第10話 おかあさんなんかきらい
『おかーさん! あれのりたい!』
私の足をすり抜けて、女の子が池に近づく。そこではじめて、私が今、砂浜の上に立っていることに気付いた。
女の子は変わらず半透明な姿を揺らして、池の隅に生えた葦原へ走り去る。
すると、私の後ろから別の声が聞こえた。
『ほら、危ないから走らないの』
私と同じ背丈の年若い女性。
肩につかない長さの茶髪を揺らして、私の横を通りすぎる。白シャツにジーンズを履いてスラッとした体型の──私のお母さん。
私が知っているよりも若い姿で、ほうれい線も、目尻のシワもない。現実のお母さんみたいな丸みのある体型でもない。私の知らない若い頃のお母さんが目の前を歩いていた。
ということは、さっきの女の子は
「私……」
背を超える葦の群れに二人は消えた。
それを追って私も足を進める。
砂を踏みしめた靴がわずかに沈んで歩きにくい。転ばないようバランスを取りながら、二人を探して葦原に入る。
葦で隠れた奥の方には木製の桟橋、そこに並んで小舟が浮かんでいた。桃色と白ボーダー柄のビニール屋根が付いた小舟は、田舎でよく見かけるダサいカラーリングだ。
「船、乗りたいの?」
私の後ろをついていた須藤さんが、小舟を指差しながら聞く。
船尾を見ると、黒い塊みたいなエンジンとモーターがついている。
普段はスタッフの人が運転してくれるのだろうけど、今は誰も乗っていない。
「運転、できますか」
「……多分できると思う」
変な間を挟んでから、須藤さんは桟橋から飛んで船に乗り込んだ。
揺れる船体に、須藤さんはこけないようバランスを取りつつ船尾へ向かう。
中型カバンぐらいの黒いエンジンを観察したあと、何度か触っていじって、エンジンの紐を思いっきり引っ張った。
犬の唸り声みたいに短く鳴いて止まる。
もう一度、紐を引っ張ると、今度は唸り声を続けて、エンジンに熱が宿った。
須藤さんは少し自慢げに笑う。
「ほら、これで動くと思うよ」
「……みたいですね」
私も桟橋から飛んで船に乗り込んだ。
船の上には木板が横に三列、ベンチみたいに敷かれていた。真ん中の列に腰を下ろして正面を見る。ライフジャケットはないので、落ちないよう気をつけなければいけない。
「それじゃあ動かすよ」
背後で須藤さんが声をかけると、船は葦原を抜けて、スルスルと滑らかに進みはじめた。
「運転、上手ですね」
素直に思ったことを口にしたのに、背後から反応がない。
無視されたのかと、腹の熱に動かされて、後ろを振り返る。
船尾に座った須藤さんは手を上げていた。驚いて目を見開いたまま、勝手に動くエンジンとレバーを見てから、私と目が合った。
「俺、なんも動かしてないよ」
モーターの向きを動かすレバーが、自動で動いて船を操作していた。
「だ、大丈夫でしょうか」
「……多分。一周したら戻るんじゃないかな」
須藤さんは困り眉を垂らし、なかば達観して笑っていた。いや、笑えない。
そうこうしているうちに船は進み続けて、桟橋からだいぶ離れてしまった。
今からジャンプしても戻れそうにない。
はぁ……と一つため息を吐いてから、私は前に向き直して板に腰を下ろした。
大皿の葉を支えるか細い茎を、船先が左右にかきわけて進む。水面から伸びた蓮花が揺らめいて、横を通り過ぎていく。
気づけば蓮池の中心に近づいて、私たちの船は蓮の花畑に囲われていた。手を伸ばせば届きそうな場所で蓮が咲いている。
体を伸ばして蓮を見ると、蓮葉が円形のステージとなって小さな雫が踊っていた。光のドレスを着飾って、二つの雫がくるりくるりと踊り回る。そして一つの水滴となり、舞台の終わりに頭を垂れて、水面へと消えた。
今度は淡桃色の蓮花に、黄色い妖精が顔を覗かせていた。花の上で寝そべって、私と目が合うと花の中に隠れてしまった。
手を伸ばしたら、妖精に触れられそう。けれど、ふとした拍子にバランスを崩して池に落ちてしまいそうだった。
妖精のイタズラに巻き込まれ、蓮の花に誘われて池に落ちる私を笑うのだろう。危ないことはしない方がいい。
伸ばしかけた手を引いて、椅子に座り直した。私達は蓮の花に囲われながら、船の進行に沿って、ゆったりと進み続ける。
遠くの景色は白い霧で隠されて、水平線に終わりが見えない。
どこまでも、永遠に、蓮の花が続いている。
迫るような霧が次第に濃くなると、手前に咲いていた蓮も見えづらくなっていく。
一瞬、深い霧が船を飲み込む。
すると、私の前に女の子が座っていた。
『おかーさん! すごい、すっごいキレイ!』
また幼い私だ。
その隣にお母さんが座って飛び出そうとする私の手を掴んでいた。二人とも煙みたいに輪郭が揺らいでいる。
お母さんは、無邪気に笑う私に困りながら、しっかりと幼い私の手を握る。
『危ないから座っていなさい、落ちるわよ』
低い、唸るような声質に、幼い私の動きが固まる。
『落ちたらどうするの、こっちに座りなさい』
握っていた左手を強く引いて、幼い私を座板に座らせた。
幼い私は顔が固まって、少しずつ唇を尖らすと、お母さんから顔をそらした。いじけて自分の太ももを指で描きはじめた。
『だって、キレイなお花が……』
『お花が綺麗でも、危ないことしちゃダメ』
『だって……おかあさんにあげたくて……』
幼い私は唇をへの字に曲げて、じっと下を見ていた。
成長した今なら、母の気持ちが分かる。
体が幼いくせに、無理やり手を伸ばして池に落ちてしまえば溺れて死ぬだろう。
心配してくれる母の気持ちを無視して、ワガママ言って困らせている。なんて幼稚なんだろう。見ていて恥ずかしい。
お母さんはそんな幼いワガママにも、優しく笑っていた。
幼い私の両手を包むように握って、真っ直ぐ目を向けていた。
『ありがとね静香。でもお母さん、危ないことはしないでほしいなぁ』
ちゃんと私の目を見ようと、お母さんは顔を向けているのに、当の本人は下を見たまま、お母さんと目を合わせようとしない。
口を尖らせたまま拗ねている。
『…………おかあさんなんかきらい』
それだけ言って、幼い私とお母さんは煙となって消えた。




