第20話 次の電車
冬が残った三月は少しばかり寒くて、指先の神経が痛い。コートのポケットに手を入れて街を歩く。家を出たけれど行き先は決めていなかった。マンションの飛び降りができないのなら……電車か。
電車であれば一瞬で終わるだろうし、痛みなんて感じる暇もだいだろう。
マンションからの飛び降りは地面を見すぎてダメだった。遠く離れた地面を見つめていると確実な死を実感する。それでは足がすくんで動けない。
であれば、電車が通る直前に出てしまえばいい。それなら死を恐怖する前に死ねる。
そうと決まれば足先を駅に向けて歩きはじめた。朝方の通勤通学ラッシュが終わった時間帯は行き交う人が少なく、少し年上の大学生や私服の中年が駅に向かって歩いていた。
数分ほど歩き、駅前のバスターミナルを通り過ぎて駅構内に入る。改札口にスキャンしてゲートを通り抜けたあと、ホームへ向かうエスカレーターに乗り込んだ。ゆっくりと上って、このまま天国に行けたらいいな。
だけど現実はそうもいかない。
頂上へ着くと強制的に降ろされ、半屋外の駅のホームに出た。日焼けして黄ばんだ暴風板に挟まれ、ホームの中央には白く塗られた鉄骨柱が立っている。それも劣化して剥がれ落ち、代わりに赤いサビがこぼれ落ちていた。
都心から離れたこの駅では線路とホームの間に飛び降り防止のゲートはなく、簡単に飛び降りて死ぬことができる。
ホームの先、黄色い線の上に立つ。
あと一歩、二歩進めばレールに落ちる。
飛び込めば即座に轢かれるだろう。
『まもなく、快速列車が参ります。黄色い線より下がってお待ち下さい』
駅のアナウンスが聞こえた。もう少しで電車が来る。電車が来た瞬間、目の前で飛び降りて撥ねられる。
それで死ぬ。死ねる。死ねられる。
甲高い汽笛が聞こえて、遠く離れた電車が私に向かって走ってくる。
点に見えた列車が近づいてくる。
四角い正面が、徐々に拡大されて、見慣れない顔が、いつもより大きく見えて、あれ、こんなに大きかったかな、と思っている間に、目の前を通り過ぎていった。
巨大なハンマーが目の前で振り抜かれたような、重く押し出された風に当てられ、体の芯は揺らぎ、地面に響いた轟音が、私の心臓を震わせた。
「はぁ……はぁ……」
気付けば息を切らして、足が震えていた。
ダメだ、これでは飛び降りられない。
電車を見ていると、ここでも死を連想して飛ぶのを躊躇ってしまう。
飛ぶなら唐突に、何も考えず行くしかない。
しかし、今の恐怖心が私の体を支配して、上手く動かせない。手だって震えている。
一度、黄色い線から下がって、ホームの真ん中にあるベンチに座る。胸に手を当てて、息を吸って、吐く。繰り返し吸って、吐いて、震えを抜き出していく。
次で、次で飛べる。大丈夫、いける。次に来たら何も考えず走って飛ぶ。それだけだ。
息を整えて、心の中でよし、と決意を固めてから顔を上げる。
次は飛べる。
ベンチに座ったまま前を向いて、電車がきた瞬間に飛び込む準備をする。待つ。
心に決めて五分くらいたった頃だろうか。
いくら待っていても、いっこうに次の電車が来ない。普通なら十分単位で電車が来るはずなのに、その様子が感じられない。
電光掲示板を見ると、到着時間が過ぎているのに、電車が来ていなかった。
『お客様にお詫びいたします。ただいま人身事故の影響により、全線で運転を見合わせております。運転再開には時間がかかる見込みです。ご迷惑をおかけしますが────』
自動音声の放送で流れた。それが終わると、放送が切り替わり男性駅員の声が聞こえる。
『ただいま、先をいきます列車にて人身事故が発生しました。お客様にはご迷惑をおかけします。大変申し訳ございません。運転再開までしばらくお待ちください』
放送が終わると、電光掲示板にも人身事故によって遅れていると書かれていた。
先を行く列車ということは──さっき私が飛ぼうとしていた電車だ。それに向かって誰かが飛び降りて、死んだ。
「…………うぷ……」
逆流した胃液が食道を這い上がり、口の中に溢れた吐瀉物を無理やり飲みこんだ。喉奥でムカデが蠢いて、止まらない吐き気を口で抑えながらベンチにうずくまる。
あれは私だ、電車に飛び込んた私だ。
先に飛び込んだ人と心が共鳴してしまい、死んだ私を想像して余計に気持ち悪い。
決意が崩れ、錆びついた塗装みたいに剥がれ落ちていく。偽物のメッキで固めた決意なんて脆く、少しの衝撃で砕け散る。
何もできずに下を向いていると、二人組の話し声が近づいてベンチが揺れた。横目に見ると、スーツ姿の男性二人が一席あけて隣に座ってきた。
「まじでさぁ、なんでこんなときに自殺するかなぁ」
七三分けでワックスを固めた先輩風の男が腕を組みながらため息をもらした。
「いやー、まじでそれっすよね」
センター分けの男は後輩だろうか。妙な敬語で声がうわずっていた。
「プレゼンも頑張って準備したんすけどね、全部無駄になりましたよ」
「ほんとそれ、マジでありえねー。死ぬなら一人で勝手に死ねっつの。死んでまで人に迷惑かけてんじゃねぇよ」
私に言われているみたいで、会話の一つ一つが胸に刺さる。イヤホンを持っていないから耳を塞ぐこともできない。しかも、二人の声が大きいせいで嫌なほど鮮明に聞こえる。
気持ちをごまかそうとスマホを見るけど、会話が気になって手が動かない。
「……そういや知ってるか」
「何ですか」
「この前、契約したあの会社あるじゃん」
「あの会社……? あー、めっちゃブラックで有名な施工会社っすよね」
「そうそこ、そこでも電車に飛び込んだやつがいたんだよ」
「まじっすか!?」
構内に響く大声で後輩の男が叫ぶ。
「マジ、給料安いくせに終電まで働かされて、サビ残で徹夜、結果的に病んだらしい」
「うーわ、最悪っすね。俺なら絶対にいかないっすわ」
「ヤバいのはこっからよ。んで、電車に飛び込んだソイツ、世帯持ちでさ」
「あ、残された家族が可哀想ってやつですか」
「ちげぇよバカ。お前、電車に飛び込んだら残された家族がどうなるか知らねぇの?」
「どういうことっすか」
スマホを触る指が止まる。
「電車に飛び込んだら損害賠償があるんだよ」
「まじっすか」
「電車の修理とかレールの清掃、場合には俺らみたいな乗客の遅延とか訴えられて数百万は払うらしい。しかも残された家族が」
「うーわ、きついっすね」
「……だよな」
先輩の男はベンチにもたれかかって大きく息を吐き出した。
「結果、家族も払いきれず心中。子供抱えて同じ電車に飛び込んだって話だ」
「…………報われないっすね」
「……ああ、救いようのねぇ話だよ。クソみてぇなブラック企業も、自殺したアイツも、子供を巻き込んだ親もな……」
気付けば駅のざわめきも止まって、重苦しい沈黙が肩に乗っていた。
「だからさ、自殺だけはすんなよって話だ!」
快活に声を張って先輩の男は笑っていた。ただそれは無理矢理笑ったような、やせ我慢の痛々しい笑顔だった。
「分かりました! 俺、死ぬときは電車を使わないようにします!」
「いや、自殺をすんなよ」
男の軽やかな笑い声が、静まりかえった駅のホームで柔らかに聞こえた。
少しだけ空気が和らいだ気がした。
「ま、お前なら大丈夫か。酔っ払って落ちることだけ気をつけろよ」
「了解です!」
「つってもどうすっかな。やることもねぇし……タバコでも吸ってくるわ」
「あ、俺も行きます!」
二人のサラリーマンが立ち上がると、荷物をもってベンチから離れていく。
ざわざわと小声の会話が聞こえる中、私はスマホを閉じて地面を見ていた。
二人の会話がベットリと頭に貼り付いて、忘れられない。あの人達の話は、私が死んだ、その後の結末を語っていた。
私が電車に飛び降りる。その場合、数百万の賠償金が母に向かう。それで母も後追いするかもしれない。
私のせいでお母さんが死ぬ。




