第5話 死にたい、と声に出した
階段を上りきった先は霧に包まれていた。
数メートル先もうつさない深い、深い霧。
肩に重りが乗ったような気だるさと息苦しさで気持ち悪い。いつも使っている駅のホームとは違う異界に、足を踏み入れた感覚だ。
半屋外の屋根下にはベンチが並んでいる。
深い霧以外は、いつもと変わりない。
三番線を向くベンチに座って、電車が来るのを待つ。
後ろを歩いていた須藤さんは何も言わず、私から二人分の席を空けて座った。
正面に見える線路、飛び込めば全てを失う──生と死の境界線──
都心を外れると、駅のホームに転落防止のゲートは設置されない。だから、線路へ飛び降りて自殺する人が後を絶たない。
風の噂でサラリーマンが飛び降りた話もよく聞く。そして、そのたびに電車は止まり、駅のホームで愚痴を漏らして、幼稚な大人が駅員に怒鳴る光景を見たこともあった。
早朝の登校時間に自殺者が出たら、学校にゆっくり行くことができる。
けれど帰宅時間に人身事故が起きると腹が立つ。
学校終わりのストレスが溜まった状態で、ぎゅうぎゅうに押し詰められた肉塊にされて他人の汗と熱に肌が触れて混じりあう。
あれは、不潔で気持ち悪い毛布に包まれたようだった。早く帰って寝たいのに邪魔されて、さらに不快感が続く電車に乗り続けていると、殺意すら湧きそうになる。
なんでわざわざ人の迷惑がかかるところで自殺するのか。
せめて他人に迷惑をかけないでほしい。
不謹慎だとしても、思わずにはいられない。
少なくとも電車内の肉塊にされた人たちは思っていると思う。
そのくらい、この街は人の命が軽かった。人が死んでもいいとは誰も思わない。けれど「誰かが死んだ」で終わる話だった。
見ず知らずの他人が死んだところで、弔いの気持ちも、追悼の意も湧かない。
そう思う私は異常者かもしれない。
だけど自殺者を本気で哀れむ人が、本当にいるのだろうか。
有象無象の、その他大勢に溢れたこの街で、他人を思いやり、他人のために動いて、他人を救えるほど、心に余裕がない。
みんな、自分のことで手一杯なのだ。
せめて他人の領域は侵さず、自分の境界を作って過ごす。
スマホがいい例だ。
画面にかじりついて、現実から逃げて精神をつなぐ。
けれど、インターネットの世界に入っても地獄しか広がっていない。
みんな、みんな、自己顕示欲を満たそうとキラキラした食べ物を載せたり、良いことがあったとつぶやいたり、きれいな景色を見せてイイネを集めようとする。
イイネが多いと、自分が認められて、自分の価値が保証された気になれる。
イイネの数は人生の充実さを可視化して、ランク付けする。
小さい頃から学力や運動能力が成績として数値化され、比較され、自分が優れた人間か劣った人間か競争させられて、今度は人生の充実度、見た目、人気度も、全部がイイネの数で可視化された。だからみんな、自分の価値を認めてもらうためにショート動画や写真を投稿してイイネを集めている。
生まれた環境が優れた人間は、そんなことをしなくても親に認められ、自分を認めて、幸せそうに過ごすことができる。
劣等感にまみれた私みたいな人間は、加工して、ごまかして、嘘をついて、嫉妬する。
楽しそうに、充実したきらきら輝く人間を見て羨んで、自分の人生と比較して喚く。
裏垢使って、人生の愚痴をゲロみたいにぶちまけて、吐き出して、つぶやく。
「…………はぁ」
暇になると、どうしても精神的自傷を繰り返してしまう。
心の傷が増えて、無駄だと分かりながら、答えのない問いを求めて、思考が暗く冷たい水の底へ沈んでいく。
どうせなら、そのまま溺れて────
「────死にたい」
コポッ……
どこからか気泡が漏れた音が聞こえた。
それが助けを求めてなのか、ただ偶然に聞こえたものか、私にも分からなかった。
ただ言ってしまってから「あっ」と自分の口から漏れたことに気付いて、塞ぐ。
気を遣われるのが嫌で、死にたいと思っているとか、他人に知られたくなかった。だから人前では「死にたい」と言わないよう気をつけていたのに……隣には須藤さんがいる。
二人分の席を空けた隣にいる。
どうか聞こえていないでほしい。
聞こえていたら線路に飛び込もう。
それくらい恥ずかしい。
悶々と悩む頭を抱えて、須藤さんを見ないよう意識を逸らす何かを探していると、突然頭を殴るような放送がホームに流れだした。
『お急ぎのところ申し訳ありません』
予想だにしなかった大音量の放送に、心臓が口から飛び出かけた。
そのまま続いて放送が聞こえる。
『まもなく三番線に参ります、言瀬駅行きの列車ですが、運行状況により列車が停止しております。お急ぎのところ恐れ入りますが、運行状況が回復次第、ご連絡いたします』
ご迷惑をおかけして、大変申し訳ございません。と最後に付け加えて、放送は終わった。
「どうした、電車が止まったのか?」
隣に座っていた須藤さんが立ち上がって、あたりの様子を伺う。
須藤さんの態度に変わりない。どうやら、「死にたい」が聞こえなかったようでホッと胸を撫で下ろした。
「みたいですね。原因はわかりませんが」
「んー……そっか。んじゃどうすっかなぁ」
体を少し伸ばしてため息を吐いた。
駅ホームは変わらず深い霧に飲み込まれたままで、周囲の景色に変わりはない。
やることがなくなってしまった。
運転再開の見込みがないのか、いつ動くかのアナウンスもない。人身事故が起きたように見通しが立ちそうにない。
「……どうしようかな、はあ」
悩んで、頭を抱えて、ため息ひとつ、死にたい思いが増幅して、今にも爆発しそう。
沈む思考に溺れていると、警鐘みたいな、放送がけたたましく撒き散らされた。
『まもなく四番線に……ザザッ……行きの列車が……ます。黄色い線より……ザーッ……お待ち下さい』
ノイズ混じりの聞き取れない声が不気味にざわめいて、背筋にひやりと風が通った。
「須藤さん、聞こえましたか」
隣に立つ須藤さんは、どこか遠くを眺めたまま反応がない。眠たげに瞼を半開きにして開いた口からわずかに白い息が漏れている。
「須藤さん?」
「……え、ああ、どうした」
寝起きみたいな、体が小さく跳ねて意識を取り戻すが、またすぐに眠たそうな意識を半分もたせて立っている。
「その様子だと聞こえてなさそうですね」
「え、えっと、何が?」
「こっちに電車が来るみたいですよ」
私が乗るホームとは逆の四番線を指差す。
「……ああ、そうか」
どこか納得した様子で、須藤さんは四番ホームに向かって歩く。魂の抜けた足に力はなく、軸がぶれて、ゆらゆらと消えかけた煙みたいに歩いていた。
「乗るんですか?」
私が声をかけても反応がない。
「あの、須藤さん?」
四番ホームに立ったまま、微動だにしない須藤さんの隣に私も並ぶ。そこで気付く。
青々と深い、底の見えない水面がレールの下でなだらかに流れていた。




