第29話 私だって落ちたもん!
母はノートとペンを渡したあと、一度家に帰ると言って病室を出ていった。寝間着とか本とか持ってきてくれるらしい。
私はその間、もらったノートとペンで夢の内容を書いていた。
ある程度大まかな内容を書いてから詳細な部分を埋めて補完する。
ノートをもらってからずっとペンを走らせていると、気付けば陽が傾き初めて、夕焼けのオレンジ色の光が病室に入っていた。
一度、休憩にペンを置いて窓の外を眺めていると、病室の出入り口からカラカラと扉を動かす音が聞こえた。お母さんだと思って、扉に目を向けると、そこにいたのは晴だった。
艷やかな長髪が夕焼け色に反射して、黒曜石みたいな髪が光沢を放っている。
泣きはらした瞳にはトパーズ色の透き通った宝石を湛えて、今にも零れ落ちそうだった。
「バカ! なんで死ぬのよ!」
ここが病院だと一切考慮しない声量が病室に響き渡る。
「え、いや、私、死んでいないけど──」
「うっさいバカ! 間違えたの!」
ずんずんと胸を張りながら、怒り心頭で近づいてくる。目の前で立ち止まって目が合うと、晴の瞳に湛えていた涙が決壊して、ボロボロと泣き叫びはじめた。
「うわーん! だって、もう分かんなくて! なんで死のうとしたのか、私が何かしちゃったとか、どうして相談してくれなかったのかとか……今も頭の中がめちゃくちゃなの!」
目の前で、私よりもぼろぼろ泣く大切な友達に、私は頭を下げた。
「ごめん、自殺なんか、しない方がよかったね」
「当たり前だ、バカ!」
ノータイムで答える晴。涙を流しすぎて、目が充血して赤くなっていた。それでも目を逸らさずに私のことを見てくれている。
はあ、と息を吐いたあと、晴は力を抜いてベッド脇の椅子に腰をおろした。
「……でも、本当に生きていてよかった」
「ごめん」
「いいよ謝らなくて。一応聞くけど、もう死ぬつもりとかないんだよね?」
曇りがかった顔が俯いて、上目がちに私を見ている。
「大丈夫、もう死ぬつもりはないよ」
私と晴の視線が交差する。見つめ合った時間が一瞬過ぎ去って、晴が口を開いた。
「……そっか、ならよかった」
晴は目を閉じたあと、窓へ視線を移した。
「まあでも、今は学校もてんやわんやになって、いろいろ面談とかしてたよ」
「面談?」
「そそ、各クラスで生徒と担任で面談して、メンタルケアみたいなのしてた。特に大学落ちた人には念入りにしてたかな」
誰がどう考えても、合格発表の翌日に自殺者なんていたら、落第が原因って思うだろう。
「あとさー…………」
晴の声が詰まる。
言葉が続かない様子が気になって、口を噤んだ晴を見る。晴は私から目を背けて、ベッドの布団と床を交互に見て唇を噛んでいた
病室が静寂に包まれる。
傾いた陽は落ちかけて、病室が暗闇に飲み込まれた。日陰で見つめ合う私と晴。
「自殺の……理由ってさ……私が、原因?」
「は?」
カケラすら頭にないような、突拍子もないことを言われて声が抜け飛んだ。
「いや、そのさ……静香が、その、落ちたって知って……その、励ましたくて……」
影に飲まれた病室は晴を黒く染めて、その瞳から光が失われていた。
晴は言葉を漏らすたびに、息を震わせて、吐きそうな嗚咽を飲みながら、一つずつ言葉を紡いでいく。
「私が『学校で待っているから』とか余計なこと言って、余計に傷つけて、追い込んだせいかなって……そのせいで静香が死んじゃったって──「違うよ」
私ははっきりと、そして強く否定した。
「晴のせいじゃない、絶対に」
「そう……なの……?」
暗闇に飲まれた病室が、パチンと鳴って蛍光灯に光が灯る。
「晴は何も悪くない。私がただ受験に失敗して、将来に希望が見えなくて、自殺したの。なんかもう色々と嫌になっちゃってさ」
ハハハ、と自虐気味に笑って、誤魔化した。
チラリと晴を見たら、目元に雫を湛えて、また涙きそうになっていた。
「……もう、本当に……バカッ!」
「うん、本当にバカだったと思うよ。こんなことで死のうとして──」
「私だって落ちたもん!」
病室に、晴の言葉が響き渡った。
やまびこみたいに、頭の中で何度も反芻して聞こえてくる。
「芸大に一発合格とか無理ゲー! 倍率高いし、問題が意味不明! 採点結果も分からないし! どうしようもない! んで落ちた! だから来年から浪人でーす!!」
半分グチみたいに叫び散らして、過剰な役者みたいにおおっぴろげに手を広げながら、ヤケクソ気味に笑っていた。
さっきまでのしんみりした空気に反して、歌劇でシュールな状況に、私もつられて笑みが溢れた。
「ははは……なんだ、クラスで落ちた人って晴のことだったんだ」
「なんだとはなんだ、コラー!」
「あはは、ごめんごめん」
心から笑って、思う。
ああ、この感じだ。
これで……いや、これが良かったんだ。
私は、この何気ない会話が好きだった。
これだけでも、私にとっては充分に生きる理由だった。
何気ない会話が楽しかったこと。
いつもの日常が好きだったこと。
晴という大切な友達がいたこと。
死んでいたら、分からなかった──気付けなかった。
それに、もし私が死んだら、晴は一生自分を恨んでいたかもしれない。
私のせいで、晴が自分を責め続けるなんて、絶対に嫌だ。
本当に、本当に……死ななくてよかった。
「私も浪人しようかな」
私は、落第したことを気にして、浪人生になることにも絶望していた。
けど晴を見ていたら、そんなことで悩むのがバカらしく思える。
「マジ⁉ 仲間じゃん、浪人仲間イェーイ!」
「なんか不名誉だね」
「うっせー、けどいいんだよ。浪人したって、まだ人生決まったわけじゃないし、生きてるだけで勝ちよ!」
生きることを全肯定する発言と、前向きすぎる性格が、私の心も前に向けてくれる。
「うん、そうだよね。生きている。それだけで良いんだよね」
私も、私を生きることを肯定して笑った。
黄昏時の空が雲ひとつなく晴れて、夜と夕焼けの狭間がやがてくる終りを告げていた。




