それでも朝は来る
第百二十三話
「それでも朝は来る」
朝が来た。
カーテンの隙間から、やわらかい光が差し込んでいる。
赤嶺家のリビングでは、春介と春海が幼稚園の制服に着替えながら、すでにひと騒動起こしていた。
春介が帽子をかぶり、胸を張る。
「安全運行でまいります!」
春海がすぐに言う。
「まず靴下、片方ちがう」
春介が足元を見る。
「あ」
アキラが笑いながら靴下を取り替える。
「朝から双春運行、乱れとるね」
美香はお弁当を包みながら、声をかけた。
「二人とも、今日は園で暴走せんとよ」
春介と春海は同時に答える。
「はーい!」
その返事の調子だけで、美香は少し怪しいと思った。
「……ほんとかな」
アキラが苦笑する。
「たぶん、園長先生が何とかしてくれる」
「お母さんに丸投げやん」
玄関で、二人は美香に抱きついた。
「まま、いってきます!」
「まま、おんがく、がんばってね!」
美香は二人を抱きしめる。
「うん。春介と春海も、幼稚園楽しんでおいで」
そして二人は、朝の光の中へ駆けていった。
春介と春海は幼稚園へ。
アキラと美香は、復職した福岡交響楽団へ。
日常が戻っていた。
けれど、それは昔と同じ日常ではない。
夫婦になり、親になり、音楽家としてまた舞台へ戻った二人の、新しい日常だった。
福岡交響楽団の練習場に着くと、団員たちが美香を迎えた。
「赤嶺さん、おかえりなさい」
「復帰おめでとう」
「無理しないでくださいね」
美香は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。またよろしくお願いします」
トロンボーンケースを開ける。
久しぶりの楽団の空気。
譜面台。
椅子。
ざわめき。
そして、音が鳴り始める前の静けさ。
美香は息を吸った。
母になってから初めて鳴らす、楽団での音。
最初のロングトーン。
深く、あたたかい音が響いた。
隣の奏者が小さく笑う。
「音、変わりましたね」
美香が驚く。
「変わりました?」
「前より、少し包む感じがします」
美香はトロンボーンを見つめた。
春介と春海の寝息。
夜泣き。
抱っこの重さ。
小さな手。
全部が音に混じっているのかもしれない。
その頃、アキラも客演奏者として別室のリハーサルに参加していた。
トランペットの音は、以前よりもまっすぐで、どこか父親らしい落ち着きがあった。
休憩時間。
二人は廊下で合流した。
「どう?」
アキラが聞く。
「緊張した。でも、帰ってきた感じがした」
「よかった」
「アキラは?」
「僕も。なんか、音が少し変わった気がする」
美香は笑った。
「親になった音?」
「たぶんね」
その日の夜。
美香とアキラは、子育ての日々を曲にする作業を始めた。
タイトルは、すでに決まっていた。
『二つの命への賛歌』
― Hymn for Two Lives ―
三部構成のクラシック作品。
双子の子育て奮闘記を、ただ可愛らしく描くだけではない。
眠れない夜。
泣き声に戸惑う朝。
初めて笑った日。
初めて「まま」と呼ばれた日。
光子と優子が「おばちゃん」と呼ばれて撃沈した日。
春介と春海が幼稚園で人を笑わせ始めた日。
その全部を、音にする。
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第一部
「小さな寝息」
静かな弦の和音から始まる。
夜。
暗い部屋。
やっと眠った春介と春海。
そのそばで、疲れ切った美香とアキラが、ただ寝息を聞いている。
ピアノが、二つの小さな呼吸を表す。
トロンボーンが、母の祈りのように低く歌う。
トランペットは遠くから、父の見守る光として入る。
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第二部
「夜泣きと朝ごはん」
一転して、忙しい曲になる。
木管が慌ただしく動き、打楽器が不規則に鳴る。
泣く春介。
つられて泣く春海。
ミルク。
おむつ。
洗濯。
朝ごはん。
そして寝不足のまま始まる一日。
途中に光子と優子をイメージしたコミカルなフレーズが入り、会場をくすっと笑わせる仕掛けもある。
アキラは譜面を見ながら言った。
「ここ、完全に光子ちゃんと優子ちゃんやね」
美香は笑う。
「うん。外せんやろ」
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第三部
「春をふたつ」
最後は、明るく広がっていく曲。
幼稚園の園庭。
春介と春海の笑い声。
ピーチシード★。
双春。
子どもたちが未来へ向かって走り出す音。
終盤では、第一部の寝息の主題が、壮大な賛歌として戻ってくる。
小さな寝息が、やがて大きな希望になる。
それが、この組曲の核だった。
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制作は決して楽ではなかった。
美香は子育ての合間に譜面を書いた。
アキラは春介と春海を寝かしつけたあと、トランペットの旋律や金管の構成を考えた。
時には、春介と春海が譜面に落書きしそうになり、美香が慌てて止める。
「それはママのお仕事!」
春介が言う。
「ぼくもかく!」
春海も言う。
「はるみも!」
アキラが笑う。
「将来、共同作曲者になるかもね」
美香は譜面を守りながら苦笑した。
「今はまだ早か」
完成した『二つの命への賛歌 ― Hymn for Two Lives ―』は、福岡交響楽団の特別公演で初演された。
そして、同時に配信リリースも行われた。
クラシック作品としては異例だった。
長尺の三部構成。
派手なポップスではない。
それでも、再生回数は驚くほどの速さで伸びた。
コメント欄には、さまざまな声が並んだ。
「クラシックで泣いたの初めて」
「夜泣きの曲で笑ったのに泣いた」
「子育て経験者には刺さりすぎる」
「第三部の『春をふたつ』が美しすぎる」
「小さな寝息が賛歌になる構成がすごい」
「美香さんの人生を知っていると、重みが違う」
特に、第一部『小さな寝息』は大きな反響を呼んだ。
かつて眠る場所すら安心できなかった美香が、今は我が子の寝息を守る曲を書いている。
その事実が、多くの人の胸を打った。
公演後。
楽屋に戻った美香を、春介と春海が駆け寄って迎えた。
「まま!」
「まま、すごかった!」
美香は二人を抱きしめた。
「ありがとう」
アキラも隣で笑っている。
優馬は当然のように号泣。
美鈴はハンカチで涙を押さえる。
光子は胸を張って言った。
「第二部、うちらのテーマ入っとった!」
優子が頷く。
「やっぱり変なフレーズは私たち担当やね」
美香は笑った。
「一応、愛情込めたんよ」
優子が即座に言う。
「愛情の形がコミカルすぎる」
全員が笑った。
その笑い声の中で、美香は思った。
朝は来る。
どれだけ暗い夜を過ごしても。
どれだけ泣いた夜があっても。
誰かの寝息を守りたいと思える朝が来ることがある。
そして、その朝を音にできる日が来ることもある。
美香は春介と春海を抱きしめたまま、静かに呟いた。
「あなたたちが、うちの朝たい」
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次回予告
復職した美香とアキラ。
子育ての日々を音にした三部構成の組曲、
『二つの命への賛歌 ― Hymn for Two Lives ―』は、クラシック作品として異例の反響を呼ぶ。
春介と春海の寝息。
夜泣き。
朝ごはん。
笑い声。
そのすべてが音になった。
そして次回、物語は再び那珂川へ向かう。
次回、第百二十四話
「生きていてよかった」




