第2話 夢の中だけの幽霊
シンと静まった教室は物音一つしない無音の世界で、心臓の音が嫌なほど聞こえる。
「お、やっと起きた」
無音の教室に、聞き覚えのない男の声が聞こえた。目を擦って、机の端に置いていた眼鏡をかける。ボヤケてた視界が、じんわりと明瞭に広がって、声の主の姿を現した。
教室の角に置かれた担任用の椅子に、男が一人座っていた。
白シャツに黒のジャケットを羽織ったサラリーマン風の、見たことのない大人だった。
短かいクセ毛をかきあげておでこを出し、パッチリとした大きな目が私を見ている。
「だ、誰ですか」
他教室の担任でもない、知らない男が教室にいて、体が強張っていく。簡単に出入りできない高校にいる大人なんて友達の親か──不審者の可能性が高い。
男の顔をまじまじと見る。平凡で、どこにでもいそうな普通の人だ。
けど、見ず知らずの男と二人っきりの状況で安心できるはずもなく、いつでも逃げられるよう、椅子を軽く後ろに引いた。
脚がズズッと床に擦れて、心臓が飛び上がった。無音の教室に嫌なほど響いて、不味ったかなと、足に力を入れて立ち上がる。
しかし、立ち上がる私を見て、男は焦ったように手を振ると、自分から身を引いて立ち上がった。
「まってくれ、俺は怪しい人じゃ──いや、自分で言うのも変だけど、怪しい人じゃない」
男は黒板に背をつけて、私から離れようとずるずると後ろに下がっている。
「それにほら、これを見てくれ」
黒板の真ん中まで下がると、男は急に手のひらを見せてきた。
「俺は夢の中だけの幻みたいな、幽霊みたいなもんだよ……」
男がかざした手をジッと見る。眼鏡越しに見る男の指が煙みたいに揺らいでいた。そのせいか男の体は薄ぼんやりと透けて、黒板の深緑色が男の姿に重なっている。
いや、それよりも──
「今、夢の中って言いました……?」
「え、うん」
男はあっけらかんと、事もなげに答えた。
「……夢って、何を言っているんですか」
「いや夢は夢よ。人が眠っているときに見る夢──ほら、外を見てみな」
男が窓に指を差す。それに釣られて、私も窓の外に目を向けた。校舎の外、グラウンドの中央で、ビルが生えていた。
目を疑う光景に、頭の整理が追いつかず、ぱちぱちと瞬きを繰り返してから、目を擦ってもう一度外を見る。
やはり、グラウンドにビルが生えている。
よく見ると、グラウンドの地面が、黄色い花畑で埋め尽くされていた。花畑から公園のモニュメントみたいにビルが伸びている。
「なに……これ」
日常から外れた異様な光景に、理解が追いつかない。どうしてグラウンドにビルがあるのだろうか。そんなもの昨日までなかった。であれば一日でビルが建ったことになるが、そんなことあり得るはずもない。
ビルを注視していると、今度は視界の端でちらちらと動いているものがあった。
グラウンド横にある街の道路。そこを走る一台のバズが地面へ突き刺さっていた。
縦半分が道路に埋まって、バグったゲームみたいな挙動で、浮き沈みを繰り返している。
意味が分からない。
そして、何よりも現実味がないのは、空を走る蒸気機関車だった。
学校外の住宅地、その家々の上を真っ黒な躯体の蒸気機関車が、煙を出して空を走り回っていた。
どう見ても、現実ではありえない光景に、男が言っている「ここが夢」という言葉が、真実味を帯びてくる。
窓から視線を外して、男に目を向けた。
「……本当に夢なんですか」
目の前に立つ男が言っていることは正しいかもしれない。それでも、確証がないのに、
「はいそうですか」と簡単に信じることが、できなかった。
もう一度、男の瞳を覗いた。長いまつ毛がぱっちり生え揃って、真っ直ぐな瞳で、私を見ている。嘘は言ってなさそう。
良い人かは判断がつかないけれど、悪い人には見えなかった。
「俺も詳しくは分からないけど、多分これ、明晰夢だと思うんだ」
明晰夢……聞いたことはある。
自分が今、夢を見ていると理解しながら、話が進行する夢。思い通りの夢が見れるって何かの番組で見た気がする。
夢の役割は、記憶の整理や無意識の願いを現すとかナレーションの人が言っていた。
こうした教室の風景も、私の記憶だろうか。
でも体の感覚は僅かに残っていた。
足元だけふわふわと浮かんでいるような、謎の浮遊感がある。
妙に感覚はあるが、世界観に現実味がない。
この中途半端なのせいで、これが夢だと、簡単に信じられなかった。
「ちなみに、起きるつもりはない?」
「現実にですか? 仮にこれが夢だとしても現実には起きたくないですね……」
なんで現実に起きるという選択肢が浮かぶのだろうか。
普通に考えて、現実に起きたくはない。
起きたら憂鬱な朝が始まって、面倒な朝の身支度して、学校に行かなきゃいけない。
そんな現実に戻るくらいなら、夢に浸ったまま適当に過ごしていたいに決まっている。
飽きれて、思わずため息が漏れてしまい、目線が床へ落ちる。
教室の床にこびりついた消しカスが汚れを含んで黒ずんでいた。
居心地の悪い沈黙が、嫌なほど長く感じて今すぐ教室から出てしまいたい。
本当に逃げようかと考えた瞬間──パンッと手のひらを弾く音が空間に響いて、沈黙が弾け散った。
顔を上げると、男は叩いた両手を合わて、
夜明けの太陽が世界を照らすような、明るく真っ直ぐな瞳で、沈んだ私を見ていた。
「せっかくの夢だからやりたいことやろう!」
唐突な男の発言に、世界の時間が飛んだ。
「え……やりたいこと、ですか」
「そう、やりたいこと。無かったら探す?」
探すとか聞かれても、どうすればいいのか分からない。
「どうして、そんな提案をしてくるんですか」
「んー、特に考えてないけど、夢の中だから自由に遊んでもいいんじゃないかと思って」
晴天の空を通り抜ける声が、心の壁をすり抜けて私の耳に届く。
「夢の中だから、どんな願いも叶えられるよ」
「どんな願いを、なんでも……」
男の提案に、少しだけ天井を眺めて考えた。天井に埋め込まれた蛍光灯がキラリと光ってから、その光が次第にしぼんで小さくなる。パチパチと点滅を繰り返して、蛍光灯が一つ消えた。
「やりたいこと……ないです」
元から将来の夢とか、目標とか無い私に、やりたいことなんて思い浮かばなかった。
真っ白なキャンパスに、好きなものを描いてくださいと言われても描けるはずがない。
そういうのは最初から描きたいものがある人間にしか描けないのだ。
「そっか……」
咲いていた陽だまりがしぼんで、首が軽く折れ曲がった。
みるみる萎れる姿に、罪悪感が私の背中をつついてくる。
少し申し訳ない気がして、自分の中に何か
願いがないか、頭の中を洞窟みたいに、深く掘り起こして考えた。
何かないか探っていくうちに、暗闇の奥で小さな想いがきらりと光る。
「家に…………帰りたい」
男の人は顔を上げると、素早く瞬きを繰り返して私を見た。
「家に?」
「……はい。家に、帰りたいです。それじゃダメです……か?」
自分でも分かっている。
しょうもない願いだと自分でも思う。
だけど理由が分からないくらい、家に帰りたかった。胸の内に隠れていただけで、最初からあったような願いが、私を突き動かす。
消えていた蛍光灯が、パチリと一つ、光を取り戻した。
「俺の了承とかいらないよ。これはキミの夢だから、キミの自由にしていいんだ」
嫌味も含みもない、まっすぐな言葉で男の人は答えた。私のしょうもない願いを笑わず純粋に応援してくれているのが分かる。
卑屈にも、ひねくれもしない、竹を割ったような性格が羨ましかった。
相手の言葉を疑って、ひねくれて、嫌味を言って、ネガティブに囚われるような私とは大違いだった。
「よし! じゃあ家に帰るか!」
張り上げた声で空気を切り替えると、男の人は両手を伸ばしてアクビをした。
「え、あ……その、来るんですか」
「だめ? ぶっちゃけ、ここにいても暇なんだよね。見送りくらいはだめかな」
自然と微笑む姿が、とても暖かい。それが私にはない明るさで、眩むような明るさが、思わず友達の姿と重なった。
どこか懐かしいような、温かい想いがゆったりと溢れて、少しだけ息を吐くと、肩の力がスッと抜けていった。
「見送りくらいなら、構いません。ですが、あの、それとは別に……ですね」
タイミングを逃して、聞きそびれていたことがあった。
いや、別に最初は聞こうと思ってなかったけど、こうして話すなら、大切なことだから聞かなきゃいけない。
「……名前、教えて下さい」
名前を聞くのって、本来は最初に聞くものだと思う。今更かもしれなくても、大事なことだから、私は名前を聞いた。
私の質問に、男の人は目を大きくして固まると、それも一瞬で、眉をよせて困ったように笑った。
「須藤明……キミは?」
「巴静香です」
私の名前を聞いても、うん、と須藤さんは小さく頷くだけだった。ただ、どこか見守るような、優しい目をしていた。
「では先、行きます」
その見守る目線が、嫌ではないけど、妙にむず痒くて、私は急ぎ足で教室から出た。
大した目標もない私の──夢の旅路。
もし漫画や映画の主人公なら、夢の中から脱出したり、化物と戦ったりするのだろう。
けど私の人生に、そんなものはない。
ただ家に帰る。
それだけの、小さな夢の話だ。




