帰る場所
最終話
「帰る場所」
那珂川の橋から帰った夜。
美香は、ピアノの前に座っていた。
隣にはアキラ。
少し離れた布団には、春介と春海が並んで眠っている。
小さな寝息が、静かに部屋を満たしていた。
美香は鍵盤に指を置いた。
曲名は――
『生きていてよかった』
最初の音は、暗かった。
那珂川の水面を思わせる、低く沈むピアノ。
あの日の息苦しさ。
未来が見えなかった夜。
助けてと言えなかった少女。
そこに、アキラのトランペットが静かに重なる。
遠くから差す、細い光のような音。
やがて、光子と優子を思わせる軽やかな旋律が入る。
少し不器用で、少し騒がしくて、でもあたたかい。
美香は弾きながら笑った。
「ここ、絶対みっちゃんとゆうちゃんやね」
アキラも頷く。
「うん。すぐわかる」
曲は進む。
優馬と美鈴の包み込むような和音。
みらいのたねの優しい響き。
アキラとの出会い。
ファイブピーチ★の力強いリズム。
春介と春海の小さな笑い声。
すべてが音になっていく。
数週間後。
福岡交響楽団のホール。
特別公演の終盤で、その曲は初披露された。
客席には、美香を支えてきた人たちがいた。
優馬。
美鈴。
光子。
優子。
奏太。
小春。
村瀬家。
みらいのたねのスタッフ。
赤嶺家。
そして、春介と春海。
演奏が始まる。
美香のピアノ。
アキラのトランペット。
オーケストラが少しずつ重なる。
暗い水面から始まった旋律は、やがて朝の光へ変わっていく。
最後の主題では、春介と春海を思わせる明るい音が、ホールいっぱいに広がった。
曲が終わった瞬間、会場は静まり返った。
誰もすぐには拍手できなかった。
やがて、ひとつの拍手。
そして、全員の拍手。
優馬は号泣。
美鈴も涙を拭いている。
光子と優子は、泣きながら笑っていた。
春介が客席で小さく言った。
「まま、すごい」
春海も頷く。
「まま、きらきら」
美香はステージ上で涙をこらえ、深く頭を下げた。
その夜。
赤嶺家には、みんなが集まった。
夕食のテーブルには、料理が並んでいる。
春介と春海は、光子と優子にまとわりついていた。
「みーちゅおねーしゃん!」
「ゆーこおねーしゃん!」
光子は完全にメロメロ。
「もう何でも買ってあげるたい」
優子が即座に止める。
「甘やかしすぎ」
春海がぱちっとウィンク。
「ゆーこおねーしゃん、しゅき」
優子、撃沈。
美香はお腹を抱えて笑った。
「結局、優子も弱かね」
アキラも笑う。
「完全に受け継がれてる」
優馬が味噌汁をすすりながら言った。
「こういう時間が一番よかね」
美鈴が頷く。
「うん。みんなで笑って、ご飯食べて」
美香は、その言葉を聞いて、ふと部屋を見渡した。
自分の帰る場所。
アキラがいる。
春介と春海がいる。
優馬と美鈴がいる。
光子と優子がいる。
笑い声がある。
ご飯の匂いがある。
音楽がある。
昔の自分が欲しくて欲しくてたまらなかったものが、ここにある。
美香は静かに言った。
「うち、ここが好き」
アキラが微笑む。
「僕も」
美鈴が美香を見る。
「美香、ここはいつでも帰ってきてよか場所たい」
優馬も頷いた。
「ずっと、うちの娘やけん」
美香の目に涙が浮かぶ。
「うん」
光子が突然立ち上がる。
「では最後に!」
優子が警戒する。
「何を始める気?」
光子は春介と春海を呼ぶ。
「双春、出番たい!」
春介と春海が前へ出る。
春介
「春をふたつ!」
春海
「にこひとつ!」
二人そろって、
「安全運行でまいります!」
全員、大爆笑。
美香は涙を流しながら笑った。
その笑い声の中で、美香は思った。
帰る場所とは、建物のことではない。
自分を待ってくれる人がいること。
泣いてもいい場所があること。
笑える時間があること。
そして、明日もまた「ただいま」と言えること。
それが、帰る場所なのだ。
夜が更けた。
みんなが帰り、春介と春海も眠ったあと。
美香は窓の外を見た。
福岡の街灯が、静かに光っている。
アキラが隣に来る。
「美香」
「ん?」
「幸せ?」
美香は少し考えた。
そして笑った。
「うん。幸せ」
その言葉を、昔の自分に聞かせたかった。
那珂川の橋で震えていた少女に。
みらいのたねで泣き叫んでいた少女に。
言ってあげたかった。
大丈夫。
あなたには、帰る場所ができるよ。
あなたは、笑えるようになるよ。
あなたは、愛されるよ。
あなたは、誰かを愛せるようになるよ。
そしていつか、心から言える日が来る。
生きていてよかった、と。
美香は、眠っている春介と春海の布団をそっと直した。
アキラと並んで、部屋の灯りを少し落とす。
小さな寝息。
静かな夜。
あたたかな家。
美香は目を閉じ、胸の中でそっと呟いた。
「ただいま」
その言葉に答えるように、春海が寝言で小さく言った。
「まま……」
美香は微笑んだ。
ここが、帰る場所だった。
完




