母になる日々
第百十一話
「母になる日々」
美香の妊娠が公表されてから、ファイブピーチ★の活動体制は大きく変わった。
双子妊娠。
しかも初めての妊娠。
ファイブピーチ★のライブは体力を使う。
移動も多い。
リハーサルも長い。
曲によっては、演歌からヘビメタまで一気に駆け抜ける。
ステージ上の熱量は、普通のバンド以上だった。
だから、美香はしばらくライブツアーには参加しないことになった。
最初にその話をした時、美香は少しだけ申し訳なさそうな顔をした。
「みんな、ごめんね」
光子が即座に首を振る。
「謝らんでよか」
優子も真剣に言う。
「美香お姉ちゃんと赤ちゃんたちが一番大事たい」
奏太も頷いた。
「美香さんが安心して休める形にしましょう」
小春も言った。
「私たちで守ります」
美香の目が潤む。
「ありがとう」
とはいえ、現実的な問題があった。
ファイブピーチ★の曲には、美香の音が深く入り込んでいた。
ピアノ。
ストリングスアレンジ。
アコースティックギター。
クラシックギター。
ときにはトロンボーン。
そして全体の音楽監督的な役割。
美香が抜けると、曲の骨格が変わってしまう。
特に『玄界灘、冬の波』や『南半球の約束』の一部を取り入れたアレンジ曲、『未来色ハーモニー』のピアノ導入は、美香の音なしでは成立しなかった。
そこで白羽の矢が立ったのは、美香の音大時代からの仲間だった。
名前は、
佐伯由梨奈
音大時代、美香と同じ作曲演習や室内楽の授業で何度も組んだ仲間。
ピアノを軸に、ストリングスアレンジ、アコースティックギター、クラシックギターまでこなせる器用な音楽家だった。
美香から直接連絡を受けた由梨奈は、電話口で驚いた。
「え、私がファイブピーチ★のサポート?」
「うん。由梨奈なら頼めると思って」
「いや、光栄やけど……美香の代役って、荷が重すぎん?」
美香は少し笑った。
「代役っていうより、支えてほしかと」
由梨奈は少し黙ったあと、言った。
「わかった。全力でやる」
それから由梨奈の特訓が始まった。
ファイブピーチ★の譜面は、とんでもなく幅が広い。
ポップス。
演歌。
ヘビメタ。
民謡。
クラシック風組曲。
ジャズ。
バラード。
由梨奈は、初日に譜面の山を見て固まった。
「……これ、一人分?」
優子が静かに頷く。
「美香お姉ちゃんの担当分です」
由梨奈は天井を見上げた。
「美香、普段これ全部やっとったと?」
光子が胸を張る。
「美香お姉ちゃんは変態音楽職人たい」
美香が即座にツッコむ。
「言い方!」
由梨奈は笑いながらも、譜面をめくった。
「でも、すごい。ひとつひとつ、ちゃんと意味がある」
美香は真剣に説明した。
「ここは光子のベースを邪魔せんように、ピアノは薄く」
「このストリングスは小春のシンセと重ねる」
「奏太のギターが出るところは、アコギを引きすぎんように」
「優子のドラムが跳ねる曲は、左手のリズムを少し軽く」
由梨奈は必死にメモを取った。
「これ、音楽理論の授業より濃いんやけど」
奏太が苦笑する。
「美香さんの曲、見た目より細かいです」
小春も頷いた。
「気持ちで弾くけど、設計はすごく緻密です」
美香は照れた。
「そんな持ち上げんでよか」
由梨奈は首を振る。
「いや、これはちゃんと引き継がんといかん」
リハーサルは、最初から順調だったわけではない。
由梨奈の技術は高い。
でも、美香の音には、美香の人生が乗っていた。
『未来色ハーモニー』のイントロ。
由梨奈が弾くと、音は正確だった。
でも、少しだけ軽かった。
優子が言う。
「音は合っとる」
光子が少し考える。
「でも、美香お姉ちゃんのピアノは、もっと抱きしめる感じたい」
由梨奈は頷いた。
「なるほど……抱きしめる感じ」
美香は柔らかく言った。
「この曲は、うちが初めて三人で歌った曲やけん。怖さも、希望も、両方入っとる」
由梨奈はもう一度弾いた。
今度は、少し深い音になった。
奏太が頷く。
「近づきました」
小春が微笑む。
「温かくなりました」
由梨奈は息を吐いた。
「難しい……でも楽しい」
美香はその様子を見ながら、少し安心した。
自分がステージに立てないことは寂しい。
でも、音は続いていく。
それが嬉しかった。
一方で、妊娠中の美香の日々は簡単ではなかった。
つわり。
眠気。
身体の重さ。
急に涙が出る日もあった。
アキラは、そんな美香をできるだけ支えた。
「今日は無理せんでよか」
「でも、譜面確認せんと……」
「譜面は逃げん」
美香は少し笑った。
「アキラ、なんかお母さんみたい」
「父になる練習中たい」
その言葉に、美香はお腹へ手を当てた。
まだ目に見えるほど大きくはない。
でも確かに、そこにいる。
二つの命。
ある日のリハーサル後。
由梨奈が美香に言った。
「美香、安心して産休入りしてよかよ」
「え?」
「私、美香の代わりにはなれん。でも、美香が帰ってくる場所は守れる」
その言葉に、美香は涙ぐんだ。
「ありがとう」
由梨奈は照れ隠しのように笑った。
「ただし、譜面は難しすぎるけん、出産後に説教する」
「そこはごめん」
光子が横から叫ぶ。
「由梨奈さん、正式にピーチ補助輪たい!」
優子が即座に言う。
「人に補助輪って言わん」
由梨奈は笑い崩れた。
「このバンド、やっぱりすごいね」
美香も笑った。
「うん。騒がしかろ」
「でも、あったかい」
美香は頷いた。
「それがファイブピーチ★たい」
そしてツアー初日。
美香は客席ではなく、配信ルームから見守った。
ステージに立つ由梨奈。
光子のベース。
優子のドラム。
奏太のエレキギター。
小春のキーボード。
美香の場所には、確かに別の音が入っている。
でも、ファイブピーチ★の音は消えていなかった。
むしろ、みんなで守ってくれている。
『未来色ハーモニー』のイントロが流れた時、美香は涙をこぼした。
アキラが隣で手を握る。
「大丈夫?」
「うん……嬉しい」
画面の中で、光子がマイクに向かって言った。
「美香お姉ちゃん、見とる?」
優子が続ける。
「ちゃんと帰ってくる場所、守っとるけんね」
奏太と小春も笑っていた。
由梨奈がピアノを弾く。
その音には、美香への敬意があった。
美香はお腹に手を当てて、静かに言った。
「あなたたちも聴いとる? これが、ママの大事な仲間たちよ」
ライブは大成功だった。
SNSには、
「由梨奈さんすごい」
「美香ちゃんの場所を大切に守ってる感じがした」
「ファイブピーチ★、サポート入っても温かい」
「妊娠中の美香ちゃんを支える体制、泣ける」
「帰ってくる場所があるっていいな」
という声が溢れた。
その夜、美香は由梨奈にメッセージを送った。
『ありがとう。泣いた』
すぐに返信が来た。
『泣くの早い。まだツアー初日』
続けて、
『でも、帰ってくるまで守るけん』
美香はスマホを胸に抱いた。
母になる日々。
それは不安も多い。
身体も思うように動かない。
でも、美香の周りには、支えてくれる人たちがいた。
家族。
仲間。
夫。
そして、まだ生まれていない二つの命。
美香は静かに目を閉じた。
自分の音は今、誰かに預けられている。
それは寂しさではなく、信頼だった。
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次回予告
ファイブピーチ★のツアーは、美香の音大時代の仲間・佐伯由梨奈をサポートに迎えて続く。
美香の音を守るため、必死に譜面を覚える由梨奈。
仲間たちの支えを受けながら、美香は少しずつ母になる身体と向き合っていく。
そして次の検診で、双子の鼓動をはっきりと聞くことになる。
次回、第百十二話
「お腹の音」




