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第18話 母さんはいつでも静香の味方だよ

 ずっとスマホを握っていた。


 大学側がもしかしたら間違えて、私の番号を記載し忘れたかもしれない。他の学生と受験番号を間違えているかもしれない。


 その連絡が、電話が、来るかもしれなくて、それだけを信じてずっと待っていた。


 コンコン、と部屋の扉をノックする音。


「夕飯、出来たからね」


 母の優しい声が扉越しに聞こえて、足音が遠ざかっていく。


 帰ってきていたことに気付かなかった。


 時刻は18時を過ぎていた。


 朝から何も口にしていないのに、お腹が空かない。何も食べる気が起きない。


 胃が何もかもを拒絶している。


 このまま餓死できるかな。


 画面を見たまま、時間が過ぎていく。


 眠ってしまったら、大学からの連絡に気付けないかもしれない。


 そう思うと眠気がなくなって寝付けない。


 時間だけが勝手に過ぎていく。


 時刻は真夜中の0時


 それでも大学から連絡は来ない。


 来るかもしれない。来るかもしれないと、眠らずに思い続けて、朝になった。


 スマホのアラームがピピピピと、けたたましい音を鳴らして


「うるさい!!」


 怒りのすべてをスマホにぶつけて、布団から投げ捨てた。


 それでもピピピピと鳴り続けて、音量が徐々に上がっていく。


 ピピピピピピピピピピ


 布団を貫通して、鋭い音が鼓膜に刺さる。


「…………ああ、もうっ!!」


 鬱憤を晴らすつもりが余計に怒りが増して腹に熱が溜まる。布団から飛び出て、机の下に落ちたスマホのアラームを止めた。


 はぁ、とため息が漏れて、窓の外を見ると日はすでに昇っていた。


 カーテンの隙間から漏れた日差しが瞼に刺さって鬱陶しい。


 ピロンとスマホから通知が鳴る。


『学校、待ってるからね』


 晴からだ。


 ああ、そうだ。晴には私の番号を伝えているんだった。


 この様子だと私の結果も見たんだろう。


 だからこそ深くは聞いてこない、気を遣われた言葉。


 今はその言葉すら私には煩わしくて、苛立ちが腹から登って、胸のムカつきが気持ち悪くて痒かった。私も晴の番号を聞いているのに、晴の合否を見る気にはなれなかった。


 あんなにデザイナーという夢に向かって努力していた晴の姿を私は知っている。だから合格したんだと、どこか確信めいたものを持っていた。


 劣等感が私の体を蝕んで、喰い尽くして、穴だらけになった心が消えていく。


 コンコンと聞こえたノックに、驚いて体が跳ねた。


「学校、行かなくてもいいから。ご飯だけは食べてね」


 母だった。


 昨日の連絡も無視して、夕飯も食べていない。何も言えず、ただ立って扉を見ていると


「母さん、仕事に行くけど……お願いだから、ご飯だけでも食べてね」


 足音が離れていく。


「いってきます」


 扉の向こうで、か細い声が聞こえた。


 少しすると人の気配が消えて、わずかに開けた扉の隙間から廊下を見る。


 玄関には誰もいない。


 廊下に出て扉を閉める。ばたり、と乾いた音が響いた。嫌なくらい、静かだった。


 暖房のない三月の廊下はフローリングが氷のように冷たく、足裏から凍えていく。


「寒い……」


 ぺたりぺたりと歩く足に力が入らない。廊下の扉を開けて、リビングに入る。


 ほんのりと温かい空気がゆったりと流れて私を包みこんだ。


 立ち呆けて、何をしようか考えて、固まる。色々考えても、結局何をする気もおきず、壁についた黒いシミを見ていた。シミはシミで、うす汚い壁の汚れ。じっと見ていても動くことはない、存在価値のない汚れ。


 一瞬、冷風が足をすり抜けた。それがどこか勿体ないと感じて扉を閉める。


 壁に設置されたエアコンがついたままだった。お母さんが気を利かせて付けたままにしたのだろうか。


 見慣れたリビングの空間、その中央におかれた木製のテーブル。そこに一枚の紙が置かれていた。


 まっさらなテーブルに置かれた書き置きを手にとった。


『冷蔵庫にカレーがあるから、チンして食べてね。母さんはいつでも静香の味方だよ』


 走り書きの文字が、何度も書き直したあとで汚れていた。何度も書いては消して、私を傷つけないように言葉を選んで書かれた文字だった。忙しい朝の時間に、わざわざ書いてくれた言葉が優しくて、嬉しくて、


──何よりもつらかった。


 視界の端が滲んで、ぽたり、と落ちた雫が文字に当たる。じんわりと染みた文字が霞んで形を崩していく。ぼろぼろに落ちる涙が止まらなくて、目を閉じても端から溢れ落ちていく。塞ぎ止めていた感情が制御できなくて、決壊したダムのように嗚咽が漏れる。


 私は何をしているんだろう。


 自分がしてきた勉強も、努力も、先生方の授業も、三年間の時間も、母の期待も、優しさも、全部、全部、無駄にして私は落第した。


 普通の道を歩いているはずだった。


 山も谷もない、平坦な普通の道。


 でもそこには落し穴があった。


 這い上がれないように深く掘られた穴に、私は気付けなかった。


 私の背丈を超える穴では、未来の景色も、この先も道も見えない。


 這い上がるための道具も、力もない。


 落ちた穴の底で、そのまま死んでいく。


 届かない空を見上げ、無気力にうずくまり、


 惨めに死んでいく。


 それならいっそのこと、終わらせたい。


 自ら命を絶って──死にたい。

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