況があります。学校以外にも学びを続ける方法や支援につながる方法があります。まず、信頼できる大人へ状況を伝えてください」
児童福祉士も言葉を添える。
「一人の先生に言ってうまく伝わらなかった場合でも、そこで終わりではありません。別の先生、養護教諭、管理職、家族や親戚、地域の相談機関など、別の大人につながってください」
美香はカメラを見る。
「一回助けを求めて届かんかったからって、『誰も助けてくれん』って決めんでほしいです」
その言葉には、自分自身の過去があった。
*
そして番組は、最後の章へ入った。
第七章。
――子どもたちへ。
スタジオの照明が落とされた。
美香だけに柔らかな光が残った。
カメラは真正面から美香を映している。
台本はなかった。
スタッフから渡されていたのは、ただ一つ。
今、苦しんでいる子どもへ、自分の言葉で話してほしい。
それだけだった。
美香は長く息を吐いた。
「今、苦しい人へ」
静かな声。
「うちは、簡単に『大丈夫』とは言えません」
少し間を置く。
「大丈夫じゃない時があることを知っとるからです」
「明日のことなんか考えられん日もあります」
「来年なんて想像できん日もあります」
「だから、遠い未来のことを無理に考えんでもいいです」
美香はカメラを見続けた。
「今日だけ、生きてください」
客席からすすり泣く声が聞こえた。
「今日だけでいいです」
「そして今日を越えたら、その時に次の日を考えてください」
「一人で無理なら、誰かにつながってください」
「先生でもいい。親戚でもいい。相談するところでもいい。病院でもいい。警察でもいい」
「うまく説明できんでもいいです」
美香の目に涙が浮かんだ。
「『怖い』」
「『帰りたくない』」
「『助けて』」
「それだけでもいいです」
美香は一度、言葉を止めた。
「あなたの人生は、あなたを傷つけた人のものじゃありません」
静かなスタジオに、その言葉だけが残る。
「あなたの人生は、あなたのものです」
「逃げてもいい」
「泣いてもいい」
「怒ってもいい」
「でも、自分を傷つけたくなるほど苦しくなったら、一人にならんでください。すぐに近くの大人や相談できるところにつながってください」
涙が頬を伝った。
「うちは、昔、自分の人生を終わらせようとしたことがあります」
美鈴が目を閉じる。
優馬は俯いている。
「でも」
美香は涙を拭かなかった。
「終わらせなくてよかった」
「アキラに会えた」
「春介と春海に会えた」
「お父さんとお母さんに会えた」
「光子と優子に、お姉ちゃんって呼んでもらえた」
「奏太と小春と一緒に音楽ができた」
「生きとったから、会えました」
美香は微笑んだ。
「だから今、うちは言えます」
「生きていてよかったです」
*
番組終了まで、あと十分。
アナウンサーがステージ中央へ立った。
「最後に、ファイブピーチ★の皆さん、そしてアキラさんに演奏していただきます」
美香がグランドピアノへ向かう。
光子はベース。
優子はドラム。
奏太はエレキギター。
小春はキーボード。
アキラはトランペット。
「曲は、『帰る場所』」
美香が最初の音を鳴らした。
静かなピアノ。
かつて一人で見つめた那珂川の水面を思わせる低い旋律だった。
アキラのトランペットが重なる。
美香は一瞬だけ、アキラを見る。
ずっと昔。
まだ「美香さん」「アキラ君」と呼び合っていた頃。
いじめで傷つき、思うように音を出せなくなったアキラと、放課後の音楽室で即興の曲を作った。
あの日の仮タイトルは、『二人の音』。
その小さな音は、何十年も途切れなかった。
光子のベースが入る。
低く、温かい。
優子のドラムは心臓の鼓動のようにゆっくり刻む。
奏太のギターが加わる。
小春のキーボードが空間を包む。
ファイブピーチ★はロックバンドだ。
しかし、この曲で必要なのは爆音ではなかった。
静かに始まり、少しずつ音が増えていく。
まるで一人だった少女の周囲に、一人、また一人と人が集まってくるように。
美香が歌う。
帰る場所は、住所ではない。
建物でもない。
血だけで決まるものでもない。
弱い自分のままで「ただいま」と言える場所。
失敗しても。
泣いても。
何もできない日があっても。
それでも「おかえり」と言ってくれる人がいる場所。
曲の後半。
優子のドラムが強くなる。
光子のベースが前へ出る。
奏太のギターが空へ伸びる。
小春のキーボードが広がる。
そしてアキラのトランペットが高く鳴った。
美香はピアノを弾きながら目を閉じた。
あの橋の上で未来を失った少女が、今は家族と一緒に音楽を奏でている。
最後の一音。
美香が鍵盤から指を離した。
アキラのトランペットが、ほんの少し長く余韻を残す。
消えた。
数秒間の沈黙。
そして。
客席が立ち上がった。
拍手がスタジオを満たした。
美香は立ち上がる。
アキラと並ぶ。
ファイブピーチ★の五人が前へ出た。
アナウンサーが尋ねた。
「美香さん。最後に、もう一言だけお願いします」
美香はマイクを持った。
「生きていてください」
そして、少し考えて言葉を続ける。
「今は信じられんかもしれません」
「でも、いつか」
「生きていてよかったと思える日が来るかもしれません」
「だから、一人にならないでください」
長い拍手が続いた。
これで番組は終わる。
誰もがそう思った。
ただ一人を除いて。
光子が、そっとマイクを持った。
優子が横目で見る。
「……みっちゃん」
「何?」
「最後までやる気やね」
「何のこと?」
「その顔しとる時は絶対ろくなこと言わん」
会場に早くも笑いが起きた。
光子はアナウンサーを見る。
「最後に一個だけ発表してよかですか?」
「何でしょう」
「本日、一番緊張していた人」
アナウンサーが笑う。
「どなたですか?」
光子は迷わず指をさした。
「優馬お父さん」
「なんでバラすと!」
優馬が立ち上がった。
会場が爆笑する。
光子は止まらない。
「本番三時間前から」
優馬が慌てる。
「光子、やめんね!」
「トイレ五回」
「数えるな!」
そこへ美鈴が冷静に追撃した。
「正確には五回半」
優馬が固まる。
「半って何ね!」
「一回、入口まで行って戻ってきたやん」
「それまで数えとったんか!」
優子がドラムセットに突っ伏した。
奏太が腹を抱える。
小春はキーボードにもたれて笑っている。
美香も涙を流しながら笑っていた。
「お父さん、最後まで持っていくねえ」
「俺が持っていったんやない! 持っていかれたんよ!」
その時。
客席から二人が立ち上がった。
春介と春海。
春介が声を上げる。
「春をふたつ!」
春海が続ける。
「にこひとつ!」
二人が息を合わせた。
「安全運行でまいります!」
拍手。
笑い。
そして、まだ残っている涙。
スタジオ全体が一つになった。
アナウンサーも笑いながら、ようやく最後の言葉を口にした。
「泣くことも、笑うことも、生きているからこそできることなのかもしれません」
カメラがゆっくり引いていく。
画面の下部には、番組制作時点で確認された公的な相談先が表示された。
児童相談所虐待対応ダイヤル「189」。
24時間子供SOSダイヤル。
そして、今まさに身の危険がある場合には110番など緊急の助けを求めること。
詳しい相談先については、番組公式ページから確認できることも案内された。
「二時間にわたってお送りしました、日本文化教育テレビ特別番組『生きていていい――傷ついた子どもたちへ』。ご覧いただき、ありがとうございました」
最後に映ったのは、美香の笑顔だった。
隣にはアキラ。
その向こうには優馬と美鈴。
光子と優子。
奏太と小春。
客席には春介と春海。
美香が一人だった頃には、誰一人としてそこにいなかった人たちだった。
画面がゆっくり暗くなる。
午後十時。
二時間の生放送は終了した。
*
ところが、本当の反響が始まったのは、そのあとだった。
日本文化教育テレビの公式サイトには、放送終了直後から大量のメッセージが届いた。
「子どもと一緒に見ました」
「自分が子どもの頃に言ってほしかった言葉がたくさんありました」
「子どもの『大丈夫』をそのまま信じてはいけないという話が心に残りました」
「学校に行けない自分をずっと負けだと思っていました」
「相談窓口を初めて知りました」
「優馬さんで泣いて、光子さんで笑いました」
「二時間ずっと重いままではなく、最後に家族で笑えたことに救われました」
その中に、一通だけ、極端に短いメッセージがあった。
「今、先生に連絡しました」
たった十一文字ほどの文章。
番組スタッフは、そのメッセージを見つけて手を止めた。
名前はない。
年齢もない。
どこに住んでいるのかも分からない。
何があったのかも分からない。
それでも。
誰かが動いた。
誰かが、一人で抱えることをやめた。
番組が放送された意味を測るのに、視聴率だけでは足りなかった。
数週間後。
学校関係者からも問い合わせが相次いだ。
児童福祉の研修で使いたい。
保護者会で紹介したい。
学校の授業で一部を見せたい。
再放送してほしい。
日本文化教育テレビは再放送を決定し、番組公式ページには専門家の監修を受けた相談先や、子どもが助けを求める時に使える言葉、大人が子どもの変化に気づいた時の対応などが追加された。
やがて番組は、その年を代表する特別番組の一つとして語られるようになった。
しかし、後日インタビューを受けた美香は、反響について聞かれても、視聴率の話をしなかった。
「一人でもいいんです」
そう答えた。
「一人でも『助けて』って言えたなら、やってよかったです」
美香には分かっていた。
助けを求めることが、どれほど難しいか。
自分がそうだった。
怖かった。
言えなかった。
自分が悪いと思っていた。
未来が見えなかった。
そして、那珂川の橋まで行った。
それでも人生は、そこで終わらなかった。
みらいのたねにつながった。
優馬と美鈴に出会った。
光子と優子の姉になった。
アキラと出会った。
音楽を続けた。
ファイブピーチ★が生まれた。
春介と春海の母になった。
泣いた。
怒った。
何度も過去に引き戻された。
それでも、また笑った。
美香は番組収録後、誰もいなくなりかけたスタジオでグランドピアノの前へ戻った。
一音だけ鳴らす。
すると後ろからトランペットの音が返ってきた。
振り返る。
アキラだった。
「何しよると?」
美香が笑う。
「アキラこそ」
「なんとなくです」
美香はもう一音鳴らした。
アキラが返す。
美香はすぐに気づいた。
「それ……」
アキラも笑った。
「覚えとった?」
「忘れるわけないやろ」
ずっと昔。
放課後の音楽室で二人が初めて作った旋律。
『二人の音』。
当時の二人はまだ幼かった。
「美香さん」
「アキラ君」
そう呼び合っていた。
未来など知らなかった。
その少年と少女が、今は夫婦として同じスタジオに立っている。
美香がピアノを弾く。
アキラがトランペットを吹く。
誰もいなくなった客席へ、二人の音が静かに広がっていく。
美香は演奏しながら、ふと思った。
帰る場所とは、建物ではない。
住所でもない。
血のつながりだけで決まるものでもない。
泣いて帰ってもいい場所。
何もできない日に戻ってもいい場所。
失敗しても、傷ついても、それでも「おかえり」と言ってくれる人がいる場所。
そして。
生きていていいと思える場所。
最後の和音を、美香が静かに鳴らした。
アキラのトランペットが重なる。
音が消える。
美香は鍵盤へ置いた手をそのままにして、小さく笑った。
「アキラ」
「ん?」
「うち、生きていてよかった」
アキラは少しだけ目を潤ませた。
「はい」
そして笑った。
「僕も、美香に会えてよかったです」
誰も見ていないスタジオで。
二人の音が、もう一度だけ鳴った。




