第19話 鍵を捨てる音
少し湧いた力を使い、リビングの窓を開けてベランダに出た。
郊外のマンション八階から見える景色は高く、遠くの方で山々が連なっている。
街には同じようなマンションが何棟も経っており、道を歩く人達に影を落としていた。
三月の残冬が、乾燥した肌に刺さって寒々しい。今年の春は遅れているようで、桜もまだ蕾のままだった
ベランダの手すりに手を掛けて、体重を乗せる。体を外へ乗り出して下を見た。
遠く離れた黒々しいアスファルトが敷かれた地面。あの固く、惹かれる重力を持った地面を見ていると実感する確実な死。
いつも歩いているはずの地面が、遠く離れた空から見るだけで、異様な存在に化ける。
自分の足が浮いたような、本当に自分が立っているのか分からなくて、不安に飲みこまれた心臓が鼓動を早めていく。
死ぬ、死ぬ──私は死ぬ。
飛び降りたら死ぬ。
落ちたら死ぬ、死ぬ、死ぬ───────
────死にたくない。
足がすくんで動けなかった。
矛盾した心が私の頭をかき乱して、思考が、体が、固まる。
黒く染まった地面に、誰かが立っていた。
黒いボロ布をかぶった骸、その手には大鎌を携えた──死神が私を見上げていた。
風が吹き上げ、死神が舞い上がり、黒いボロ布が私に覆いかぶさる。
目の前が真っ暗になって「カァカァ!」と私に襲いかかった。
鋭い爪が肌を切り裂いて、暴れる羽腕に何度も叩かれる。
「いたい、いたい! やめて!」
腕を振り回して追い払おうにも、猛攻が止まらない。私は逃げるようにベランダからリビングに戻って、急いで窓を閉めた。
黒い羽がはらり、はらりと、舞い降りて、床に落ちる。ようやく強襲が止まって、ふぅと息をついてからベランダを見た。
窓ごしのベランダに、一羽のカラスが私を睨んでいた。抜け落ちた羽を見向きにせず、 体格差の違う私を物ともしない。
どうして急に襲ってきたのかと、ベランダを見たら、その角、室外機で隠れた位置に、木の枝で組まれた巣があった。
細い枝を匠に組まれているが、室外機に隠れてその全貌は見えない。もしかしたら卵とかあったのだろうか。
窓から離れて、リビングの椅子に腰をおろした。その間も親カラスは目を光らせて私を監視していた。
すぅーっと息を大きく吸い込んで、全身の力を抜くように息を吐き出す。そうやって、何度か繰り返すうちに、暴れていた鼓動が落ち着きを取り戻していく。
もう一度、ベランダを見たら親カラスは飛び去ってベランダからいなくなっていた。
今なら飛べるかもしれない。けれど、またあの親カラスが来るかもしれない。
それに、こんな冷静になった頭では死のうと考えられなかった。死にたい思いはあるのに、理性が死んではいけないと叫んでいる。
素面では飛べない。
もっと思考を捨てて、死への恐怖を消して、無自覚、無痛にしないと、理性が死ぬことを許さない。
そう考えると、私はまだ生きたいのかもしれない。でも、落第して、未来が閉ざされて行き場所のない私に生きる価値なんてない。
死にたい。
その思いは、今も残っている。
飛び降りができないとして他に死ねる方法があるとしたら、首吊りか。
縄状のものは延長コードとか使うとして、首を吊る場所はどうしよう。
昔の家屋なら梁とか吊り照明に結べたけれど、この部屋に梁はないし、照明も天井にべた付けされた丸い照明だけで、引っ掛かりがない。これでは首吊りができなかった。
ネットで調べたら、ドアノブに結んで吊る方法があるらしい。試しに、リビングのドアノブと延長コードを結んでいると、窓の外で黒い影が動いた。
気になって、ちらりと目を向けると、そこには先ほどの親カラスが戻ってきていた。
ベランダの手すりに立って私を見ている。
自分の巣を見ながら、首を動かして私を見ている。目があった。
真っ暗闇の体に沈み込んだ、深黒の瞳。それが一瞬、キラリと陽に当たって、黒水晶の輝きが延長コードを結ぶ私を映した。
……母さんが帰ってきて、家に私の死体があったら嫌だよね。
結んでいた延長コードを解いてテーブルの上においた。
死ぬなら、ここじゃない場所で死のう。
壁にかけられた時計を見る。
時刻は八時三十分。
もう少しで朝のホームルームが始まる。
大体の生徒は学校に着いているだろうし、すれ違うこともないと思う。
一度、リビングを出て自室に戻る。
クローゼットにしまっていた白パーカーとジーンズに着替えて、黒いロングコートを羽織る。あとはマスクをして、同級生とすれ違っても、私だとバレないよう気をつける。
今から自殺するとか他人にバレたくない。
スマホと財布を持ってリビングに戻る。テーブルの書き置きに『ごめん』とだけ書いてリビングを出た。
カラスはもういなかった。
自室の前を通り過ぎ、玄関に散らばったスニーカーを履いて後ろを振り返る。物音一つしない廊下、慣れ親しんだ家の匂い。照明を消すと、廊下は影に飲まれ、陽の光が入ってくることはない。扉に手をかける。握った取手は冷たくて、手が止まる。それでも力をこめて家を出た。古びた扉は錆びついた金具を擦り、不快な金属音を鳴らして閉まる。
財布から鍵を取り出す。母から預かっていた鍵だが、もう使うことはない。
鍵を差して、ひねる。取手を握り、閉まったことを確認して、鍵を扉のポストへ捨てる。
カラン、と空っぽな音が小さく聞こえた。
その音だけが、ずっと頭に響いていた。




