第13話 暗闇の底で、思い出す
バスの中は、真ん中を通路にして、左右に一人がけの椅子、後部座席には二人がけと、最後方に一列並んで五人席の、一般的なバスだった。乗客は誰も乗っていない。
最後方の角席に座る。ここが一番落ち着く。
須藤さんも乗車すると、同じ最後方の、私とは逆の角席に座った。私と須藤さんの間には、三人分の席が空いていた。
席につくと、また安いラッパ音を鳴らし、空気が抜ける音を出して扉が閉まった。
エンジンを震わせて、バスが進み始める。
後ろの席はエンジンが近いのか、スポンジ越しに座面が細かく振動していた。臀部の痒さが気になったけど、バスの速度が早くなるとあまり気にならなくなった。
頬杖をついて窓を見る。
田舎町の風景が、バスのスピードに沿って流れていく。
薄茶色の田畑や、家々がまとまった小さな住宅地、どこかの学校と体育館が見える。
私の夢なのに、見覚えのない風景。
記憶にないような、知らない場所。
杉林から続いていた違和感を考えて一つ、分かったことがあった。
私の記憶は、欠けている。
忘れたのか、失ったのか、知らない記憶が夢の中で再放送されていた。
そもそもの話だが──
どうして私は、家に帰りたいのだろう。
だって現実の私は、家で寝ているはずだ。
それなのに、私は家に帰りたい。
胸の中で、確実に鼓動を打つ願い。
夢が記憶の整理や、無意識の願いならば、私は何を見せられているのだろう。
そして何より……窓の外から視線を外して、離れた席に座る須藤さんを見る。
須藤さんも窓の外を眺めていた。
ときおり険しそうな横顔が、眉を寄せては外の風景を見ている。
この人も、私には分からなかった。
最初から夢の中にいた須藤さん。
無駄に明るい性格は友達に似ていている。
だけどそれ以外の、須藤さんに似たような人物なんて知り合いにいなかった。
でも不思議と怖くない。
温かい陽だまりで包み込むような、優しい目でいつも私を見ていた。
この人はどうして私の夢にいるんだろう。
私が願った存在……なのだろうか。
すると、体が少し前に押されたのを感じて、バスが少しずつスピードを緩めていた。
バスが停車すると、安いラッパ音と一緒に扉が開く。そして外から人が、ぞろぞろと乗り込んできた。ただ、その姿は輪郭を保っておらず、煙みたいに掠れていた。曖昧な記憶で作られた人型の煙だった。
杖をついた腰の曲がった老婦人や、娘連れの女性だということは、なんとなく分かる。
乗客が全員席に座ると、バスは再び動き出して、体が後ろに引かれる。
娘を連れた女性は私の前席に座り、二人で楽しそうに話をしていた。ボソボソと会話は聞き取れないけど、ぼやけた輪郭でもわずかに見える笑顔がとても楽しそうだった。
その姿が微笑ましいと思う反面、生きることの苦しさを知らない幼さが羨ましい。
戻れるなら、勉強とか部活とか、人間関係の煩わしさに巻き込まれない頃に戻りたい。
親子はバスが停まると降りていった。そうしてバスは出発と停車を繰り返して、乗客が増えていく。
そうして見ていると、今度は賑やかな女学生の団体が乗ってきた。
私と同じくらいの高校生だ。
私とは違うグレーのブレザーで、知らない学校だった。
三人の女学生は輪郭を煙でぼかして楽しそうに会話して近づいてくる。そして私の隣に三人並んで座ってきた。
「ザッ──でさ! ザザッ────ねー!」
ノイズ混じりに聞こえる声は、中途半端に聞こえるせいで鼓膜が痛い。
その上、バカ騒ぎを繰り返している。
暴れだしそうな腹の熱を、大きなため息で吐き出す。バスの中では静かにしてほしい。
イヤホンがあれば、今すぐ耳を塞ぐのに、今は何もないから対処しようがない。
どうやっても聞こえてしまうし、私の隣に座っているせいで移動もできない。
できるだけ意識しないよう窓の外を見る。
いつの間にか、バスは小さな街に入って、ちょうど大きな橋を渡りはじめた。
橋の下に見える川は青々と濁って、深い水底を隠している。
橋を渡りきると、バスは病院の前に停まって空気を抜きながら扉を開けた。
それに気づいた女子学生の団体は、一斉に立ち上がると、騒音を撒き散らしながらバスの通路を歩く。やっと、この人たちから開放されると思っていたら──────
「死ぬしかないね」
ふと聞こえた言葉が、私の胸に刺さった。
心臓が強く跳ねて、激しくなる胸の動悸を鷲掴む。心臓が破裂しそうで、胸が痛い。
突然の痛みに、頭が前席に倒れ込んだ。
細切れになった息が、肺を切り裂さいて、意識が途切れかける。
そんな私を気に留めず、女学生らはバスを降りていく。そして再びバスは動き出した。
『まもなく終点、境駅前東口……お降りのお客様はバスが完全に停車するまで──』
放送が頭に入ってこない。
破裂しそうな胸の痛みに、意識を失う瞬間誰かが私の肩を掴んだ。
「……大丈夫?」
須藤さんが私の隣に座って顔を覗き込む。
須藤さんの強い意思を持った瞳が僅かに揺れて、額に汗をかいていた。
「もっと早く気付けたら……境駅に向かっていたなんて……」
走り続けるバスを横目に、私の背中を擦る。
「すぐに降りよう。ここにいちゃダメだ」
胸の痛みに意識が持ってかれ、須藤さんの声に上手く答えられない。
「どう……して…………わかる……です、か」
切れ切れの呼吸で酸素が回らず、脳が割れそうだ。頭を前に倒しながら、ちらりと左目で須藤さんを見る。
「それより今は、呼吸を整えて、ゆっくりと息を吐き出すんだ」
「は…………い……」
須藤さんに言われて、短い呼吸を無理やり吐き出して、体内の空気をゆっくりと抜いていく。そうして抜けきった肺に、少しずつ、息を吸って、酸素を取り入れる。
「すぅー……はぁー……」
何度か深呼吸を繰り返すうち、脳に酸素が回り始めて、ごちゃごちゃした思考が一つ、ひとつ整理されていく。次第に、胸の痛みも少しずつ引いていた。
「すみません……もう、大丈夫です」
須藤さんは肩の力を抜いて、一息吐いた。ただ瞳はどこか焦ったままだった。
「でも、無理はしないように」
「……はい」
「とりあえず、停まったらすぐに降りよう」
外を見ると、バスは雑居ビルに囲われた地方都市を走っていた。
低層のビルが建ち並ぶ場所で、バスは速度を緩やかに落としていく。
そしてバスが停車して扉が開かれた。他の乗客らは一斉に立ち上がって、ぞろぞろと下りていく。乗客が全員降りると、私と須藤さんだけがバスに残っていた。
「立てそう?」
「……大丈夫、です」
まだ、じんわりと痛む胸を抑えて、足腰に目一杯の力を入れる。背もたれに手をかけてゆっくりと立ち上がった。
「早く……降りましょう」
バスの真ん中を歩く。中央の扉から出て、地面に足をつけた瞬間、プルルルと着信音が聞こえてきた。
どこから音が鳴っていのか、音のする方を見ると、ちょうど私が降りた足元にスマホが落ちていた。しかもそれは、私が使っているシルバー色の同機種だ。
「私の……スマホ……?」
着信に出るべきか固まっていると、画面が勝手に動いて、通話に切り替わった。
『…ザザ………どこで……………の?』
ノイズにまぎれて女性の声が聞こえる。
聞き慣れたような、誰かの声だった。
「それ、繋がってる?」
バスから降りてきた須藤さんも、地面に落ちたスマホを見て、首を傾げている。
『……ザザ…連絡…………ザザー……です』
途切れ途切れに聞こえる声に耳を傾ける。
けれど、何を言っているのか聞きとることができない。
「気付いたら、そこに落ちていまして……」
『ザザザ……落ちて………ザザ…ザ…ザ……』
通話を聞くたびに、握り潰されるような、胸の痛みが強まっていく。
『………………………………来なくていい』
ノイズが途切れて、通話が終わった。
街中が無音に包まれ、引き伸ばされた糸のように空気が張りつめている。
「なんだったのでしょう」
「いや、これはもしかして──」
パキリとスマホの画面が割れた。息を飲むと、今度は足元にヒビが入り、そこから暗く寒気のする闇が、破裂した水道管のように吹き出て、逃げる暇もなく私を飲み込んだ。
「キャァ! な、なにこれ!?」
視界の全てが、真っ黒に塗りつぶされて、何も見えない、聞こえない、感じない。
「須藤さん! 須藤さん、どこですか!」
大声で呼びかけても、返事がない。
独りの世界に落とされた不安で、また胸が痛くなってくる。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
急いで須藤さんを探そうと、手探りに歩き進める。視界を潰されて不安だけが隣にいる。
歩いても、歩いても、世界は暗闇に支配されている。声をかけても、誰の反応もない。
心臓が強く、激しく、鼓動を繰り返す。
息が荒れてきて、呼吸がしにくい。
胃が燃えるように熱くなると、食道がこみ上げて──「おうぇええ」──嘔吐した。
吐瀉物が喉に絡んで、ヒリヒリする痛みに混じり、小さな固形物が口に残っていた。
「あ……ぶえ…………おうっぇ」
また胃液がこみ上げてくる。
手で抑えようにも、制御が聞かず、胃液が吐き出されて、歯に固形物が引っかかる。
小さな固形物を吐き出して手に取る。暗闇の中、吐瀉物に混じって白い粒が混ざっているのが見えた。
「これは……薬?」
次第に、思考がまともに働かず、脳が蕩けたように、意識が朦朧としはじめる。
うまく頭が回らない。
すると、ピチャリ、水が跳ねた。
気付けば、私の足元に水が湧いていた。
水位は次第に上がって靴の中に水が入る。
水に浸かった足が冷たく、力が抜けていく。
水位の上昇は止まらず、膝が水に沈む。
這い上がってくる水に、体が抵抗できず、腰まで沈んだ体が、冷たくなって動かない。
感覚が消えていく。
命の灯火が、体温が消えていく。
首まで水に飲みこまれ、息が苦しくなってようやく思い出した。
全部、全部思い出した。
ああ、そうだ……そうだったんだ。
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何もかも無駄だった。
この夢に意味はなかった。
私に生きる価値なんてなかった。
見た目が悪くて、運動も、勉強もできない。
やりたいことも、目標も、夢もない。
苦しむために生まれた人生。
だから私は自殺した。
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