第11話 今度は、お母さんと
本当に考え方が幼い。
子供だから仕方ないとしても、お母さんが可愛そうだ。
たしか……このあとはずっと船底だけを見たまま岸に戻って、家に帰ったんだっけ。
蓮の花に一切見向きもせず、お母さんの言葉を全部無視して拗ねていた気がする。
忘れていた記憶を思い出して、きゅっと胸が締めつけられる。
お母さん、気にしていたのかな。これ以降、一度も蓮池に来ることも、話題に上がることもなかった。私が嫌な思いをすると思って話に出さなかったのかな。
私、まだ謝ってない。
このときのこと、何も謝れていない。
──謝りたい。
謝って、今度はちゃんと蓮花を見て、良い思い出として残したい。
後ろを振り返る。
船尾に座る須藤さんの後ろ、さっきまで見えていた砂浜が、桟橋が離れていく。
白い霧に覆い隠され、戻るべき場所が消えかかっている。
船は今も、ゆっくりと前に進んでいる。
スルリ、スルリと時間をかけながら深い霧の奥へ潜っていく。
早く戻らないといけない。
そんな危機感が、頭の中で響いている。
「須藤さん、戻れますか」
「────」
須藤さんは空を眺めて反応がない。上の空のまま、意識半分に口を開けたまま動かない。
「須藤さん!」
「んあ、え……あ、っと……どうした?」
声を荒げて、ようやく反応を示し、目に光を取り戻した。
「桟橋に、戻れますか」
「あ、ああ。分かった」
須藤さんは体を傾けて、エンジンのレバーに手をかける。自動で動いていたレバーを横に傾けると、船体は次第に横を向いて、桟橋へ方向転換した。
霧に飲まれかけていた桟橋が姿を取り戻し背が伸びた葦の群れも、砂浜も見えてきた。
ゆったりと進む船体が桟橋に近づく。
そのまま桟橋の横につけると船底が揺れて、体が左右に揺すられる。
転ばないように、体全体でバランスを保ちつつ、私は座板から立ち上がった。
船から軽く飛んで桟橋に降り立つ。
ギィと木板が軋む音が聞こえて、自分の足が地面に立った実感が湧いてくる。
「なんか、気持ち悪い……」
波に揺られていたせいで、地面が蠢いているような陸酔いに、平衡感覚がおかしくなる。
気持ち悪さを我慢しながら桟橋から降りて砂浜を歩く。揺れる視界に頭を抱え、砂浜を歩くおぼつかない足がもつれて──
「おっと、大丈夫?」
前へ転ぶ前に、腕を掴まれた。
重心が前にかたよって倒れかける私を、須藤さんが後ろから引いて体勢を戻す。
「あ、と……すみません」
須藤さんの袖を握って、なんとか立つ。
「落ち着くまで掴んでていいよ」
「はい、すみません……」
脳が揺れる感覚に、まだちゃんと立つことができない。転ばないように須藤さんの腕を支えに立ち続けて、ふと気付く。
須藤さんの姿が、最初よりも薄い。
学校にいたとき、須藤さんは手をかざして見せてきた。そのときよりも体が透けて遠く向こうの葦原が見えていた。
「体、透けていますが、大丈夫ですか」
「え、本当に?」
須藤さんは手の平を回したり、体を捻って自分の体を観察したあと、諦めたように小さく笑った。
「ああ、これか……たぶん大丈夫だよ」
何度か見ている達観したような諦めたような目。自分のことを話すとき、いつも悲しそうに笑っている。
「それよりも、次はどうする?」
また誤魔化すように笑って、話を切り替えられた。
何かを隠している雰囲気が、どうにも気になってしまう。けれど、本人が言わないことを無理に聞き出して、空気が悪くなるのも嫌なので、これ以上は何も聞かない。
「駅に戻りましょう。そろそろ電車が来ると思います」
頭の揺れが落ち着いてきたので、須藤さんの袖から手を離して、数歩離れた。
須藤さんを透かした向こう側には、枯れた葦原が広がっている。
葦は、高い背丈と折れてしまいそうな身を寄せ合って、何かを悩むように頭を垂らしていた。考えすぎた葦は折れて曲がり、頭だけ池に沈み落ちて死んでいる。
腐り果てた哀れな死に様だった。
葦原に背を向けて砂浜を歩く。
砂浜と道路の境界を出たとき、急な突風が蓮池から吹き上がって、私の髪をなびかせた。
風が吹いた蓮池へ振り返る。
陽の光を転がした水面が波に揺られ、心地よい波の音と、調和されたせせらぎに、肩の力がすぅと抜けていく。
少し遠くの方でエメラルドに染まった葉を広げ、艷やかな桃色の妖精が花となって咲き乱れ踊っていた。
あんなに綺麗だった景色が遠く離れて、霧の向こうへ消えていく。霧に呑まれた蓮花たちは、小さくお辞儀をしているようだった。
蓮池から吹き荒ぶ風が、胸にぽっかり空いた穴を通り抜けた。それがどこか寒々しくて、自分の心を温めるように胸に手を当てた。
次はお母さんと一緒に見に行きたい。
蓮池じゃなくても、お母さんと一緒に美しい景色へ触れたい。そうすれば、この冷たい心が少しでも温まるような気がした。
それだけを願って、私は蓮池を後にした。




