未来へつなぐ音
第百八話
「未来へつなぐ音」
組曲『南半球の約束』の初演から、しばらく経った。
美香とアキラの名前は、夫婦演奏家としても少しずつ知られるようになっていた。
福岡交響楽団での演奏。
ファイブピーチ★としてのライブ。
作曲活動。
夫婦での小さな日常。
朝、台所で味噌汁を作る音。
アキラが譜面をめくる音。
美香がピアノで短い旋律を確かめる音。
それら全部が、二人の暮らしの音だった。
ある夜。
美香は、リビングの窓辺に座っていた。
外には福岡の夜景が広がっている。
アキラが、そっと声をかけた。
「美香、どうしたと?」
美香は少し笑った。
「なんかね……最近、思うと」
「何を?」
「いつか、子どもがほしかなって」
アキラは静かに隣へ座った。
美香は胸に手を当てる。
「昔のうちは、家族って言葉が怖かった。親になるなんて、考えたこともなかった」
「うん」
「でも今は……アキラとなら、あったかい家族を作れる気がする」
アキラは、美香の手を握った。
「僕も、同じこと考えとった」
美香が驚いて顔を上げる。
「ほんと?」
「うん。美香となら、きっと大丈夫やって」
美香の目に涙が浮かんだ。
「うち、お母さんになれるかな」
アキラはすぐに答えた。
「なれるよ」
そして少し考えてから、言い直した。
「いや、違うね。最初から完璧なお母さんにならんでよか。僕も完璧なお父さんにはなれん。でも、二人で覚えていけばよか」
美香は涙を拭きながら笑った。
「アキラらしか」
「美香らしく、僕らしくでよか」
その言葉に、美香の胸があたたかくなった。
翌日。
小倉家で夕食を食べている時、光子が何かを察したように美香を見た。
「美香お姉ちゃん、なんか顔がやわらかか」
優子も頷く。
「これは何かある顔たい」
美香は慌てた。
「な、何もなかよ」
光子がにやりと笑う。
「アキラお兄ちゃん関係?」
美香の顔が少し赤くなる。
「違……いや、違わんけど……」
優子が箸を置いた。
「完熟トマト、再発」
優馬がすぐ反応する。
「美香、何か悩みあると?」
美鈴も優しく見つめる。
美香は少し迷ったあと、正直に言った。
「いつか、子どもがほしかなって……アキラと話しよった」
その瞬間。
優馬の目に涙が浮かんだ。
「美香が……お母さんに……」
美鈴も目元を押さえる。
「そう思えるようになったんやね」
光子は両手を上げた。
「うちら、叔母さんになる可能性!」
優子が冷静に言う。
「まだ気が早か」
光子は真顔で返す。
「でも準備は必要たい」
「何の準備?」
「赤ちゃん向けギャグ」
美香が即座に止めた。
「それはまだよか」
全員が笑った。
その笑いの中で、美香は思った。
家族の話をして、笑える。
未来の子どもの話をして、怖くない。
それが、どれほど大きなことか。
その夜、美香は譜面帳を開いた。
タイトルだけを書いた。
『未来へつなぐ音』
まだ旋律はない。
でも、心の中では確かに鳴っていた。
それは、母になりたいと願い始めた美香の、新しい音だった。
次回予告
美香の中に芽生えた、新しい命への願い。
アキラとなら、家族を作れるかもしれない。
そう思い始めた美香だったが、ほどなくして体調に小さな変化が現れる。
疲れやすさ。
匂いへの敏感さ。
そして、胸の奥に宿る小さな予感。
次回、第百九話
「小さな予感」




