第30話 私の小さな、ほんの小さな夢
それから他愛もない、それでいて大切な時間を過ごして、晴は帰っていった。
私が退院したあとは、思いっきり遊ぶつもりだ。どこに行くとか決めていないけど、今はただ、心の療養をしたい。
すぐに来年の受験へ向けて勉強や、予備校通いが始まる。だからこそ、一ヶ月くらいはすべて忘れて遊びたかった。
晴が帰ってからは、ベット脇の机に置いていたノートとペンを手に取った。大まかに書いていた夢の内容をより詳細に詰めていく。ノートの数十ページが文字で埋まって、八割がた書き終えて、窓を見る。
外はすっかり暗くなっていた。住宅の窓から明かりがちらほらと点いて、街の街灯が一定の間隔をあけて光を灯している。ときおり道路を走る車が、流れ星みたいにスーッと抜けて、橋を渡り消えていく。
そろそろ就寝時間になるので、歯を磨こうとしたけど、まだお母さんが来ていないから歯ブラシも歯磨き粉も持っていなかった。
どうしようかと迷っているタイミングで、ちょうどよくお母さんが扉の向こうからやってきた。その手には見覚えのある白い携帯機器──私のスマホを持っていた。
「私のスマホ!」
「駅前の交番に届けられていたわよ。画面割れてるけど、見つかってよかったわね」
「え、うそ」
母から手渡されたスマホは、画面がひび割れて使い物にならなさそうだった。
側面のスイッチを押すと、画面が光って電源が入る。
「あ、ついた」
少し待つと、ロック画面に切り替わって、タッチしてみる。パスワードキーを難なく押せて、ホッと息をついた。画面は割れているけど、使えないことはなさそうだった。
「よかった、私の全てを失うところだったわ」
「ずいぶんと大げさね。あとこれ歯ブラシとか着替えとか色々もってきたから」
ベージュの手提げカバンを机に置こうとして、お母さんが机の上を見た。
「あら、随分とビッシリ書いたのね」
机の上に開きっぱなしだったノートを見て、母がカバンを椅子の上に置いた。中から歯ブラシや寝間着を取り出して、就寝の準備をしている。
「……うん、忘れちゃいけないと思って──」
夢のことを言おうとして、喉が詰まった。一度、唾液を飲み込んでケホッと声を整える。
「須藤さんって人が夢にいたの」
音一つない夜の病室に、私の声が木霊する。
母の手が止まって、やや大きくなった瞳で私を見た。心配そうに眉を寄せて、何か言いたげに口を開けたまま、止まって、声が震えていた。
「あ、えと……──その、静香、知って──」
「知っているよ。溺れる私を──須藤さんが助けてくれたんだよね」
私の中で固まっていた確信を、お母さんにぶつけた。病室は静かなまま、私とお母さんの息遣いだけが聞こえる。
零れそうな涙をギュッと瞑って、それでも落ちそうな涙を手で拭い、払いのける。
「私ね、夢の中で須藤さんと話したの。生きている、それだけで良いって……私が生きてもいいって言ってくれたの」
毛布を握る手に力が入って、しわくちゃに寄った生地に、雫がぽたりと落ちて、滲んだ。
「それが本当に須藤さん言葉なのか、夢で見た幻か分からないけど……」
まっすぐに顔を上げて、泣きながらでも、私に向けてくれたように、あの温かい陽だまりのような笑顔をお母さんに向ける。
「それでも私の手を握ってくれた、助けてくれた。だから……だから……私はここにいる──今を生きている」
外は夜の帳に幕を下ろし、暗闇に満ちている。けれど、この病室は、この場所だけは、明るく、暖かな光を灯していた。
「私ね、生きるよ。苦しくても、辛くても、悲しくても、死にたくなっても、私はちゃんと生きるよ」
須藤さんがくれた言葉を返すように、
私は、私の言葉を贈ろう。
私に大層な夢は無い。
顔も良い方じゃない。
頭も悪ければ、運動もあまり出来ない。
適当な娯楽で日々を無駄に過ごしている。
それくらいしか生きる理由のない、
無価値な人間だ。
努力だって出来ないし、
熱意を注げるものだってない。
常に「死にたい」って思うような、
中途半端な人間だ。
今日だって、戦争とかテロとか、
将来は不安に包まれている。
この先も就活とか、社会のマナーとか、
世間の重圧が私を圧し潰すだろう。
未来に希望が無いまま、
死んだ方が良い日々が続くかもしれない。
それでも、生きるよ。
それが私の小さな、ほんの小さな夢だから。




