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第二十一話 ライトお兄ちゃん②

****


「…タカヤは…まだ寝(ね)てるのか?」


「そうみたい。この子(こ)いつも勉強(べんきょう)とか頑張(がんば)ってるから、ちょっと疲(つか)れてたのかしら」


「しかし…今日(きょう)本部(ほんぶ)に来(き)てからずっと寝(ね)ているだろう…? いくら何(なん)でも、少(すこ)し寝(ね)過(す)ぎじゃないか…?」


「…そうよね、そろそろ地球(ちきゅう)に帰(かえ)る時間(じかん)だし起(お)こさなきゃ」


 春子(はるこ)は優(やさ)しい手(て)つきで、タカヤの体(からだ)をトントンと叩(たた)きます。


「タカヤ? 起(お)きて、タカヤ…タカヤ?」


 …異変(いへん)に気(き)がついた諄(じゅん)弌(いち)が春子(はるこ)の隣(となり)に来(き)て、タカヤの肩(かた)を掴(つか)んで乱暴(らんぼう)に揺(ゆ)すりました。


「タカヤ! おい、起(お)きろ! タカヤ!」


 どれだけ揺(ゆ)すっても、呼(よ)びかけても、タカヤの瞼(まぶた)は動(うご)きません。


 初(はじ)めて聞(き)いた諄(じゅん)弌(いち)の大声(おおごえ)に驚(おどろ)いて、ちょうど部屋(へや)の前(まえ)を通(とお)りかかったヒカルが慌(あわ)てて扉(とびら)を開(あ)けて入(はい)って来(き)ました。


「父(とう)さん⁉ どうしたの、そんなに大(おお)きな声(こえ)出(だ)して…」


「…タカヤが、目(め)を覚(さ)まさない! ヒカル、今(いま)すぐ医務室(いむしつ)から人(ひと)を呼(よ)んできてくれないか!」



****



「信(しん)じがたいですが…この子(こ)は宇宙(うちゅう)風邪(かぜ)にかかっています」


 医務室(いむしつ)から来(き)た黒(くろ)いET(いーてぃー)は、タカヤを診察(しんさつ)して…重(おも)い口(くち)を開(ひら)きました。


 宇宙(うちゅう)風邪(かぜ)はこの宇宙(うちゅう)に昔(むかし)からある病気(びょうき)です。


 発症(はっしょう)すると眠(ねむ)ったまま目(め)を覚(さ)ますこと無(な)く、そのまま体(からだ)が内側(うちがわ)から蝕(むしば)まれていく…以前(いぜん)までは不治(ふじ)の病(やまい)として恐(おそ)れられていました。


「宇宙(うちゅう)風邪(かぜ)って…地球(ちきゅう)人(じん)はかからないんじゃなかったんですか⁉」


 ヒカルが黒(くろ)いET(いーてぃー)に詰(つ)め寄(よ)ります。


「…聞(き)くところによると、この子(こ)は地球(ちきゅう)の外(そと)で産(う)まれたそうですね。その後(ご)もここ、ポスリコモスで過(す)ごす時間(じかん)が長(なが)かったなら…本来(ほんらい)地球人(ちきゅうじん)が持(も)っているはずの、地球(ちきゅう)で培(つちか)うことの出来(でき)る抗体(こうたい)が少(すく)なかったのかもしれません…本当(ほんとう)にお気(き)の毒(どく)です、まだお若(わか)いのに」


 黒(くろ)いET(いーてぃー)は、心底(しんそこ)可哀想(かわいそう)なものを見(み)る目(め)をタカヤに向(む)けました。


「お気(き)の毒(どく)…? 一体(いったい)、どういう意味(いみ)ですか…?」


 春子(はるこ)が声(こえ)を震(ふる)わせます。


「…確(たし)か、宇宙(うちゅう)風邪(かぜ)には特効薬(とっこうやく)が出来(でき)て、以前(いぜん)のような治(なお)らない病(やまい)では無(な)くなったのでは…?」


 諄(じゅん)弌(いち)が問(と)うと…黒(くろ)いET(いーてぃー)は視線(しせん)を逸(そ)らして少(すこ)し考(かんが)えてから、覚悟(かくご)を決(き)めたように三人(さんにん)の方(ほう)を向(む)きました。


「宇宙風邪(うちゅうかぜ)の唯一(ゆいいつ)の特効薬(とっこうやく)は、プニプヨ星(せい)に生育(せいいく)するモジェリという花(はな)です。しかしこの花(はな)は…地球人(ちきゅうじん)にとっては恐(おそ)ろしいほどの猛毒(もうどく)です、花(はな)びら一枚(いちまい)飲(の)ませることは出来(でき)ない。そして…悲(かな)しいことですが、モジェリの花(はな)を飲(の)むこと無(な)く…この病気(びょうき)が治(なお)った事例(じれい)は今(いま)まで聞(き)いたことがありません」


 …静(しず)かな部屋(へや)には、黒(くろ)いET(いーてぃー)の擦(す)るような足音(あしおと)だけが聞(き)こえます。


「…つまりこの子(こ)には、私(わたし)たちが出来(でき)ることはありません。持(も)って一ヶ月(いっかげつ)…はっきり言(い)います、二(に)度(ど)と目(め)を覚(さ)ますことはないでしょう」


 黒(くろ)いET(いーてぃー)は、扉(とびら)の前(まえ)で一度(いちど)だけ振(ふ)り返(かえ)って目(め)を細(ほそ)めると


「本当(ほんとう)に…お気(き)の毒(どく)です」


 そう一言(ひとこと)残(のこ)して、部屋(へや)の外(そと)へと出(で)て行(い)きました。



****



「ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」


 …ライトは擦(す)り切(き)れて血(ち)が滲(にじ)むほど、額(ひたい)を床(ゆか)に擦(こす)りつけて土下座(どげざ)を繰(く)り返(かえ)します。


「ライトくん! もうやめて…」


 春子(はるこ)が縋(すが)って止(と)めても、ライトはもう一度(いちど)、二(に)度(ど)、三度(さんど)…涙(なみだ)で濡(ぬ)れた床(ゆか)に頭(あたま)を打(う)ち付(つ)けました。


「ごめんなさいっ…僕(ぼく)が! 僕(ぼく)が遊園地(ゆうえんち)になんて連(つ)れて行(い)ったから! 僕(ぼく)の所為(せい)で、ごめんなさい、ごめんさい…っ」


「…顔(かお)を上(あ)げてくれ、ライト君(くん)」


 諄(じゅん)弌(いち)は跪(ひざまず)いて、ライトに言葉(ことば)をかけます。


 その声(こえ)は妙(みょう)に落(お)ち着(つ)いていて、でも…その目(め)は、どこを見(み)ているかわからないほど…とても虚(うつ)ろで。


「…もう、謝(あやま)らないで欲(ほ)しい。ライト君(くん)の所為(せい)じゃない…俺(おれ)たちだって、まさか地球(ちきゅう)人(じん)が宇宙(うちゅう)風邪(かぜ)にかかるなんて思(おも)っていなかった」


 立(た)ち上(あ)がった諄(じゅん)弌(いち)は、ベッドの方(ほう)へ歩(ある)いて行(い)くと…そこで眠(ねむ)るタカヤの前髪(まえがみ)を優(やさ)しく掻(か)き上(あ)げて、そのまま愛(いと)おしそうに頭(あたま)を撫(な)でました。


 それでも…タカヤの瞼(まぶた)がほんの少(すこ)しでも、動(うご)くことはありません。


「…ねえ、父(とう)さん。タカヤは起(お)きるよね…?」


 ベッド脇(わき)の椅子(いす)に座(すわ)ったヒカルは、タカヤの手(て)を握(にぎ)ったまま、ぼんやりと呟(つぶや)きます。


「だって、こんなに温(あたた)かいのに…いつも寝(ね)てるときと、何(なん)にも変(か)わらないのに…もう二(に)度(ど)と起(お)きないなんて、そんなの…信(しん)じられるわけないじゃないか…」


 …これ以上(いじょう)無(な)いほど泣(な)き腫(は)らしたヒカルの目(め)から、また涙(なみだ)が零(こぼ)れます。


「ねぇ、タカヤ…起(お)きて? お願(ねが)い、お願(ねが)い…ねぇ、お願(ねが)いだから…!」


 春子(はるこ)は優(やさ)しくタカヤの頬(ほお)に触(ふ)れて…その手(て)を離(はな)さないまま膝(ひざ)を折(お)り、泣(な)き崩(くず)れました。




 …真(ま)っ白(しろ)な床(ゆか)に伏(ふ)したまま、ライトはそのむせび泣(な)く声(こえ)を聞(き)くことしか出来(でき)ませんでした。



****



「タカヤー、聞(き)いてくれよ。また仕事(しごと)でやらかしちゃってさぁ」


 部屋(へや)の扉(とびら)を開(ひら)いたヒカルは真(ま)っ直(す)ぐ、奥(おく)にある…あの日(ひ)からタカヤが眠(ねむ)ったままのベッドへ向(む)かいます。


「いろんな人(ひと)に迷惑(めいわく)かけちゃうし、相変(あいか)わらずコンビは決(き)まらないし…はは、タカヤだったらそういうの上手(うま)く出来(でき)そうだな」


 …管(くだ)がいくつも繋(つな)がった、少(すこ)し軽(かる)くなった体(からだ)を抱(だ)き上(あ)げて、ヒカルは棚(たな)に置(お)いてあるウェットティッシュを使(つか)ってタカヤの体(からだ)を拭(ふ)き始(はじ)めました。


「くすぐったくは…ないか。タカヤって昔(むかし)からくすぐっても全然(ぜんぜん)笑(わら)わないもんなー、俺(おれ)はすぐ笑(わら)っちゃうのに」


 全身(ぜんしん)を優(やさ)しく拭(ふ)いてあげて、服(ふく)を整(ととの)えて…最後(さいご)に新(あたら)しいウェットティッシュを使(つか)って顔(かお)を撫(な)でます。


「そうだ! 一階(いっかい)のカフェにさ、新(しん)メニューが出(で)たんだよ。タカヤがいっつも食(た)べてる赤(あか)いグミみたいなやつの新(あたら)しい味(あじ)だって!」


 おでこを撫(な)でて、頬(ほお)を撫(な)でて。


「…起(お)きたらさ、一緒(いっしょ)に食(た)べに行(い)こうな」




 …後(うし)ろから扉(とびら)をノックする音(おと)が聞(き)こえたので、ヒカルは袖(そで)で乱暴(らんぼう)に自分(じぶん)の目元(めもと)を何度(なんど)か拭(ぬぐ)いました。


「あら…ヒカル、来(き)てくれてたのね」


「母(かあ)さんいらっしゃい。あ、タカヤの体(からだ)拭(ふ)いておいたよ」


 ヒカルは立(た)ち上(あ)がって、近(ちか)くに置(お)いてある椅子(いす)をもう一脚(いっきゃく)、春子(はるこ)のために持(も)ってきます。


「ありがとう…タカヤ、綺麗(きれい)にしてもらえてよかったねー」


 その椅子(いす)に腰(こし)かけて、春子(はるこ)は掛(か)け布団(ぶとん)の端(はし)から出(で)ているタカヤの手(て)を、両手(りょうて)でキュッと包(つつ)み込(こ)みました。


 …春子(はるこ)の髪(かみ)は以前(いぜん)よりも乱(みだ)れていて、体(からだ)も少(すこ)し痩(や)せたようです。


「…母(かあ)さん大丈夫(だいじょうぶ)?」


「大丈夫(だいじょうぶ)よ、ヒカルだってしんどいのに…心配(しんぱい)してくれてありがとうね」


「…父(とう)さんは仕事(しごと)?」


「うん。本当(ほんとう)はコンビでのお仕事(しごと)の途中(とちゅう)なんけど…諄(じゅん)弌(いち)がタカヤのところに行(い)っておいでって少(すこ)しだけ時間(じかん)をくれたの。ああでも、もうすぐ戻(もど)らなきゃね」


「あのさ…仕事(しごと)、二人(ふたり)でしばらく休(やす)んだら?」


 ヒカルがそう言(い)うと、春子(はるこ)は目(め)をきょとんとさせて…ふわりと、ヒカルの頭(あたま)を撫(な)でて寂(さび)しそうに笑(わら)いました。


「そう言(い)って…ヒカルだって休(やす)まないんでしょ?」


「俺(おれ)は…だって、タカヤがその方(ほう)が喜(よろこ)ぶと思(おも)って…」


「…私(わたし)たちだって同(おな)じよ。タカヤは昔(むかし)から、仕事(しごと)頑張(がんば)ってる私(わたし)たちが好(す)きだって、かっこいいって…自分(じぶん)が熱(ねつ)を出(だ)したりすると、看病(かんびょう)のために私(わたし)たちが仕事(しごと)を休(やす)むのをひどく嫌(いや)がってたじゃない?」


 春子(はるこ)は掛(か)け布団(ぶとん)を少(すこ)し捲(めく)って、呼吸(こきゅう)で小(ちい)さく上下(じょうげ)するタカヤの胸(むね)にそっと手(て)を当(あ)てます。


 トクントクンと揺(ゆ)れて、ほんのり温(あたた)かくて…


「…タカヤにとって、かっこいい母(かあ)さんでいたいの。そうしないと…タカヤが起(お)きたときに、きっとガッカリさせちゃうわ」


 名残惜(なごりお)しそうに手(て)を離(はな)し、掛(か)け布団(ぶとん)を戻(もど)して…春子(はるこ)は椅子(いす)から立(た)ち上(あ)がると、タカヤの額(ひたい)に一(ひと)つキスを落(お)としました。


「さぁ、そろそろ諄(じゅん)弌(いち)のところに戻(もど)らないとね!」


「うん。俺(おれ)も仕事(しごと)に戻(もど)るよ…そうだ、母(かあ)さん…ライトお兄(にい)ちゃんに会(あ)った?」


「…それが、私(わたし)もあの日(ひ)から会(あ)ってないの。いつもの研究室(けんきゅうしつ)にはいないみたいで…大丈夫(だいじょうぶ)かしら、無理(むり)をしてないといいけど…」



****



「…ライト、まだ休(やす)まんのか」


 肖(しょう)造(ぞう)は特殊(とくしゅ)な鍵(かぎ)を使(つか)って、本部(ほんぶ)の地下(ちか)にある小(ちい)さな部屋(へや)に入(はい)りました。


 薄暗(うすぐら)い部屋(へや)の中(なか)に一(ひと)つだけ点(とも)る明(あ)かりの下(した)では、ライトが机(つくえ)に齧(かじ)り付(つ)いて作業(さぎょう)を続(つづ)けているようです。


「ライト、聞(き)いとるのか」


 …声(こえ)は届(とど)いているのかいないのか、返事(へんじ)はありません。


 ため息(いき)を吐(つ)きながら近(ちか)づいた肖(しょう)造(ぞう)は…ライトの側(そば)に置(お)いてあるガラス瓶(びん)の中(なか)に入(はい)っている、白(しろ)い種(たね)に気(き)が付(つ)きました。


「その種(たね)…モジェリの種(たね)か」


 …ライトはその言葉(ことば)に反応(はんのう)して、やっと顔(かお)を上(あ)げました。


 両目(りょうめ)は真(ま)っ赤(か)に充血(じゅうけつ)して、ひどい隈(くま)が出来(でき)て、髪(かみ)だってボサボサで…いつも身(み)なりを整(ととの)えていた真面目(まじめ)なライトは見(み)る影(かげ)もありません。


「…肖(しょう)造(ぞう)おじさん来(き)てたんですね。聞(き)いてくださいよ」


 ライトは散乱(さんらん)する書類(しょるい)の中(なか)から、一(いち)枚(まい)の紙(かみ)を引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)します。


「見(み)てください…モジェリは種(たね)の段階(だんかい)では地球人(ちきゅうじん)に毒性(どくせい)のある成分(せいぶん)は含(ふく)まれていないんです。つまり生育環境(せいいくかんきょう)、外的要因(がいてきよういん)によって毒(どく)を帯(お)びるようになる…それなら、毒性(どくせい)の無(な)い環境(かんきょう)で育(そだ)てることが出来(でき)れば…地球人(ちきゅうじん)が飲(の)めるモジェリの花(はな)が作(つく)れるはずだ」


 机(つくえ)の上(うえ)に並(なら)んだ小(ちい)さなガラス容器(ようき)の中(なか)には透明(とうめい)なゼリーが入(はい)っていて、さらにその中(なか)にはモジェリの種(たね)が一(ひと)つずつ埋(う)められています。


 …ただ、そのどれも芽吹(めぶ)いてすらいません。


「今度(こんど)はこの薬品(やくひん)を使(つか)ってみようと思(おも)って。これには植物(しょくぶつ)の成長(せいちょう)を早(はや)める効果(こうか)があるし」


「ライト」


「ああそうだ、こっちの栄養剤(えいようざい)も。これはプニプヨ星(せい)の大気(たいき)中(ちゅう)の成分(せいぶん)と似(に)ていて」


「ライト!」


 小(ちい)さな部屋(へや)に、肖(しょう)造(ぞう)の声(こえ)が響(ひび)きました。


「…わかっとるじゃろう? モジェリは花(はな)が咲(さ)くまでに…地球(ちきゅう)の時間(じかん)なら二(に)年(ねん)以上(いじょう)はかかる。とても間(ま)に合(あ)わん」


「…なんで、なんでそんなこと言(い)うんですかっ⁉」


 ライトは衝動(しょうどう)的(てき)に肖(しょう)造(ぞう)の胸(むな)ぐらを掴(つか)みます。


 …でも、ずっとまともに寝(ね)ても食(た)べてもいないライトは体(からだ)に力(ちから)が入(はい)らず目(め)が眩(くら)んで…すぐにその場(ば)に座(すわ)り込(こ)んでしまいました。


「大丈夫(だいじょうぶ)か、ほら…ちょっとは休(やす)め」


「嫌(いや)だ…やらなきゃ、タカヤ君(くん)が…」


「お前(まえ)まで倒(たお)れたらどうする」


「…僕(ぼく)なんて…どうなっても、いい、から…」


 …ライトはそのまま、気(き)を失(うしな)うように眠(ねむ)ってしまいました。




「どうなってもいい訳(わけ)がないじゃろ…馬鹿(ばか)ライト」


 肖(しょう)造(ぞう)はポケットに入(い)れていた栄養(えいよう)ドリンクや食(た)べ物(もの)を出(だ)して机(つくえ)の上(うえ)に置(お)くと、薄暗(うすぐら)い部屋(へや)を後(あと)にしました。



****



 タカヤが目覚(めざ)めなくなってから二十日(はつか)ほどが経過(けいか)したある日(ひ)。


 …諄(じゅん)弌(いち)がひどくぼんやりと、タカヤの眠(ねむ)るベッドの脇(わき)の椅子(いす)に座(すわ)っていると、部屋(へや)の扉(とびら)をノックしてヒカルが入(はい)ってきました。


「父(とう)さん、来(き)てたんだ。母(かあ)さんは仕事(しごと)?」


「…ヒカル」


 息(いき)を漏(も)らすように小(ちい)さく、諄(じゅん)弌(いち)は声(こえ)を絞(しぼ)り出(だ)します。


「ついさっき…医務室(いむしつ)の隊員(たいいん)がここへ来(き)て、タカヤの様子(ようす)を診(み)てくれたんだ」


 …先(さき)に続(つづ)く言葉(ことば)が嫌(いや)でも感(かん)づいて、ヒカルは今(いま)すぐ自分(じぶん)の耳(みみ)を塞(ふさ)いでしまいたいのに…体(からだ)は動(うご)いてくれません。


「…病気(びょうき)の進行(しんこう)が想定(そうてい)より早(はや)いって…あと、数日(すうじつ)持(も)たないらしい」


「…そうなんだ」


 …もっと、『嘘(うそ)だ』とか『信(しん)じない』とか、『絶対(ぜったい)治(なお)る』とか言(い)えると思(おも)っていたのに…気(き)がついたら、ヒカルはそう返事(へんじ)をしていました。


 タカヤの腕(うで)がどんどん細(ほそ)くなっても、体(からだ)を拭(ふ)いてあげたときに肋骨(ろっこつ)の凹凸(おうとつ)が顕著(けんちょ)にわかるようになっても、繋(つな)がる管(くだ)が増(ふ)えていっても、絶対(ぜったい)治(なお)るって信(しん)じて…いや、信(しん)じようとして。


 でも、本当(ほんとう)はずっと気付(きづ)いていました。


 …気付(きづ)かないフリをしていただけでした。


 そしてそれはきっと…目(め)の前(まえ)に居(い)る諄(じゅん)弌(いち)も、ここに居(い)ない春子(はるこ)も同(おな)じでした。


「…春子(はるこ)を呼(よ)んでくる。ヒカルは…タカヤの側(そば)に居(い)てやってくれないか」





 部屋(へや)の前(まえ)に立(た)って話(はなし)を聞(き)いていた肖(しょう)造(ぞう)は、足早(あしばや)にその場(ば)を離(はな)れてチューブ状(じょう)の透明(とうめい)エレベーターに乗(の)り込(こ)みました。


 最上階(さいじょうかい)に着(つ)いて、自身(じしん)の研究室(けんきゅうしつ)の奥(おく)にある資料室(しりょうしつ)への扉(とびら)を開(あ)けて…一番(いちばん)端(はし)の棚(たな)に隠(かく)すように置(お)いてあった、古(ふる)くて傷(きず)だらけの金属(きんぞく)の箱(はこ)を手(て)に取(と)ります。


 歪(ゆが)んで開(ひら)きにくい箱(はこ)をやっと開(ひら)くと、そこには厳重(げんじゅう)に閉(と)じられた小瓶(こびん)が入(はい)っていて…その中(なか)には赤(あか)と青(あお)の光(ひかり)をチカチカと放(はな)つ、真(ま)っ黒(くろ)な石(いし)が輝(かがや)いていました。


「これを…使(つか)う日(ひ)が来(き)たか」



****



「肖(しょう)造(ぞう)おじさん! 見(み)てください!」


 部屋(へや)に入(はい)ってきた肖(しょう)造(ぞう)に、ライトは珍(めずら)しく笑(わら)いかけます。


 肌(はだ)はくすむだけくすんで、めっきり痩(や)せて…そんな指先(ゆびさき)で、ライトは小(ちい)さなガラス容器(ようき)を摘(つ)まみました。


 …中(なか)に入(はい)っているモジェリの種(たね)からは、注意(ちゅうい)して見(み)ないと気(き)がつかないほど小(ちい)さな芽(め)が出(で)ています。


「ついに芽(め)が出(で)たんですよ! 後(あと)はこれを…花(はな)が咲(さ)くまで持(も)っていければ…!」


「…ライト、タカヤのことで」


「わかってます…」


 肖(しょう)造(ぞう)の言葉(ことば)を遮(さえぎ)るように呟(つぶや)いたライトは、力(ちから)なく腕(うで)を降(お)ろすとガラス容器(ようき)を机(つくえ)の上(うえ)に戻(もど)しました。


「…諄(じゅん)弌(いち)さんが来(き)て、教(おし)えてくれました…一度(いちど)でも、会(あ)いに来(き)てやって欲(ほ)しいって。でも、僕(ぼく)は…タカヤ君(くん)に会(あ)うのが、怖(こわ)い」


 声(こえ)が震(ふる)えて、あの日(ひ)からずっと我慢(がまん)していた涙(なみだ)が溢(あふ)れます。


「…あの子(こ)が、いなくなるのが、それを認(みと)めるのが怖(こわ)い…ごめんなさい、ごめんなさい…」


「ライト」


 肖(しょう)造(ぞう)は歩(あゆ)み寄(よ)ると…今(いま)まで見(み)たことの無(な)いほど真剣(しんけん)な眼差(まなざ)しを向(む)けました。


「タカヤのことで話(はなし)がある。ワシに付(つ)いて来(き)てくれんか」



****



「肖(しょう)造(ぞう)さん、お話(はなし)って…」


 部屋(へや)に入(はい)ってきた肖(しょう)造(ぞう)の方(ほう)を向(む)いた春子(はるこ)は…その後(うし)ろにいるライトに気(き)がつくと、すぐに走(はし)り寄(よ)りました。


「ライトくん…!」


「…春子(はるこ)さん、ずっと顔(かお)も見(み)せずにすみません…」


 …部屋(へや)の奥(おく)には、あの日(ひ)から変(か)わらずベッドがありました。


 ベッドの側(そば)には諄(じゅん)弌(いち)とヒカルが立(た)っていて、そしてそのベッドの上(うえ)には…ずっと見(み)ないふりをしていた光景(こうけい)が広(ひろ)がっています。


「…タカヤ君(くん)」


 近(ちか)くへ行(い)って、頭(あたま)を撫(な)でて…大好(だいす)きだよと、言(い)ってあげなきゃいけないのに、足(あし)がどうしても動(うご)きません。


 …立(た)ち尽(つ)くすライトの横(よこ)で、肖(しょう)造(ぞう)は口(くち)を開(ひら)きました。



「タカヤを、助(たす)けられるかも知(し)れん」



 部屋(へや)にいる全員(ぜんいん)が、一斉(いっせい)に肖(しょう)造(ぞう)の方(ほう)を向(む)くと…肖(しょう)造(ぞう)は白衣(はくい)のポケットの中(なか)から、ガラス瓶(びん)に入(はい)った黒(くろ)い石(いし)を取(と)り出(だ)しました。


「これはコスモピース。ワシも詳(くわ)しく知(し)っているわけでは無(な)いが…恐(おそ)ろしいほどのエネルギーを持(も)つらしい。そして…この石(いし)は生物(せいぶつ)の体(からだ)に取(と)り込(こ)まれることで力(ちから)を発揮(はっき)すると聞(き)いている。タカヤの体(からだ)にこの石(いし)を使(つか)えば、病(やまい)を打(う)ち消(け)すことが出来(でき)るかも知(し)れん」


 …コスモピースと呼(よ)ばれたその石(いし)は、赤(あか)と青(あお)の光(ひかり)を放(はな)ち…まるでこの世(よ)のものとは思(おも)えないほど、美(うつく)しく…禍々(まがまが)しい見(み)た目(め)をしています。


「しかし正直(しょうじき)…何(なに)が起(お)こるかはワシにもわからん。失敗(しっぱい)する可能(かのう)性(せい)も…もし上手(うま)くいったとしても、タカヤが…お前(まえ)たちが今(いま)よりずっと苦(くる)しい思(おも)いをする可能(かのう)性(せい)だってある」


「肖(しょう)造(ぞう)さん」


 春子(はるこ)は一歩(いっぽ)前(まえ)へ出(で)ると、深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げました。


「お願(ねが)いします、その石(いし)を…タカヤに使(つか)ってください」


 …すぐに諄(じゅん)弌(いち)も隣(となり)に並(なら)び、頭(あたま)を下(さ)げます。


「俺(おれ)からも…お願(ねが)いします、肖(しょう)造(ぞう)さん」


「…言(い)って置(お)くが、成功(せいこう)する保証(ほしょう)は無(な)いぞ」


「…わかってます。それでも…どうしても」


 顔(かお)を上(あ)げた春子(はるこ)と諄(じゅん)弌(いち)の目(め)が、揺(ゆ)らぐことはありません。


「もう一度(いちど)タカヤが目(め)を覚(さ)ます、その可能(かのう)性(せい)が欲(ほ)しいんです」





「時間(じかん)もない…始(はじ)めるぞ」


 肖(しょう)造(ぞう)はベッドに眠(ねむ)るタカヤの上(うえ)で、厳重(げんじゅう)に閉(と)じられたガラス瓶(びん)の蓋(ふた)を開(あ)けました。


 瓶(びん)の中(なか)からコスモピースが滑(すべ)り落(お)ちて、タカヤの胸元(むなもと)に触(ふ)れた、その瞬間(しゅんかん)。




 コスモピースは目(め)も開(あ)けていられないほど眩(まぶ)しい光(ひかり)を放(はな)つと、まるで溶(と)け込(こ)むよう形(かたち)を変(か)えて、タカヤの体(からだ)の中(なか)に取(と)り込(こ)まれていきました。


 すると、タカヤの全身(ぜんしん)が黒(くろ)く染(そ)まって…ヂカヂカと赤(あか)と青(あお)のまだら模様(もよう)に光(ひか)り始(はじ)めます。


 …それはまるで、タカヤの体(からだ)そのものがコスモピースになったようでした。




 五(ご)人(にん)が固唾(かたず)を飲(の)んで見守(みまも)っていると…次第(しだい)に体(からだ)の色(いろ)が元(もと)に戻(もど)って。


 瞼(まぶた)が、ピクリと動(うご)いて。



 …タカヤが目(め)を覚(さ)ましました。


 しかし…その目(め)の中(なか)には以前(いぜん)と異(こと)なり、無数(むすう)の赤(あか)と青(あお)の星々(ほしぼし)が輝(かがや)いています。



「みんな…集(あつ)まってどうした、の…?」


 タカヤは横(よこ)になったままみんなの顔(かお)を見渡(みわた)して…肖(しょう)造(ぞう)を見(み)ると、その動(うご)きを止(と)めましたが…すぐに春子(はるこ)とヒカルに抱(だ)きつかれて、首(くび)をそちら側(がわ)に向(む)けました。


「タカヤ! タカヤ…っ!」


「母(かあ)さん? どうして泣(な)いてるの?」


「うわぁああん…タカヤぁあ…!」


「兄(にい)ちゃんまで…俺(おれ)が寝(ね)てる間(あいだ)に何(なに)かあった? …え⁉ 父(とう)さんも…ライトお兄(にい)ちゃんも泣(な)いてるの⁉」


 タカヤは何(なに)が起(お)こっているのかわからず困惑(こんわく)しながらも…もう一度(いちど)、確(たし)かめるように肖(しょう)造(ぞう)の方(ほう)を見(み)ます。


 …目(め)が合(あ)った肖(しょう)造(ぞう)は、パチンと一(ひと)つウインクをして見(み)せるだけでした。



****



「タカヤ、調子(ちょうし)はどうだ?」


 ヒカルが嬉(うれ)しそうに部屋(へや)に入(はい)ると、ベッドに座(すわ)って勉強(べんきょう)をしていたタカヤが顔(かお)を上(あ)げました。


「兄(にい)ちゃん、来(き)てくれてありがとう。調子(ちょうし)は…うん、大丈夫(だいじょうぶ)!」


「そっか! それならよかった…って、タカヤまた夏(なつ)服(ふく)着(き)てるのか。掛(か)け布団(ぶとん)も使(つか)ってる様子(ようす)が無(な)いし…この部屋(へや)そんなに暑(あつ)いかな?」


「うーん…なんか、着込(きこ)んでるとちょっと苦(くる)しくて」


「ふーん? それもあの…コスモピースってやつの影響(えいきょう)なのかな?」


 ヒカルはタカヤの隣(となり)に座(すわ)ると、持(も)ってきた紙袋(かみぶくろ)を膝(ひざ)の上(うえ)に置(お)いて中身(なかみ)を探(さぐ)り始(はじ)めます。


「そうそう、これ買(か)ってきたんだ! 一階(いっかい)のカフェの新(しん)メニュー! タカヤが好(す)きなやつの新(あたら)しい味(あじ)だって。昼食(ちゅうしょく)もまだだしお腹(なか)空(す)いただろ?」


 紫色(むらさきいろ)のグミのようなものがたくさん入(はい)った箱(はこ)を、ヒカルはタカヤに手渡(てわた)しました。


「…うん、嬉(うれ)しい。兄(にい)ちゃんありがとう!」


 …コスモピースのエネルギーで満(み)たされたタカヤの体(からだ)が空腹(くうふく)を感(かん)じることはありませんし、この食(た)べ物(もの)だってみんなが喜(よろこ)ぶから好(す)きなことにしているだけです。


 でもヒカルの気持(きも)ちがとっても嬉(うれ)しいので、タカヤは紫色(むらさきいろ)のそれをいくつも手(て)に取(と)って、喉元(のどもと)を締(し)めて強引(ごういん)に飲(の)み込(こ)みました。




 扉(とびら)がノックされて、今度(こんど)はおずおずとライトが顔(かお)を出(だ)します。


「タカヤ君(くん)、調子(ちょうし)は…あ、ヒカル君(くん)も来(き)てたんだね」


 ライトは両手(りょうて)に大量(たいりょう)…と言(い)う言葉(ことば)では足(た)りないほど大量(たいりょう)の手土産(てみやげ)を持(も)っています。


「あ、ライトおに…ライトさん。って、もしかしてそれ全部(ぜんぶ)タカヤに…?」


「もちろんだよヒカル君(くん)。これはタカヤ君(くん)が興味(きょうみ)ありそうな本(ほん)でしょ、こっちは美味(おい)しいお菓子(かし)で、これは滋養(じよう)強壮(きょうそう)にいい飲(の)み物(もの)。それと今(いま)グラクラ星(せい)で流行(はや)ってるらしい玩具(おもちゃ)に…」


 あっという間(ま)に机(つくえ)の上(うえ)は、ライトからの手土産(てみやげ)で埋(う)め尽(つ)くされて山(やま)が出来(でき)てしまいました。


「ライト…さん、って…何事(なにごと)も加減(かげん)を知(し)らないよね」


 ヒカルはため息(いき)を吐(つ)いて呆(あき)れています。


「だ、だって全部(ぜんぶ)タカヤ君(くん)に渡(わた)したくて…ごめん、迷惑(めいわく)だった?」


「ううん、俺(おれ)は嬉(うれ)しいよ! ありがとうライトさん!」


 タカヤはそう言(い)って笑(わら)うと…ふと、照(て)れくさそうに口元(くちもと)に手(て)を当(あ)てます。


「あはは。兄(にい)ちゃんに釣(つ)られて、俺(おれ)もライトさんって言(い)っちゃっ…」


 突然(とつぜん)、タカヤはふらついて隣(となり)に座(すわ)るヒカルの体(からだ)にもたれかかりました。


「タカヤ⁉」


「…ごめん、大丈夫(だいじょうぶ)だから」


 そう言(い)って笑(わら)ったタカヤの顔色(かおいろ)は真(ま)っ青(さお)です。


「大丈夫(だいじょうぶ)じゃないだろ! 休(やす)んだ方(ほう)がいい…うるさくしてごめんな、俺(おれ)は仕事(しごと)に戻(もど)るよ」


「僕(ぼく)も行(い)くよ…タカヤ君(くん)、無理(むり)しないで。お大事(だいじ)にね」





 ヒカルとライトが部屋(へや)を後(あと)にして…タカヤは一人(ひとり)、ベッドの上(うえ)に横(よこ)たわり真(ま)っ白(しろ)な天井(てんじょう)を見上(みあ)げます。


「…また、迷惑(めいわく)かけちゃったな」



 自分(じぶん)は長(なが)い間(あいだ)、病(やまい)に侵(おか)されて眠(ねむ)っていて。


 みんなが、必死(ひっし)に助(たす)けてくれて。


 それは嬉(うれ)しいことで、ありがたいことで。


 …そうでなくちゃ、ダメなのに。


 こんなにも愛(あい)してもらって、こんなにも自分(じぶん)は幸(しあわ)せ者(もの)で…だから、こんな風(ふう)に思(おも)ってはいけないことは痛(いた)いほどわかっているのに。


 何度(なんど)も何度(なんど)も、何度(なんど)も…自分(じぶん)に言(い)い聞(き)かせて、塗(ぬ)り潰(つぶ)しているのに。



「…なんで、目覚(めざ)めちゃったんだろう…なんて。はは…俺(おれ)って、最低(さいてい)だ」


 真(ま)っ白(しろ)な天井(てんじょう)は、どこまでも真(ま)っ白(しろ)なままで…見(み)たくなくて、タカヤは目(め)を閉(と)じました。


「本当(ほんとう)…何(なん)のためにここにいるんだろう」



****



「コスモピースのエネルギーが強大(きょうだい)過(す)ぎて、タカヤの体(からだ)には強(つよ)い負担(ふたん)がかかっておる」


 諄(じゅん)弌(いち)と春子(はるこ)を自身(じしん)の研究室(けんきゅうしつ)へ呼(よ)んだ肖(しょう)造(ぞう)は、タカヤの体(からだ)のデータを見(み)せながら二人(ふたり)に説明(せつめい)します。


「…正直(しょうじき)、何時(いつ)そのエネルギーが暴走(ぼうそう)してもおかしくない状況(じょうきょう)じゃ。もし暴走(ぼうそう)すれば、タカヤの体(からだ)は無事(ぶじ)ではすまんじゃろう」


「そんな…」


 春子(はるこ)の震(ふる)える肩(かた)を、諄(じゅん)弌(いち)は横(よこ)から支(ささ)えます。


「何(なに)か…タカヤを助(たす)ける方法(ほうほう)は無(な)いんですか」


「方法(ほうほう)は今(いま)のワシにはわからんが…可能(かのう)性(せい)ならある」


 肖(しょう)造(ぞう)が自分(じぶん)のポスエッグを取(と)り出(だ)して操作(そうさ)すると…空中(くうちゅう)にいくつも画像(がぞう)が浮(う)かび上(あ)がりました。


 その画像(がぞう)の中(なか)に…真(ま)っ白(しろ)な小(ちい)さな惑星(わくせい)が一(ひと)つ。


「この星(ほし)は…惑星(わくせい)トリスタル。遠(とお)い遠(とお)い…恐(おそ)らく、今(いま)は荒(あ)れ果(は)てた星(ほし)じゃが…ここに一人(ひとり)、生物(せいぶつ)が残(のこ)っておるはずじゃ。名前(なまえ)はエイギス…そいつの中(なか)には、もう一(ひと)つのコスモピースがある」


 …二人(ふたり)の驚(おどろ)くような視線(しせん)から目(め)を逸(そ)らすように、肖(しょう)造(ぞう)は話(はなし)を続(つづ)けます。


「…そのコスモピースを使(つか)って、タカヤの中(なか)のコスモピースの力(ちから)を相殺(そうさい)することが出来(でき)れば…タカヤを元(もと)の人間(にんげん)に戻(もど)せるかも知(し)れん」


 もう一度(いちど)肖(しょう)造(ぞう)がポスエッグを操作(そうさ)すると、空中(くうちゅう)に浮(う)かぶ画像(がぞう)は全(すべ)て消(き)えてしまいました。


「春子(はるこ)、諄(じゅん)弌(いち)。二人(ふたり)にはその生物(せいぶつ)、エイギスをここへ連(つ)れてきてもらいたい。危険(きけん)を伴(ともな)うかも知(し)れんが…頼(たの)めるか」


「…はい。是非(ぜひ)、やらせてください」


 春子(はるこ)と諄(じゅん)弌(いち)は同時(どうじ)に頭(あたま)を下(さ)げます。


「それでは支度(したく)をしてすぐに出発(しゅっぱつ)します。極力(きょくりょく)早(はや)いほうがいいでしょう」


「…待(ま)て」


 肖(しょう)造(ぞう)は目(め)を伏(ふ)せると、小(ちい)さな声(こえ)で尋(たず)ねました。


「ワシが何故(なぜ)、そんなことを知(し)っておるのか…理由(りゆう)を聞(き)かんのか」


「…はい」


「…そうか、気(き)をつけて行(い)けよ」


「はい!」


 二人(ふたり)は扉(とびら)の前(まえ)で振(ふ)り返(かえ)り一礼(いちれい)すると、足早(あしばや)に研究(けんきゅう)室(しつ)を出(で)て行(い)きました。





「……全(まった)く、気(き)を使(つか)いおって」



****



「ヒカル、ライトくん。私(わたし)たち、少(すこ)し長(なが)い旅(たび)に出(で)ることになったの」


 二人(ふたり)を前(まえ)に、春子(はるこ)は明(あか)るく笑(わら)ってみせました。


「だからその間(あいだ)、タカヤのことをよろしくね!」


「…それは、タカヤ君(くん)の…コスモピースに関(かん)することを調(しら)べに行(い)くんですか?」


 ライトの問(と)いかけに、諄(じゅん)弌(いち)は荷物(にもつ)をまとめる手(て)を一度(いちど)止(と)めて答(こた)えます。


「ああ…タカヤのコスモピースを取(と)り除(のぞ)いて元(もと)の人間(にんげん)に戻(もど)す…その方法(ほうほう)を探(さが)しに行(い)くんだ」


「そ…そんなこと出来(でき)るの?」


 目(め)を見開(みひら)いたヒカルに、諄(じゅん)弌(いち)は珍(めずら)しく口角(こうかく)を上(あ)げました。


「ああ…出来(でき)るさ。必(かなら)ずな」


 荷物(にもつ)を全(すべ)てポスエッグに入(い)れて、諄(じゅん)弌(いち)と春子(はるこ)は歩(ある)き始(はじ)めます。


「父(とう)さん、母(かあ)さんもう出(で)るの? …タカヤに会(あ)っていかないの?」


「…だってタカヤに会(あ)ったら、心配(しんぱい)で行(い)けなくなっちゃうかも知(し)れないもの! だから、タカヤには二人(ふたり)から伝(つた)えておいて」


 振(ふ)り返(かえ)った春子(はるこ)は笑(わら)ってそう言(い)うと…もう二(に)度(ど)と振(ふ)り返(かえ)りません。


「それじゃあ、行(い)ってきます!」



****



 タカヤが目(め)を覚(さ)ましてから、もうすぐ一ヶ月(いっかげつ)が経(た)とうとしています。


 もうとっくに新(しん)学期(がっき)は始(はじ)まってしまっていますが…タカヤは入院(にゅういん)している、ということになっています。


 その理由(りゆう)は…


「うーむ、やりおったな」


 肖(しょう)造(ぞう)の目(め)の前(まえ)には真(ま)っ二(ぷた)つに折(お)れたベッド、焦(こ)げた壁(かべ)、ボコボコに凹(へこ)んだ床(ゆか)…そして申(もう)し訳(わけ)なさそうに俯(うつむ)くタカヤがいます。


「ごめんなさい、また…力(ちから)のコントロールに失敗(しっぱい)しちゃって…」


「お前(まえ)が謝(あやま)ることはない。それだけコスモピースの力(ちから)は強大(きょうだい)じゃ、むしろ今日(きょう)はよくこれだけで抑(おさ)えられたわい。体調(たいちょう)はどうじゃ?」


「体調(たいちょう)は…大丈夫(だいじょうぶ)ですよ? 元気(げんき)です」


「嘘(うそ)つけ」


 肖(しょう)造(ぞう)はタカヤに軽(かる)ーくデコピンすると…白衣(はくい)のポケットから取(と)り出(だ)したポスエッグを、杖(つえ)の形(かたち)に変形(へんけい)させて一振(ひとふ)りしました。


 するとみるみるうちにベッドが、壁(かべ)が、床(ゆか)が元(もと)の姿(すがた)へと戻(もど)っていきます。


「調子(ちょうし)悪(わる)い日(ひ)が続(つづ)きすぎて慣(な)れてきただけじゃろ。ほれ、寝(ね)とかんかい」


「ううん…前(まえ)よりはずっといいのは本当(ほんとう)ですよ? それにしてもすごいですね、いつ見(み)ても魔法(まほう)みたいだ」


 タカヤは掛(か)け布団(ぶとん)を使(つか)わずに、元(もと)に戻(もど)ったベッドに横(よこ)になりました。


「この部屋(へや)は形状(けいじょう)記憶(きおく)材質(ざいしつ)を使(つか)って作(つく)られておるからな。戻(もど)すのだって楽(らく)なもんじゃ」


 肖(しょう)造(ぞう)は杖(つえ)をポスエッグの形(かたち)に戻(もど)して、またポケットの中(なか)に仕舞(しま)います。


「すみません…いつもありがとうございます」


「いちいち謝(あやま)らんでええわい。ところで…それは何(なん)じゃ、手紙(てがみ)か?」


「はい。友達(ともだち)が俺(おれ)の家(いえ)のポストにお見舞(みま)いの手紙(てがみ)を入(い)れてくれてるみたいで。たまに帰(かえ)った兄(にい)ちゃんがまとめて持(も)ってきてくれるんです」


「そうか、じゃが…お、多(おお)くないか?」


 手紙(てがみ)は大(おお)きな箱(はこ)が二(ふた)ついっぱいになるほどあって、さらにそこから少(すこ)し溢(あふ)れています。


「あはは…レンっていう子(こ)が毎日(まいにち)くれて。それもいつも一(いち)枚(まい)じゃないんです。ありがたいですね…早(はや)く、学校(がっこう)に戻(もど)らないと」


 眉(まゆ)を下(さ)げてちょっと困(こま)ったように笑(わら)いながら、タカヤは大切(たいせつ)そうに手紙(てがみ)を見(み)つめました。


「さすがタカヤ、モテるのー…そうじゃ、お前(まえ)に言(い)わなきゃならんことがあったわい」


 一(ひと)つ大(おお)きなあくびをした後(あと)、肖(しょう)造(ぞう)はベッドの縁(ふち)に座(すわ)ります。


「ワシのこと…その様子(ようす)じゃ誰(だれ)にも言(い)ってないみたいじゃな」


「…はい。肖(しょう)造(ぞう)さんから話(はな)すことが無(な)い限(かぎ)り、俺(おれ)からは喋(しゃべ)りませんよ」


「そうか…全(まった)く、お前(まえ)ら親子(おやこ)はよく似(に)とるわい」


 …その時(とき)、肖(しょう)造(ぞう)のポケットの中(なか)でポスエッグがブルブルと振動(しんどう)しました。


 肖(しょう)造(ぞう)はそれを引(ひ)っ張(ぱ)り出(だ)して握(にぎ)ります。


「…じゃあタカヤ、ワシは行(い)く。ゆっくり休(やす)むんじゃぞー」


 背中(せなか)越(ご)しに手(て)を振(ふ)って、肖(しょう)造(ぞう)は部屋(へや)を後(あと)にしました。




 …タカヤはそのまま目(め)を閉(と)じて、少(すこ)し昔(むかし)を思(おも)い出(だ)します。




 …初(はじ)めてその気持(きも)ちが芽生(めば)えたのは、いつのことだったでしょうか。


 そうです…何年(なんねん)も前(まえ)、家族(かぞく)で日帰(ひがえ)り旅行(りょこう)に行(い)った帰(かえ)り道(みち)。


 タカヤは後部(こうぶ)座席(ざせき)に置(お)かれた、まだ少(すこ)し大(おお)きいジュニアシートの上(うえ)で、カタンカタンと小刻(こきざ)みに揺(ゆ)られていました。


 前(まえ)を見(み)れば、運転(うんてん)をしている諄(じゅん)弌(いち)と助手席(じょしゅせき)に座(すわ)る春子(はるこ)が、楽(たの)しそうに今日(きょう)のことを話(はな)していて。


 隣(となり)では、遊(あそ)び疲(つか)れたヒカルが首(くび)をカクカク揺(ゆ)らしながら眠(ねむ)っていて。


 窓(まど)からは、キラキラと輝(かがや)く…砂(すな)がいっぱい入(はい)ったバケツをひっくり返(かえ)したような、満点(まんてん)の星(ほし)空(ぞら)が見(み)えました。


 楽(たの)しくて、嬉(うれ)しくて。


 この空間(くうかん)が、この日々(ひび)が、とってもとっても幸(しあわ)せだと思(おも)って。


 だから、タカヤは心(こころ)から…




 …目(め)を開(あ)けてため息(いき)を吐(つ)くと、タカヤはベッドから立(た)ち上(あ)がります。


「…あれ? これ、肖(しょう)造(ぞう)さんの落(お)とし物(もの)かな」


 床(ゆか)に落(お)ちている、くちゃくちゃになった一(いち)枚(まい)の紙(かみ)を拾(ひろ)い上(あ)げて、タカヤはベッドの上(うえ)で広(ひろ)げてみました。


「会議(かいぎ)の日程表(にっていひょう)…大事(だいじ)なものかも。そうだ、届(とど)けに行(い)こう。今(いま)は調子(ちょうし)いいし」



****



「春子(はるこ)、諄(じゅん)弌(いち)。長旅(ながたび)ご苦労(くろう)じゃったな…そうか、その子(こ)が」


 肖(しょう)造(ぞう)の研究室(けんきゅうしつ)に戻(もど)ってきた春子(はるこ)と諄(じゅん)弌(いち)は、一人(ひとり)の見慣(みな)れない生物(せいぶつ)を連(つ)れています。


 見上(みあ)げるほど背(せ)が高(たか)くて、細(ほそ)くて…この世(よ)のものとは思(おも)えないほど美(うつく)しい生物(せいぶつ)は、鈴(すず)が鳴(な)るような声(こえ)を発(はっ)しました。


「はじめまして、ワタシはエイギス。まぁ…うふふ!」


 エイギスはふわりと、長(なが)い睫毛(まつげ)を揺(ゆ)らして笑(わら)います。


「どうした、何(なに)か面白(おもしろ)いことがあったか?」


 肖(しょう)造(ぞう)が尋(たず)ねると、エイギスが長(なが)い首(くび)を横(よこ)に振(ふ)ります。


「いいえ。ワタシ、地球(ちきゅう)人(じん)って大好(だいす)きなの。春子(はるこ)も諄(じゅん)弌(いち)もとっても優(やさ)しいもの! それで、貴方(あなた)も地球(ちきゅう)人(じん)だから嬉(うれ)しくなってしまったのよ」


 …その言葉(ことば)を聞(き)いた肖(しょう)造(ぞう)は…まるで時間(じかん)が止(と)まったかのように、思(おも)わず言葉(ことば)を失(うしな)ってしまいました。


 …だって、もしもコスモピースの力(ちから)を持(も)っているなら…そんなことを言(い)うわけがないからです。


「ちょっと、来(き)てもらってもいいか…エイギス」


 肖(しょう)造(ぞう)はエイギスを奥(おく)へ呼(よ)んで、その体(からだ)を調(しら)べて…呆然(ぼうぜん)としました。


 だってその中(なか)にあったのは…コスモピースとは似(に)ても似(に)つかない、ありふれたエネルギーの塊(かたまり)だったからです。





「春子(はるこ)、諄(じゅん)弌(いち)…事情(じじょう)が変(か)わった」


 エイギスには奥(おく)の資料(しりょう)室(しつ)に入(はい)ってもらい…三人(さんにん)は手前(てまえ)の研究室(けんきゅうしつ)で話(はなし)をします。


「事情(じじょう)が変(か)わったって…もう一(ひと)つのコスモピースは?」


 春子(はるこ)の質問(しつもん)に、肖(しょう)造(ぞう)は答(こた)えにくそうに口(くち)を動(うご)かしました。


「それが…入(はい)ってなかったんじゃ。つまり、エイギスの中(なか)のコスモピースを誰(だれ)かが意図(いと)的(てき)に抜(ぬ)き取(と)ったことになる…まずいことになった」


「まずいこと…? 肖(しょう)造(ぞう)さん、説明(せつめい)していただけますか」


 諄(じゅん)弌(いち)が鋭(するど)い視線(しせん)を向(む)けます。


「…コスモピースはこの宇宙(うちゅう)でおそらく一番(いちばん)のエネルギーを秘(ひ)めた石(いし)じゃ。使(つか)い方(かた)によっては…どんなものだって、星(ほし)だって壊(こわ)せてしまうじゃろう。そんな力(ちから)をもし、ろくでもない奴(やつ)が手(て)にしたらどうなるか…最悪(さいあく)の場合(ばあい)、この宇宙(うちゅう)が揺(ゆ)らぐかも知(し)れん」


 肖(しょう)造(ぞう)は俯(うつむ)いて…二人(ふたり)の顔(かお)を見(み)られないまま話(はな)し続(つづ)けます。


「そして、このコスモピースに敵(かな)うものは…同(おな)じコスモピースしか無(な)い。もし、本当(ほんとう)にコスモピースが悪用(あくよう)されたその時(とき)は…今(いま)のままだと、タカヤに戦(たたか)ってもらう必要(ひつよう)がある」


「タカヤに…⁉」


 春子(はるこ)は悲鳴(ひめい)にも似(に)た声(こえ)を上(あ)げて、咄嗟(とっさ)に自分(じぶん)の口(くち)を塞(ふさ)ぎました。


「ああそうじゃ。その場合(ばあい)、コスモピース同士(どうし)のエネルギーのぶつけ合(あ)いになる。そうなればおそらく…タカヤの体(からだ)は持(も)たん。例(たと)え相手(あいて)に勝(か)っても、相打(あいう)ちで壊(こわ)れてしまうじゃろう」


 …薄暗(うすぐら)い研究室(けんきゅうしつ)の中(なか)は、どこかで機械(きかい)がカチカチと小(ちい)さく鳴(な)る音(おと)だけが響(ひび)いたかと思(おも)うと…途端(とたん)に恐(おそ)ろしいほど静(しず)まり返(かえ)ります。


 隣(となり)の春子(はるこ)の体(からだ)が、今(いま)にも泣(な)きだしそうに震(ふる)えているのがわかって…諄(じゅん)弌(いち)は春子(はるこ)の手(て)を握(にぎ)ると、少(すこ)しだけ目(め)を閉(と)じて…開(ひら)いて、真(ま)っ直(す)ぐ前(まえ)を見据(みす)えました。


「…つまり、コスモピースを見(み)つけて来(く)ればいいんですね」


 その言葉(ことば)に俯(うつむ)いていた春子(はるこ)が顔(かお)を上(あ)げたので、諄(じゅん)弌(いち)は優(やさ)しく笑(わら)いかけて、その手(て)をさらに強(つよ)く握(にぎ)ります。


「悪用(あくよう)されるより…タカヤの体(からだ)が限界(げんかい)を迎(むか)えるよりも先(さき)に…もう一(ひと)つのコスモピースを見(み)つけてしまえば良(い)い」


「じゃが…どこにあるか検討(けんとう)も付(つ)かんのじゃぞ。そんな状態(じょうたい)で闇雲(やみくも)に探(さが)すというのが…どれだけ無謀(むぼう)なことかわかっておるのか」


 肖(しょう)造(ぞう)は顔(かお)を上(あ)げて言葉(ことば)を返(かえ)しましたが…諄(じゅん)弌(いち)のその目(め)を見(み)れば、もう止(と)められないことはわかります。


「…それでも、可能(かのう)性(せい)が無(な)いよりずっといい。行(い)かせてください」


「…私(わたし)からも、お願(ねが)いします。行(い)かせてください」


 お互(たが)いに握(にぎ)っていた手(て)を離(はな)して、二人(ふたり)が深(ふか)く頭(あたま)を下(さ)げたのを見(み)て…肖(しょう)造(ぞう)も覚悟(かくご)を決(き)めて、自分(じぶん)の両(りょう)頬(ほほ)をパンっと叩(たた)きました。


「わかった! ワシのとっておきの宇宙船(うちゅうせん)を貸(か)してやろう!」


 肖(しょう)造(ぞう)が椅子(いす)に座(すわ)り大(おお)きなディスプレイに触(ふ)れると、次々(つぎつぎ)と画面(がめん)が浮(う)かび上(あ)がり…研究室(けんきゅうしつ)の至(いた)る所(ところ)から音(おと)が鳴(な)り始(はじ)めます。


「食料(しょくりょう)、燃料(ねんりょう)、その他(た)諸々(もろもろ)…大量(たいりょう)に必要(ひつよう)じゃな。十分(じゅっぷん)で準備(じゅんび)する、ワシに任(まか)せておけ」


「肖(しょう)造(ぞう)さん…何(なに)から何(なに)まで、ありがとうございます!」


 もう一度(いちど)春子(はるこ)が頭(あたま)を下(さ)げると、肖(しょう)造(ぞう)は椅子(いす)をくるりと回(まわ)して…厳(きび)しい顔(かお)つきで振(ふ)り返(かえ)りました。


「じゃが…二人(ふたり)には悪(わる)いが、これを貸(か)すにはワシから一(ひと)つ条件(じょうけん)がある」


「条件(じょうけん)…?」


「…最悪(さいあく)の可能性(かのうせい)に備(そな)えて、タカヤにはこれから特別(とくべつ)宇宙警察(うちゅうけいさつ)として、実践的(じっせんてき)にコスモピースの力(ちから)を使(つか)ってもらいたい。そもそも、まともに力(ちから)の制御(せいぎょ)も出来(でき)ない今(いま)の状況(じょうきょう)では話(はなし)にならん。それに…もしコスモピースの力(ちから)を狙(ねら)う輩(やから)が現(あらわ)れた時(とき)に、自分(じぶん)の身(み)を守(まも)ることにも繋(つな)がるじゃろう」


 春子(はるこ)がすぐに、身(み)を乗(の)り出(だ)すように口(くち)を開(ひら)きます。


「それは…危(あぶ)ないことなんじゃないんですか? もの凄(すご)いエネルギーなんでしょう? タカヤに耐(た)えられるんですか?」


「ワシにも…やってみんとわからんよ」


「そんな、あの子(こ)に何(なに)かあったら…! ねぇ諄(じゅん)弌(いち)、やっぱり…」


「春子(はるこ)」


 諄(じゅん)弌(いち)はいつもより少(すこ)し大(おお)きな声(こえ)を出(だ)しました。


「俺(おれ)は…肖(しょう)造(ぞう)さんを、タカヤを信(しん)じる。コスモピースのことも、この先(さき)どうなるかも…何(なに)もかもわからないことばかりなんだ…俺(おれ)たちも、覚悟(かくご)を決(き)めないか」


「でも…!」


 少(すこ)し俯(うつむ)いた春子(はるこ)は…気(き)が付(つ)きました。


 さっきまで握(にぎ)っていた諄(じゅん)弌(いち)の手(て)が、小(ちい)さく震(ふる)えていることに。


 …不安(ふあん)なのは決(けっ)して、自分(じぶん)だけでは無(な)いのです。


 春子(はるこ)は首(くび)をプルプルと振(ふ)って、目元(めもと)を袖(そで)で強(つよ)く擦(こす)ると…今度(こんど)は自分(じぶん)から、震(ふる)えている諄(じゅん)弌(いち)の手(て)を強(つよ)く握(にぎ)りました。


「取(と)り乱(みだ)してごめんなさい。もう大丈夫(だいじょうぶ)…肖(しょう)造(ぞう)さん」


 笑(わら)って、春子(はるこ)は前(まえ)を向(む)きます。


「タカヤを…よろしくお願(ねが)いします」


「ああ、わかっとる…さぁ、準備(じゅんび)はすぐ出来(でき)る。今(いま)のうちに息子(むすこ)たちに会(あ)いに行(い)ったらどうじゃ」


 肖(しょう)造(ぞう)はまたディスプレイを操作(そうさ)しますが…二人(ふたり)は動(うご)く気配(けはい)がありません。


「どうした、行(い)かんのか」


「…はい」


 諄(じゅん)弌(いち)がそう返事(へんじ)をすると、春子(はるこ)も頷(うなず)きます。


「…長(なが)い間(あいだ)、会(あ)えなくなるぞ」


「わかってます。でももし…会(あ)って、離(はな)れるのが嫌(いや)で出発(しゅっぱつ)を渋(しぶ)って、その分(ぶん)だけ間(ま)に合(あ)わなかったりしたら…私(わたし)、きっと自分(じぶん)が許(ゆる)せません」


 …春子(はるこ)がそう話(はな)すと、今度(こんど)は諄(じゅん)弌(いち)が何(なに)も言(い)わずに頷(うなず)きました。


「…そうか。少(すこ)し待(ま)っとれ、まもなく…準備(じゅんび)は終(お)わる」


 空中(くうちゅう)に浮(う)かんでいた画面(がめん)は次々(つぎつぎ)と消(き)えて…最後(さいご)にディスプレイにボタンが一(ひと)つ表示(ひょうじ)されます。


…少(すこ)し躊躇(ためら)いそうになる心(こころ)を抑(おさ)え込(こ)んで、肖(しょう)造(ぞう)はボタンに手(て)をかざすのでした。





 …落(お)とし物(もの)を届(とど)けに来(き)たタカヤは、肖(しょう)造(ぞう)の研究室(けんきゅうしつ)の前(まえ)に座(すわ)り込(こ)んでいました。


 コスモピースの力(ちから)によって聴力(ちょうりょく)を何(なん)倍(ばい)にも高(たか)めたタカヤは、部屋(へや)の中(なか)で三人(さんにん)が話(はな)す声(こえ)を静(しず)かに聞(き)いて…立(た)ち上(あ)がると、足音(あしおと)をさせないようにその場(ば)を後(あと)にします。


 ゆっくりと歩(ある)いていた足(あし)は、研究室(けんきゅうしつ)から離(はな)れるごとに早足(はやあし)に、そして駆(か)け足(あし)になっていって。



 …気(き)が付(つ)くと、タカヤは笑(わら)っていました。


 それは、今(いま)まで感(かん)じたことの無(な)い…いつもの作(つく)り笑(わら)いじゃ無(な)い、心(こころ)の底(そこ)からの高揚(こうよう)による笑(わら)いでした。




 …どうやら今(いま)の自分(じぶん)には、とてつもない力(ちから)があるようです。


 そのコスモピースの強大(きょうだい)な力(ちから)を使(つか)って、たくさんの人(ひと)の役(やく)に立(た)つこと。


 そして…もう一(ひと)つのコスモピースの脅威(きょうい)から、この宇宙(うちゅう)を守(まも)って…。


 それこそが…もしかして、自分(じぶん)に課(か)せられた役目(やくめ)なのではないでしょうか。




 昔(むかし)から、みんなが言(い)うような…好(す)きなものも、やりたいこともありませんでした。


 正確(せいかく)に言(い)えば…うーん、これが正確(せいかく)なのかも自分(じぶん)ではよくわかりませんが…。


 好(す)きなものが無(な)いわけでは、無(な)いのだと思(おも)います。


 家族(かぞく)も友達(ともだち)も、周(まわ)りのみんなも…すごくすごく、大切(たいせつ)だから。


 悲(かな)しませたり、迷惑(めいわく)をかけてしまうのが、とっても嫌(いや)だから。


 多分(たぶん)これが、好(す)き…という気持(きも)ちなんだ、とは思(おも)うのです、思(おも)うのです…けれど。



 お花(はな)や星(ほし)、宝石(ほうせき)や虹(にじ)は『綺麗(きれい)』なもの。


 遊(あそ)びは『楽(たの)しい』もの、食事(しょくじ)は『美味(おい)しい』もの。


 そして…『好(す)き』は、『幸(しあわ)せ』なもの。


 ちゃんと知(し)ってます、間違(まちが)ってないはずです。


 自分(じぶん)では自信(じしん)がなかったけど…。


 だって、そういうものだってみんなが言(い)ってたし、本(ほん)にだって書(か)いてあったから。


 …でも他(ほか)の人(ひと)のことを見(み)ていたら、この感覚(かんかく)が「おかしい」ことだけは…泣(な)きたくなるほど、はっきりとわかってしまうのです。



 みんなに、自分(じぶん)が普通(ふつう)じゃないと…どうしようもなく、空(から)っぽだとバレてしまうのが、怖(こわ)くて仕方(しかた)なくて。


 …そのために嘘(うそ)を吐(つ)き続(つづ)ける自分(じぶん)が…世界(せかい)で一番(いちばん)、大嫌(だいきら)いでした。


 だってもしバレたら、優(やさ)しいみんなはきっと…こんな自分(じぶん)を、理解(りかい)しようと、受(う)け入(い)れようとしてくれるから。


 それが心底(しんそこ)、嫌(いや)で嫌(いや)でたまらないから。


 『いい子(こ)』でいたい、『普通(ふつう)の子(こ)』でいさせて欲(ほ)しい。


 自分(じぶん)の嫌(きら)いな自分(じぶん)を、お願(ねが)いだから…誰(だれ)にも、受(う)け入(い)れて欲(ほ)しくなんてない。



 こんな自分(じぶん)がここにいる意味(いみ)が、ずっとずっとわからなくて、ずっとずっと欲(ほ)しくて…ああでも!


 この、コスモピースの力(ちから)こそが!


 …そうです! きっと…そうに違(ちが)いありません!


 だって、みんなが喜(よろこ)んでくれるのが、笑(わら)ってくれるのが、嬉(うれ)しいのだけは本当(ほんとう)だから!


 それだけは、自分(じぶん)でも確信(かくしん)できることだから!


 ずーっと前(まえ)から、もっともっともっと、みんなの役(やく)に立(た)ちたかった!


 この力(ちから)でいっぱい役(やく)に立(た)って! 喜(よろこ)んでもらって! 宇宙(うちゅう)を救(すく)って!


 そうしたら…それなら。


 きっと、みんなだって…。




 …真(ま)っ暗(くら)だったタカヤの世界(せかい)に、大(おお)きな光(ひかり)が差(さ)しました。


 それはタカヤにとって、どんな光(ひかり)より眩(まぶ)しくて…たった一(ひと)つの希望(きぼう)に見(み)えました。



****



 それから一(いっ)週間(しゅうかん)ほどが経(た)った頃(ころ)。


 ドカドカ足音(あしおと)が近(ちか)づいてきて…本部(ほんぶ)の最上階(さいじょうかい)にある、肖(しょう)造(ぞう)の研究室(けんきゅうしつ)の扉(とびら)が乱暴(らんぼう)に開(ひら)かれました。


「肖(しょう)造(ぞう)おじさん! 聞(き)きましたよ…タカヤ君(くん)を特別(とくべつ)宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)にするなんてどういうつもりですか!」


 ライトは睨(にら)むように肖(しょう)造(ぞう)へ詰(つ)め寄(よ)ります。


「どういうことも何(なに)もそういうことじゃ。コスモピースはもの凄(すご)い力(ちから)を秘(ひ)めておるからな…宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)にその力(ちから)を貸(か)してもらいたいと思(おも)うのは当然(とうぜん)じゃろ」


「そんな理由(りゆう)で…あの子(こ)を危険(きけん)に晒(さら)すんですか⁉」


 …春子(はるこ)と諄(じゅん)弌(いち)以外(いがい)には、タカヤに待(ま)ち受(う)けるかもしれない最悪(さいあく)の可能(かのう)性(せい)を話(はな)していません。


 特(とく)にライトには…話(はな)せばきっとひどく動揺(どうよう)して、自分(じぶん)のせいだと取(と)り乱(みだ)してしまうことは目(め)に見(み)えています。


 肖(しょう)造(ぞう)はもう…あの日々(ひび)のようなライトは見(み)たくありません。


「とにかく、これはもう決(き)まったことじゃ。そうじゃライト、お前(まえ)に頼(たの)みがある」


 肩(かた)を震(ふる)わせるライトに、肖(しょう)造(ぞう)は淡々(たんたん)と話(はなし)を続(つづ)けます。


「タカヤが直(じき)に小学校(しょうがっこう)に戻(もど)りたいらしい。まあ、力(ちから)のコントロールも上手(うま)くなって来(き)たし、もう少(すこ)しすれば問題(もんだい)ないじゃろう。そこで、お前(まえ)には近(ちか)くに住(す)んでタカヤの…コスモピースの様子(ようす)を見守(みまも)ってもらいたい」


「近(ちか)くに…? 一緒(いっしょ)に住(す)んだらいいじゃないですか。タカヤ君(くん)はまだ小学生(しょうがくせい)ですよ?」


「…ワシもヒカルもそう言(い)ったんじゃがな。家(いえ)では気(き)が抜(ぬ)けて、力(ちから)が暴発(ぼうはつ)するかもしれないからとタカヤが断(ことわ)って来(き)たわい。安心(あんしん)しろ、タカヤが一人(ひとり)にならんようにそれなりのロボットを作(つく)って渡(わた)すつもりじゃ」


 少(すこ)し離(はな)れた机(つくえ)の上(うえ)には、それらしい作(つく)りかけの丸(まる)っこいボディが置(お)いてあります。


 そして…その奥(おく)に見慣(みな)れない、これまた作(つく)りかけの人(ひと)型(がた)のボディが一(ひと)つ。


「これは…アンドロイドですか?」


「そうじゃ。ライト、お前(まえ)のお世話(せわ)係(がかり)じゃよ。それも超(ちょう)高性能(こうせいのう)、ワシの最高(さいこう)傑作(けっさく)になりそうじゃ」


「ええ⁉ 僕(ぼく)、そんなのいりませんよ! 自分(じぶん)のことくらい自分(じぶん)で出来(でき)ます!」


 興味(きょうみ)ないと言(い)わんばかりに顔(かお)を背(そむ)けるライトに…肖(しょう)造(ぞう)がでっかいため息(いき)を吐(つ)きました。


「あのなー…お前(まえ)はタカヤが心配(しんぱい)みたいじゃが、ワシはお前(まえ)の方(ほう)がよっぽど心配(しんぱい)じゃ! 家事(かじ)は一(ひと)つもまともに出来(でき)んし、体(からだ)を壊(こわ)すようなことばっかりしおって! そんなお前(まえ)をサポートしてくれる子(こ)を作(つく)っとるんじゃろうが! ありがたく受(う)け取(と)らんかい!」


「わ、わかりましたわかりました!」


 肖(しょう)造(ぞう)のあまりの剣幕(けんまく)に、ライトは仕方(しかた)なく首(くび)を縦(たて)に振(ふ)ります。


「全(まった)く…というわけで、時(とき)目(め)木(き)町(ちょう)でのタカヤのことはお前(まえ)に任(まか)せたからな、頼(たの)んだぞ。さー…ワシは作業(さぎょう)に戻(もど)るかのう。さあライトも帰(かえ)った帰(かえ)った!」


 右手(みぎて)をシッシッと振(ふ)って、肖(しょう)造(ぞう)はライトに背(せ)を向(む)けると作(つく)りかけのロボットの元(もと)へと歩(ある)いて行(い)きました。





「全(まった)く、肖(しょう)造(ぞう)おじさんは本当(ほんとう)に勝手(かって)だ! それにしても…タカヤ君(くん)が、特別(とくべつ)宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)なんて…」


 無理(むり)やり研究室(けんきゅうしつ)を追(お)い出(だ)されたライトは、誰(だれ)もいない、しんとした白(しろ)い廊下(ろうか)で佇(たたず)みます。


「あの子(こ)に何(なに)かあったら…僕(ぼく)は、どうしたら…」



****



 気(き)づけば、タカヤが病(やまい)に倒(たお)れてから二(に)か月(げつ)が経(た)ちます。


 …長(なが)い間(あいだ)お世話(せわ)になった白(しろ)い部屋(へや)の真(ま)ん中(なか)で、タカヤは目(め)を閉(と)じていました。


 今日(きょう)はタカヤが初(はじ)めて、特別(とくべつ)宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)として仕事(しごと)をする日(ひ)です。



『コスモピースはすごい力(ちから)を秘(ひ)めた石(いし)だから、誰(だれ)かがそれを狙(ねら)ってくるかもしれない。そのときに対抗(たいこう)するためにも、そして力(ちから)を使(つか)い慣(な)れるためにも、特別宇宙警察(とくべつうちゅうけいさつ)としてコスモピースの力(ちから)を使(つか)ってくれ』


 …肖造(しょうぞう)からは、少(すこ)し前(まえ)にそうとだけ伝(つた)えられたので。


 タカヤはまるでそのとき初(はじ)めて聞(き)いたように、驚(おどろ)いたフリをして頷(うなず)いたのでした。



 仕事(しごと)内容(ないよう)はまだ知(し)らされていませんが、タカヤは嬉(うれ)しくて嬉(うれ)しくて…ずっとそわそわして。


 すると、部屋(へや)の扉(とびら)がノックされました。


「…ライトお兄(にい)ちゃん。どうしたの?」


「いや…タカヤ君(くん)が気(き)になって。今日(きょう)から、特別(とくべつ)宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)の仕事(しごと)があるんだろ?」


 ライトは…タカヤとは別(べつ)の意味(いみ)でそわそわしているようです。


「うん、もう少(すこ)ししたら行(い)ってくるよ」


「あのさ…そのこと、なんだけど」


 自分(じぶん)の服(ふく)の胸元(むなもと)をぎゅっと握(にぎ)って、ライトは意(い)を決(けっ)したように口(くち)を開(ひら)きました。


「…やめない?」


「え?」


「だから…特別(とくべつ)宇宙(うちゅう)警察(けいさつ)として活動(かつどう)するの…やっぱり、やめて欲(ほ)しいんだ」


 ライトの声(こえ)は震(ふる)えています。


「コスモピースの力(ちから)を使(つか)ったら、タカヤ君(くん)にどんな影響(えいきょう)があるかわからないし…タカヤ君(くん)がさ、嫌(いや)っていえば…きっと、肖(しょう)造(ぞう)おじさんもやめてくれると思(おも)うんだ」


「でも、もうそういう風(ふう)に話(はなし)が進(すす)んでるから…みんな待(ま)ってるし」


「タカヤ君(くん)」


 今(いま)にも泣(な)きだしそうな声(こえ)で、瞳(ひとみ)で、ライトはタカヤを見(み)ています。


「お願(ねが)い、だから…」


 …ライトにこんな顔(かお)をさせているということは、きっとこれは正解(せいかい)じゃないのでしょう。


 いつもみたいに笑顔(えがお)を作(つく)って、わかったと言(い)えばライトは笑(わら)ってくれるでしょう、でも。


 これは…タカヤが初(はじ)めて掴(つか)んだ、嘘(うそ)じゃない本当(ほんとう)の…希望(きぼう)なのです。


「…大丈夫(だいじょうぶ)だよ、気(き)を付(つ)けて活動(かつどう)するから」


「でも、もしもがあったら…!」


「大丈夫(だいじょうぶ)」


「でもっ」


「大丈夫(だいじょうぶ)だって言(い)ってるじゃないで(・)す(・)か(・)!」



 …口(くち)をついて出(で)たその言葉(ことば)に、誰(だれ)よりもタカヤが驚(おどろ)いていました。


 ライトは目(め)を見開(みひら)いて…呆然(ぼうぜん)としています。


「タカヤ、君(くん)…?」


「ごめん、最近(さいきん)いっぱいお仕事(しごと)の話(はなし)してるから…でも、これからはその方(ほう)がいいですよね。ライトさ(・)ん(・)ともお仕事(しごと)することになるでしょうし」


 タカヤはライトに背(せ)を向(む)けて、扉(とびら)に手(て)をかけました。


 今(いま)ならまだ間(ま)に合(あ)います。


 振(ふ)り返(かえ)って、ごめんね嘘(うそ)だよって言(い)えば…ああでも。


 もうどれだけ取(と)り繕(つくろ)っても、ライトお兄(にい)ちゃんにとっての『いい子(こ)』には、戻(もど)れません。


 自分(じぶん)がそうでありたかった、『いい子(こ)』には。



「それでは、行(い)ってきます」


「待(ま)って! タカヤく」


 …続(つづ)きを聞(き)くことなく、タカヤは扉(とびら)を閉(し)めて歩(ある)き始(はじ)めました。


 ズキリと痛(いた)む胸(むね)も、何故(なぜ)だか零(こぼ)れた雫(しずく)も無視(むし)して…自分(じぶん)の為(ため)だけに歩(ある)き始(はじ)めました。



****



 あの日(ひ)、家族(かぞく)で日帰(ひがえ)り旅行(りょこう)に行(い)った帰(かえ)り道(みち)。


 『楽(たの)しい』と思(おも)って、『嬉(うれ)しい』と思(おも)って。


 この空間(くうかん)が、この日々(ひび)が、とってもとっても『幸(しあわ)せ』だと思(おも)って。


 だから、タカヤは…


 心(こころ)から、この世界(せかい)から消(き)えてしまいたいと思(おも)いました。


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