お腹が空いたらトイレで食べてね
下ネタです。ごめんなさい。
お菓子の袋を片手に、その先輩は軽い足取りで女子トイレへと向かった。
私はパチパチと瞬きし、ただただ唖然とその場で立ち尽くす。
そして先輩はそのまま三時間、デスクに戻ることはなかった。
当時、新入社員だった私は、間もなく退職するその先輩から業務を引き継ぐことになっていた。配属早々にそんな特大のミッションを授かり、毎日白目を剥きながら仕事をしていたのが懐かしい。
「先輩! 〇〇先輩が戻ってこなくて仕事が全然分かりません!!」
もはや朝の挨拶レベルで定着してしまった、私の毎日の叫びである。
当時の私は入社したてで、社内システムの承認を得ていなかった。つまり、先輩という「キーパーソン」が不在の瞬間、私はPCの前でただ呼吸をするだけの「置物」へと成り果てるのだ。
何もできず、ただじっと座って時が過ぎるのを待つ日々。
これは、衛生観念をどこかに置き忘れてきた能天気先輩と、キーパーソンを失った置物による、嵐のような一ヶ月の記録である。
*
「これはね。捨てるんだよ」
「………」
たった今、印刷したばかりの企業秘密満載の書類が、まるで秋の落ち葉のように次々と資源ごみへと変貌していく。
(いや、せめてシュレッダーで裁断したほうが……!)
そう思っても問答無用で機密書類をボカスカ捨てていく先輩の隣で、「たった今印刷したばかりなのに捨てていいのか?」と猛烈な不安が渦巻く。
だが、ぺーぺーの自分が経験豊富な先輩を前に、面と向かって言えるはずもなく、「捨てる書類だと、どう判断しているんですか?」と、直接的だが合理的な言い回しで尋ねるのが精一杯だった。
「ん? うん、分かんないから」
お前が分かんないからかーい!!
心の中で盛大に響き渡ったツッコミを、喉の奥へ全力でグッと押し込む。
躊躇なく闇に葬られていく機密書類を眺めながら、なぜか腹の奥が痒くなってきた。
──そしてそれから数週間後、フラグとは一瞬で回収された。
先輩が退職する一週間前、ついに「あの書類がない」と社内が大パニックに陥った。
皆が一斉に先輩へと詰め寄ったのは、もはや言うまでもない。
「書類が、発行後から一切配布されていないようなのですが」
般若のような怖い顔でやってきたのは、書類を発行した担当者だった。自分の部署で授受管理のチェックリストを握りしめ、ベテラン社員と険しい顔で言い争いをしている。
私にも容赦なく飛び火し、必死に履歴を調べたが、どうあがいても「配布した記録がない=未発行」としか答えようがない。
何がなんだか分からず全員が頭を抱えていると、ちょうどそのタイミングで、悠々とトイレでのおやつタイムを終えた先輩が帰ってきた。
「この書類、どうしたんですか?」
私と同じように履歴を確認させると、先輩は涼しい顔で「受け取ってません」と即答した。
いや、待て。授受リストには確かに「受領」のサインが先輩の名前で書かれている。
それを見た瞬間、先輩は「ああ、あれね」とでも言うように言い放った。
「それは処理しませんでした」
「え? 何でですか?」
「だって、最新版が発行されてるから古いのは要らないじゃないですか」
「いやいやいや、いるよ! 超必要だよ!!」
「とりあえずそれはいいや。早く処理しないと。で、その書類はどうしたの?」
「捨てました」
「「「捨てたァ!?」」」
フロア全体の空気が、一瞬にして凍りついた。
「古い書類なんだから要らないじゃないですか」
と、先輩は微塵も悪びれる様子がない。
全員が限界まで呆れ返り、もはや怒る気力すら失った末、責任を取って「再発行の手続きをするように」と先輩に厳命した。そう、他でもない、犯人の先輩にだ。
だが……甘かった。
「再発行のやり方、分かんない。やっといて」
先輩は微動だにせず、平然と言い放った。
結局、途方に暮れながら私はベテラン社員たちに頭を下げ、私が裏でやり方を教わりながら対応することになった。
「……あれ? どうしてあなたがやってるの?」
「いや……先輩がやり方分からないって言うから……」
「はあ? ……あいつ、バカじゃねえの……」
「何で知らないの?」
私の善意と苦労は完全にスルーされ、周囲からはただただ哀れみの視線が向けられる始末だった。
しかし、当の本人である先輩はというと、
「あれは私たちのせいじゃないよね!」
と、どこまでも晴れやかな顔で責任を綺麗に大気圏外へ放り投げている。
(いや、そもそもガンガン書類をゴミ箱に捨てちゃうからでしょ!!)
最後まで喉まで出かかったそのツッコミを飲み込み、今日も私は遠い目でゴミ箱にダンクシューされていく書類を眺めるのであった。
*
やがて先輩は、晴れて会社を去っていった。
名目は華やかな「寿退職」であるのだが、恋人である男性とは「結婚はしない」そうだ。
聞けば、籍を入れるわけでもなく、ただ単に「同棲するために会社を辞める」のだという。
(……それ、「寿退職」って言わない)
このまっとうなツッコミが彼女の耳に届くことは、永遠にない。
そして後日、私の歓迎会が催された時に、他の先輩たちから彼女にまつわる香ばしいエピソードを次々と聞かされることになった。
「あいつさ、最初は自分のデスクで堂々と菓子を食ってたんだよ。パソコンや大事な書類を汚したら大変だから『自席で食べるのはやめて』って注意したんだ。そしたらさ……なんと、トイレで隠れて菓子を食うようになりやがったんだよ。同期に『席で食べてると怒られるから、トイレで食べてるんだ』って真顔で言ったらしいぜ」
(お腹すいたらトイレで食べてねって、そういう意味ですか、先輩……!)
要するに「自席でお菓子を食べてはいけない」という言葉を、「勤務中にお菓子を食べるな」ではなく、文字通りの意味として解釈したらしい。
それであの衛生観念が構築されたのだ。恐ろしいことこの上ない。
「それだけじゃないぞ。仕事中にしれっとネイル塗り直してんだぜ? 四十分以上もトイレに籠もってて、やっと出てきたと思ったら、爪の色が変わってんの」
「私なんか、先輩が弁当食いながら廊下を歩いてるしてるの目撃したことあるよ。マジのお弁当! お弁当箱片手に食べながら歩いてるの!」
「あと、何の連絡もなく会社に来ない日もあったよな。『どうしたんだ』って皆で大慌てで連絡しても電話に出なくて、いよいよヤバい事件に巻き込まれたんじゃないかって心配してた頃に、しれっと連絡よこしたんだよ。『寝坊した』って。で、『何で電話に出なかったんだ』って聞いたら、『寝坊してるんだから、寝てるに決まってるじゃん。出られるわけないでしょ』って返ってきた」
「………」
(……同棲するとか結婚するとか言ってたけど、この体たらくで、他人と共同生活ができると?)
そんな底知れない疑問と恐怖を残し、私の歓迎会はお開きとなった。
──それから半年ほど経った頃。
あの伝説の先輩は、案の定というか何というか、結婚するどころか同棲も早々に破綻し、実家へすごすごと舞い戻ったという風の噂を耳にしたのであった。
*
先輩が退職してからは、本当に怒涛の日々だった。
手当たり次第に重要書類をゴミ箱へダンクシュートしてくれたおかげで、社内のあちこちから「書類がない!」とクレームが殺到し、その火消しに走り回る毎日を送る羽目になったのだ。
この日も、そのクレーム対応に心身をすり減らしていた。
生きている以上、生理現象は避けられない。用を足しにトイレへと向かい、個室に入って便器に腰を下ろした。
──すると、すぐ隣の個室から、ただ事ではない激しい物音が聞こえてきた。
ズゴッ、ズゴッ、ズゴゴゴッ……!
(……え? 詰まった!?)
トイレの配管が盛大に爆発でも起こしたのかと思ったが、どうも違う。
息を殺して耳を澄ませてみると、その異様な音の正体が判明した。
紙パックのジュースを、ストローで激しく啜る音だ。
(おいおいおい……! トイレで飲食する奴がまだいるのかよ!!)
ガササッ、ゴソゴソ……! ジャーーー。
用を終えたらしい気配のあと、そそくさと足早に出ていこうとする慌ただしい足音が聞こえる。
私はただトイレの用を済ませるために来ているので、いつも通り用を足して水を流し、個室の扉を開けた。
洗面台の前で、一人の社員がしおらしく手を洗っていた。あまり仕事では関わったことのない人だった。
その隣で私も手を洗い始めると、相手は気まずそうに目を泳がせ、慌ててトイレから逃げ出していった。
(……トイレで飲食する衛生観念皆無人間は、一人じゃなかった……)
先輩は去った。
しかし、彼女が残していった「負の遺産」と「謎の隠れ家」は、今日も誰かに受け継がれ、静かに、そして確実に社内のトイレで息づいているのだった。




