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義輪久留美は御鏡市にある精肉店でアルバイトをしながらそこからほど近くの美容専門学校に通っている。隣町の市営団地に母と祖母の女三人暮らしとなったのは義輪が中学一年の終業式頃に両親が離婚をして母子家庭となったためだ。
家庭環境のこともあってか、義輪はお世辞にも勉強の出来る優秀な生徒だとは言い難かったがそれでも中学生としては世間を落ち着いた物腰で見てとれる子供だったため両親の離婚に関しては特に反対をすることもなく二人だけで決めさせるに至った。
離婚の原因は義輪には伝えられていなかったしそれを聞く気は義輪には無かった。ただ義輪は母にとってはこれが最も良い結果であったと内心信じ、ほっとしている。
義輪の母はどちらかといえば心が幼く弱さのある人だったから精神的にほんの少し義輪自身が気持ちを肩代わりすれば学生時代は何事もない様に過ごせる。そう思っていた。
両親の離婚を後押ししたのは母方の祖母が当時一人暮らしだったことと母がテレビで見た近頃に流行った、芸能人の今後の人生を占い師が鑑定する番組で「男の子のいる家庭には父親の存在が無くてはならない」と言っていたことで義輪は女の子だから母と祖母がいれば大丈夫だ、と義輪の母が一人勝手に思い込んだからだ。
中学二年の始業式、義輪は慣れ親しんでいた地元を離れ御鏡市の隣町にやって来た。不幸中の幸いだったのが離婚を決めた義輪一家が幾つか送った市営団地の応募の一つが抽選を通ったことで春前にはそこに住居が定まっていたということだった。
中学二年になった義輪が新しく通う学校では、クラス替えのタイミングも相成って転校を隔てても周りから浮くことなく新しい学校生活に馴染むことが出来ていた、かのように見えたが。
それは表向きの事で本当はほんの少し周りとのズレをいつも何処かで感じていて、そしてそれは義輪が自分自身一番よく理解していることだった。
義輪は自分が母子家庭であるということは取り分けて公にすることはなかったが、そういった周囲とのごく僅かな違いがこれほど子供の自分に葛藤を生み、また負担になるとは考えが及ばなかった。
だからなのだろうか、自分の周りを取り巻く友人達は自然とどこかその心にわだかまりを抱いているような、そんな気質の仲間が募っていた。
義輪はいつの間にかその輪の中でも中心に居て、しっかりとした一人っ子がいつからか板に付いていたのであろう。自分の周りに寄ってくる友人達が自分にその存在意義の確認を求め、そして頼ってきているのだという事を肌で感じ取れたのだ。
だからそういった友人達を跳ね退けることは決して義輪には無かった。何しろ自分と同じような幻影が一人一人に重ねて見えている。その頃から義輪には解っているのだ。青春の頃の迷いや葛藤と云うのはそれが過ぎ去った後、決して一人だけで解決をしてきたわけではないのだと気づいてしまうことに。
同じクラスだったアイツも自分に近いものを抱えているのだということは義輪にも感じとれていたが、アイツはいつも一人でいることを望んでいた。
アイツが周囲に対して常に放っている近寄り難い雰囲気というのは他人や社会に対する怒りや憎悪などというよりは、寧ろ感度の高い強烈な疑問なのだ。そう義輪には思えて仕方が無かった。
初めてアイツを知ったのは転校してから二週間ほど経ってのことだった。アイツは始業式から顔を出さなかったし担任教師はアイツの欠席を当たり前のように捉えていたから義輪は同じクラスに居てアイツの存在をそれまで知りもしなかった。
初見でアイツを見た時の義輪の感想は間違いなく不良生徒。学生服をだらしなく着こなし校則違反のやや長い頭髪に加えて、何しろ目が死んだ魚の様であった。
義輪とアイツの接点はそれまで無かった。だがアイツの不良学生たる所以を教師側がこぞって「アイツは出来の悪い生徒だから他の生徒は気を付けなさい」といった一方的な煽りをもって周囲の認識を膨張させていたように義輪には思えている。
人一人を踏み台にすることによって他の人間のバランスを保とうとしている。しかもその方法でしか組織体をコントロールする術を知らない大人が少なからずいるのだ。
義輪のこの考えは、多分アイツが日々感じている事と、きっと同じだろう。
そういった大人達が作り出した伝染がしばしば他校の生徒にまで影響を与えたようでアイツは時折、学校の外で不祥事を起こすことがあった。
他人を信用していない、というのは誰が見ても明らかであったがそれはアイツにだけ限ったことではない。
またアイツは口数も少なかった。その学校生活というのは、ただひたすら時間が過ぎ行くのを待っているかのような、そんなふうに義輪の目には見えた。
──中学二年の夏。
修学旅行は関東圏内では定番の京都となった。班行動は男女が合わせて六名が一班。
義輪の班の中にアイツがいた。
当初、クラスの誰もがアイツは修学旅行には参加しないだろうと思っていた。が、頭の固い懐古主義の一教師が「修学旅行はクラス全員が参加するものだ。お前一人のせいで皆が嫌な思いをしている」と身勝手にアイツを修学旅行に出席させるに至った。
その教師の言葉をアイツがどう捉えたのかは解らない。ただ一つはっきりとしていた事とは、その言葉には教員としての体裁しか考えていなかったということ。
目上意識。年功序列というのは年と功が在って初めて序列されている。正しく使われなければそれは、ただのコンプレックスと同じことだろう。
アイツは反抗しなかった。
当日、新幹線での移動の時でさえ一人変わり逝く窓の外を眺め、意識の高揚している様など微塵もアイツからは感じ取れなかった。
義輪はアイツのことが気掛かりだった。
初日の団体行動で金閣寺、清水寺の後に銀閣寺を回る。金箔に貼り尽くされた金閣寺の後に見る銀閣寺では心なしか生徒の関心も薄れているのが解る。
東山慈照寺は通称を銀閣寺。一四八二年に足利義正が祖父である義満の造営した金閣寺にならって建立。銀閣寺と言うからには銀箔を貼る予定もあったのではないかとされることもあるが建物や庭園の造りの質の高さからするに、そういった説はやはり無かったのだという見方が強い。
銀閣寺の庭園を前にして義輪はアイツに話しかけてみることにした。
「楽しくなさそうだね」
義輪がアイツにそう言うと「別に」と予想しえた簡素な返答が返ってきた。
庭園の池から舞うしっとりとした空気と湿度、そして水の流れる音が夏の暑さには心地良い。
祖母から聞いていた銀閣寺にまつわる話し。
「銀閣寺が銀色に輝く瞬間があるっていう話し、知ってる?」
「いや…?」とアイツの返事は相変わらず淡白だったが思いのほか感心があったようである。ただじっと池の向こうの銀閣寺を見据えるアイツ。義輪の次の言葉を待っている。
「夜、よく晴れていて月が見える日にね、月光が庭園の池に反射して銀閣寺を銀色に染めるんだって」
慈しみを照らす。
揺れる水面に映る銀閣寺はどこか物憂げに、夜光を待ちて銀色に輝く観音殿とは、果たして足利義正の思惑による設計なのだろうか。
真実は真夏の夜の夢に。
学年一同が宿泊先のホテルに戻ったのは午後四時過ぎだった。そこから生徒が入れ替わりで大浴場に入った後で全生徒が和室宴会場に集まりその日の夕食となる。
それから胃が満腹感で満たされれば今日という日が本当に短いものだったと、義輪も周りの生徒と同様に同じ気持であった。
クラス別でキャンプファイヤーを行った後の就寝時間が午後九時というのは今時の子供達にとってはまだ寝るには早い時間帯であろう。小一時間前には枕投げやら他クラスの生徒の部屋に上がり込むなど修学旅行にして当たり前の催しに生徒達は個々に教師側から注意を促されたばかりだが。
二班一部屋の割り振りは男女がそれぞれ各階層に別れた。義輪の寝泊りする部屋でも少女達は布団に潜るなりひそひそと話しを始める。
恋話というやつ。年頃だというのに義輪はどうにもこの手の話しは苦手だった。
実は転校して来てからまだ半年も経っていないというのに別のクラスの男子生徒から密かに告白を受けたり、そういった類の手紙を貰ったなんてことが片手で数えられるぐらい義輪にはあったが、口が裂けても周りの友人達には言えないと思った。手紙の方は後で少なからず特に親しい友人にはバレていた。
とはいえ適当な相槌をうっていればそれだけで他の女の子は勝手な勘違いをしてくれるのだが。都合はそれほど悪くはない。
「久留美ちゃん、本当は誰か付き合ってる人いるんでしょ?」
「だからそんな人いないって。私のことより貴方達はどうなのよ」
「あー、話し逸らそうとしてる!絶対怪しいんだ」
思春期の他の少女達にとっては真剣な話しなのであろう。自分が苦手だとしても彼女達が寝付くまで義輪はほどほどに付き合った。
──真夜中に、
だがどうにも目が冴えてしまったようである。
部屋に差し込む月明かりが鈴虫の音色に合わせて揺らめくかの様、青く白くその陰影を刻む。
綺麗な満月の夜だった。
月に誘われるよう義輪は部屋ごとに備え付けられている小さなテラスに降り、そして夜風に煽られてみる。
その心地よさは返って義輪の目を覚まさせてしまった。仕方なしに折角の夏の夜風を堪能しようと義輪はテラスの縁に上半身を乗り出した。すると直ぐ下のテラスに自分と同じようにして風と戯れている生徒の姿があった。
アイツだ。
気づいてしまった以上こんな所で無視を決め込むのも気が引けるので義輪はアイツに話し掛けてみることにした。
「寝付けないの?」
聞こえていないはずはなかった、が義輪の質問に対する返答は返ってこない。何を考えているのか、けれど恐らくアイツの周りには常に否定的な観念が取り巻いている。義輪にはそれだけが感じ取れていた。
この修学旅行において同じ班、同じ時間を共有していながら楽しそうな表情など一切見せないアイツを義輪はどうにも放ってはおけなかった。
「夜の銀閣寺、見たかったな」
まるで独り言の様に言ってみせた。アイツに話しかけてみたところでどうせ、まともな返事など返ってきはしない。
そう義輪は思ったのだが、
「見に行けばいい」
アイツは静かに言った。
「何言ってるのよ、京都の建物って夕方五時には閉館しているんだよ?それにホテルは先生達が見回ってて表に出られないわよ」
当たり前のことの様に義輪は反論してみせた。だがアイツは決して義輪の方を見ようとはせずただ「出られるよ」と呟いた。
「え?」
「行ってみるか?」
「でも、勝手にホテル抜け出したりしたら…マズいよ」
義輪が言うとアイツは夜空に浮かぶ満月を一度仰いでみせると「真実を知ろうとしない方がおかしい」と強い口調で言った。
対抗心というものには陰性のものと陽性のものがある。自らの立場やプライドや利益を守る為に他者や社会の介入、また別の価値観を許さないという事が必ずしも悪徳だとは言い切れない。が、それ故に「偽りに対する真実」としての反発を判断することは成熟した大人でさえ難しい。
情操教育の成長過程の中でどれほどの大人達が真に「大人」であり、子供はその大人に巡り逢うことが出来るのだろう。
いつも何事に対しても反発している様に見えるアイツの本当は、いつも何事に対しても真剣なのであると。
だから義輪は真実というものが何であるのかをその目で確かめてみるべきだ。そう思った。
「どうやって行くの?」
義輪が聞く。
「私服持ってきてたら着替えて待ってろ、迎えに行くから部屋の鍵は開けとけよ」
そう言ってアイツは自分の班が宿泊する部屋の中へと戻っていった。
義輪は控えに持ってきていた私服を取り出し同じ部屋の生徒を起こさないように静かに着替えを済ませた。夏だから夜とはいえそう着込むこともなく支度は手早かった。
それから数分しないうちにやって来たアイツは黒いTシャツに学生服のスラックスという上下を黒に統一させた格好で現れた。
ゆっくり扉を開けて静かに人差し指を唇の前に立てる仕草をする。
物音を立てるな、ということなのだろう。
オートロック式になっている扉の鍵の内側に何か詰め物をするアイツ。後で義輪が部屋の中に戻れるようにしてくれているのか。アイツの手つきの良さに、義輪は少しだけぎょっとした。
そして勝手に歩き出すアイツの後を追ってホテルの二階にまで辿り着いた。この下の下り階段には教師達が交代で生徒を見張っている為、ホテルのロビーまでは出られそうにない。
義輪を連れてアイツが向かった先は二階にあるホテルの休憩室だった。
室内にはジュースや煙草の自動販売機が設置してありそれ以外には卓球台や義輪にはよく解らなかったが、かなり旧式なのであろうかというアーケードゲームの筐体などが置いてあった。
室内は二人以外には誰もいない、アイツは休憩室の窓を開けるなり、
外へ飛び降りた。
「ちょっと、待ってよ!」
流石にびっくりした義輪が慌てて窓際に駆け寄って下を覗き込むと、どうやら足が着く場所のようだった。
「静かにしろよ」
「だって、急に飛び出すから」
やれやれと鼻で溜め息をつくアイツ。義輪は少しだけ「むうっ」とふくれてみせたがアイツはまるで相手にもせず、
「早くしろ」
と一言。
もういいわよ、と義輪も窓の外に身を乗り出した。そこはホテルの庭園を通る渡り廊下の屋根だった。丁度ロビーの裏手になっていて人工的に作られた林が本館からの目隠しになり確かに見張りの教員には気づかれる心配は無さそうであったが。
高さで腰が引けた。
屋根の上で義輪が動けずその場に往生していると先に行ったアイツが後ろへ引き返してきた
「大丈夫か?」
どきりとした。
アイツの顔がいつもよりずっと近くにあってその肩を抱かれた。
旅館街から僅かに聞こえる宴会の遠い喧噪、それ以外で周りから聞こえてくるのは夜風に煽られる微かな夏の緑と鈴虫の音色。
一瞬、が止まったかの様に錯覚した義輪はこの戸惑いをアイツに悟られぬよう、ただ黙って頷いてみせた。
だが不思議と、その後は高さが怖くなくなっていたのである。そのまま前を行くアイツを追って着いて逝くと、渡り廊下の屋根を被るようにして幹の曲がった木を伝いやっと地面へ降りることが出来た。
「何でこんな抜け道知ってるのよ」
声を小さくして義輪が聞く。
「ああ、通るときに女湯が見えたろう」
「え…それって、まさか…」
「夕飯前にクラスの男子どもが使ってたからな」
さらりと言う。
戻ったら先生達に言っておかなくちゃね。義輪は思った。
二人がホテルの庭園を半周した先は業務用の駐車場だった。隅の方には従業員用の荷台の付いた自転車が数台停めてある。
アイツはその中の一台を物色し前輪に掛かっている鍵を何かを使って器用に開錠すると義輪に「乗れよ」と視線をくれた。
「どうやってそんなの開けてるの!?」
「あー、ビニール傘に付いてる『アレ』知らねーの?」
「知らないわよ、そもそも勝手に使っていいのかな…」
「少し借りるだけだ、問題無い」
相変わらずの態度でぶっきらぼうな言葉しか選べないアイツが自転車に跨りその後ろの荷台に座る義輪。
──満月の夜を颯爽と、
今、傍から見たら二人は恋人同士に見えるのかしら。京都駅近くまで出てきたところで思わず、そんな事を考えてしまっていた。
恋人ですって?
自分のアイツに対するこの感情に義輪自身、思いがけず焦る。一人で身勝手に気まずさを感じてか、アイツが自転車を漕いでいる間、二人の会話はまるで無かった。
それはだが、何か二人ともに『探しもの』に必死になっているかのような、そんな感覚に似ていたのである。
駅から更に北東の方角に向って快速に自転車をとばす。綺麗に作り込まれた京都という街はかえって逝く者を道に迷わせそうな感じだ。だがアイツは地図を見るわけでもなく、躊躇わず前へと進んで行く。
平安神宮の敷地を過ぎる。艶やかな朱色の楼門は明日に控える団体行動で拝めるだろう。時期外れの花菖蒲は未だ咲いているのか。そして銀閣寺までは後どれぐらいなのであろう。
景色は目まぐるしく、
京都の修学旅行初日に最初のうちに金閣寺を訪れるのは金閣寺という場所が京都の他の観光名所が密集している場所から少し離れているためだ。
それ故、ほぼ同時期に京都へ訪れる関東の学校は団体行動の一番最後に金閣寺を見学する。各学校毎に、他校とは修学時間をずらし混雑を避けるようお互い金閣寺は最初に回るか最後に回るかという談合を行うしきたりがある。
銀閣寺や清水寺なら、まだ京都駅から自転車ででも迎える範囲だろうとアイツは判断したのだろう。
だが、そうやって様々な名所を回ったとはいえ観光バスの中からでは義輪にはこの土地の方向感覚は特に身についてはいない。
特に京都という街にはオカルト混じりの不思議な感覚さえを受ける。しかしアイツにはバスの中からでも外の環境、街の造りが良く視えていたのだ。普段周りに介入せず他人を寄せ付けないアイツは逆に物事に対してシビアに、そして客観的に理解をしている。
視過ぎている、というぐらいに。
やがて哲学の道なる有名な遊歩道を跨ぐと銀閣寺の気配はもう直ぐそこまで来ていた。敷地の中に入れないことは前提だったからアイツは義輪を自転車の後ろに乗せたまま、辺りを大きく一回りする。
月明かりの溜まる場所に。
それが短い夏の夜に見た二人の真実だった。




