あの日の私へ
第百二十二話
「あの日の私へ」
博多南幼稚園の園庭に、春介と春海の笑い声が響いていた。
「春をふたつ!」
「にこひとつ!」
「安全運行でまいります!」
その決め台詞に、園児たちが笑い転げる。
先生たちも笑う。
保護者たちも笑う。
美鈴園長は、職員室の窓からそれを見て、静かに微笑んでいた。
迎えに来た美香は、その光景を少し離れた場所から見ていた。
春介と春海が、人を笑わせている。
自分の子どもたちが、誰かの心を明るくしている。
それがたまらなく嬉しかった。
そして同時に、胸の奥に、遠い昔の自分が浮かんだ。
那珂川の橋の欄干。
暗い水面。
もう苦しまなくて済むと思った、あの日の自分。
みらいのたねの事務所で、テレビのニュースを見て、過去の虐待が頭の中に蘇り、
「もういや。誰か私を殺して」
と泣き叫んだ自分。
美香は、園庭の隅でそっと目を閉じた。
もし、あの日の自分に会えるなら。
何を言うだろう。
美香は心の中で、静かに語りかけた。
あの日の私へ。
あなたは、悪くない。
あなたが弱かったわけじゃない。
あなたが我慢できなかったわけじゃない。
あなたは、もう限界まで頑張っていた。
誰にも言えず、誰にも助けを求められず、それでも生きようとしていた。
あの時は、未来なんて見えなかったよね。
ご飯を食べていい日が来るなんて。
安心して眠れる夜が来るなんて。
誰かに「お姉ちゃん」と呼ばれる日が来るなんて。
音楽に出会うなんて。
アキラと結婚するなんて。
春介と春海を産むなんて。
想像できなかったよね。
でも、来たよ。
ちゃんと、来たよ。
美香は目を開けた。
春介が転んだ。
春海が慌てて駆け寄る。
「しゅんしゅけ、大丈夫?」
「だいじょぶ!」
春介は立ち上がり、なぜか両手を広げる。
「転んでも、運行再開!」
春海が即座に言う。
「安全確認してから!」
園庭、爆笑。
美香も吹き出した。
涙がこぼれた。
笑いながら泣いた。
そこへ美鈴が歩いてきた。
「美香」
「お母さん」
「泣いとると?」
美香は頷いた。
「うん。でも、悲しい涙やなか」
美鈴は隣に立った。
「そう」
美香は園庭を見つめたまま言った。
「うち、あの日の自分に言ってあげたい。生きててよかったって」
美鈴の目も潤んだ。
「うん」
「この子たちの笑い声、聞かせてあげたい」
美鈴は、そっと美香の肩に手を置いた。
「届いとるよ。きっと」
美香は静かに頷いた。
その日の夜。
美香は日記を開いた。
子どもたちが眠ったあと、アキラが隣で静かに譜面を書いている。
美香はペンを取り、ゆっくり書いた。
⸻
あの日の私へ。
あなたは今日、春介と春海の笑い声を聞きました。
あなたが終わらせようとした人生の先に、こんな日がありました。
あの日、手を離さなかった人がいました。
そこから、たくさんの人に出会いました。
お父さん。
お母さん。
光子。
優子。
アキラ。
奏太。
小春。
みらいのたねのみんな。
村瀬家のみんな。
赤嶺家のみんな。
たくさんの人が、あなたの人生を支えてくれました。
今、私は母になりました。
春介と春海は、毎日笑っています。
私は、その笑い声を守りたいと思っています。
だから、あの日の私に伝えます。
生きていてくれて、ありがとう。
手を離さないでくれて、ありがとう。
今はまだ信じられなくてもいい。
でも、いつか必ず、笑える日が来ます。
美香より。
⸻
書き終えた美香は、静かに息を吐いた。
アキラが顔を上げる。
「美香」
「ん?」
「いい顔しとる」
「そう?」
「うん」
美香は少し笑った。
「今日ね、あの日の自分に手紙を書いた」
アキラは頷いた。
「読ませてくれる?」
「いつかね」
「うん。いつかでよか」
隣の部屋から、春介と春海の寝息が聞こえる。
小さく、あたたかい寝息。
美香はそっと言った。
「この音、守りたい」
アキラが答える。
「一緒に守ろう」
福岡の夜は静かだった。
でも美香の心には、園庭の笑い声がずっと響いていた。
あの日の自分に、ようやく届くような気がした。
⸻
次回予告
春介と春海の笑い声を聞きながら、美香はあの日の自分へ手紙を書く。
那珂川の橋で未来を見失っていた少女。
みらいのたねで泣き叫んでいた少女。
その少女へ、今の美香は伝える。
「生きていてくれて、ありがとう」
そして、物語はいよいよ最終章へ向かう。
次回、第百二十三話
「それでも朝は来る」




