─8─
暇だ。
朝一番の配達を済ませてから昼休憩を取った後はこれといって大きな仕事が無かった。
「手が余っている時の仕事は清掃」
それがアルバイトの基本なのだと昔、玉置や社長にしつこく教えられたものだ。
何処をやろうかと上谷が考えあぐねていると玉置が「暇ならプレハブ小屋でも片付す?」と家庭用オーディオをメンテナンスする手を休めず上谷に言った。
その言葉通りに促されて上谷は今、プレハブ小屋もとい休憩室兼工具資材置き場の前にいる。実際、室内が散らかっているわけではないが、各々が余裕を持って仕事を行い使用した工具類は元の位置に間違いなく戻している。
なんてことは日々無い。
だから今からそれを社員が使い易い形に戻す。簡単な作業だが結構な時間潰しにはなるだろう。
無造作にプレハブ小屋の引き戸を上谷が明けると中では三栄の社長が他の社員よりも少し遅い昼休憩を取っていた。
「お、上谷君か。どうかした?」
「すみません、室内を片付けようと思ったんですが、社長の休憩の後にします」
プレハブ小屋を出ようとその引き戸に手をかける上谷に「私は大丈夫だから、やりなさい」と社長が気兼ねなく言う。従業員全員が休憩を回ってから一番店が閑散とする時間に社長は自分の休憩を取る。普段は穏やかでいてこういった場面では案外自身にストイックなのだ。
この店で社長に対抗心を露わにする従業員など上谷の知る限りでは、今のところ一人だっていない。
人徳ってやつは本当に在るのかなと、これまで上谷は社長を見ていて思うところがあったのだが、どうもそれは自分の一方的な差別も混ざっているのかもしれない。
プレハブ内に構えている居間のちゃぶ台に上谷が視線を落とす。
「部下のやる気を出させる本」
そんなストレートなタイトルが付いた一冊が置かれてあった。恐らく社長が昼休憩の間に読んでいたものだろう。
日々深慮欠くことなく経営哲学の勉強というところか。こういった有職業者向けの倫理を唱えた本の類は上谷にはまだ手にとって読んだ覚えがない。
社長が上谷の目線に気付いて「ああ、これかい?」と声をかける。それから少し照れくさそうにして見せた。
「バイトには高校生とか若い子も多いからね。私も他人の心を少しは読み取れる様に多くを理解しておこうと思っているよ」
なるほど、と上谷が感心して頷く。
「僕は、社長は特に人徳がある人柄なんだなと思っていましたけど。それはこういったところから出ているんですかね?」
上谷がその本に目配せする。社長が少し喉を低く鳴らした貫禄のある笑いをすると「さあ、どうだろうね」と言って続けた。
「本当の意味での人徳が私に在るのなら、それは確かに嬉しいね」
抽象的なものの言い方に上谷が反応する。
「それはどういう意味なんですか?」
ふむ、と社長が少し間を置き「この本に書いてあったよ」と、自身で読んだ内容を思い出しながら頁をめくっていく。
「そう、ここだ。上谷君『集合的無意識』って解るかい?」
思い当たった頁で手を止めた社長が言う。いまいち聞き慣れない単語に「いえ」と上谷は少々訝しむ。
「この内容によると人間は個々が元々何かしらの資質を潜在的に持ち合わせている、という事らしいんだ」
「資質ですか?」
「さっき君が人徳って言ったろ?そういった感じはさ、人間は育った環境や教育には関係無く、でも普遍的に共通の無意識を全員が持っているそうだよ」
「それが集合的無意識ですか?」
環境に関係無く普遍的にして共通?そんなまさかと思った。
「そう、ここに多少細かく書いてあるんだがね、まあ私なりに解釈をすると、人間が相手や環境に対して元々持っている先天的なイメージそのものなんだろうね。要するに『こんなっぽい』という事で、それが自分自身にも適応されているんだろう」
「随分と大雑把なんですね、それ」
「でもそれが資質となり得るのさ。みんなが共通して私のことを『あの人は人徳が有るっぽい』という視点で見てくれるのなら、それは私にとっては都合の良いことだよ」
何かしら外的な要素に帰結しているからなんじゃないのか?とも上谷は思うが、昼休憩の時に玉置が言っていた三大意識との話しとも妙に重なる。
人間が判断を決定する際に使う倫理とは自我と外向的な無意識と、そしてこの集合的無意識なのであろうか。
辻褄は合う。
「大学でそういった事を勉強している知り合いの子がいますよ」
明智のことだ。
「ほう、彼女かい?」
ぎくりとした。社長は事も無げに言うので上谷は少々困った様子で「いえ、違いますけど」と歯切れの悪い返事を返した。
「心理学部の子なんですけど、何で女の子だと思うんです?」
上谷が問う。社長は「確かに男の子なのかもしれなかったなあ」と冗談めかして言ってはいるが、何やらその言葉には確信に満ちているようである。
「知り合いの子って君が言うからさ。上谷君の感じでそういう言い方をするからには、その子は女の子なのかなと、私が勝手に思っただけだよ。それにほら、君ってずっと大学で彼女がいたんだろうなって思っててさ、此処じゃ北条君にも…」
「?」
「あー、いや、今のは私が言うことじゃなかった」
社長は繋げる。
「上谷君は数学科だったろ?別の学部でやっているような勉強の話しが交換しあえる子なら、その子と上谷君は親しい仲なのかなと想像してしまったのさ」
言われている内容は大分曖昧な情報ばかりで構成されているようにも伺えるが、上谷には少々思うところもある。
それが社長の自分自身に感じている『上谷っぽい』なのであろうか?なかなかに侮り難い。そしてもう一つ、社長は何かを感じ取っていたようであった
「なるほど、気になる子なわけだね?」
上谷はプレハブ小屋を片付けるのはまた今度にしよう、とそう思った。
久しぶりでの早番出勤したアルバイトは波のある作業量も相まって時間が過ぎてゆくのを体感的に長く感じた。ただでさえ男手は力仕事がメインになるので普段運動をしていないツケというものが時間を過ぎた今頃になって身体の節々にだるさで現れる。
ふと仕事場の壁掛け時計に目をやると時刻は午後四時半を指していた。一応、上谷は自ら手持ちの携帯電話でも時間を確かめる。
だから携帯のSNSに着信があることに今気がついた。仕事中が忙しくて気が付かなかったが大分前に着信していたらしい。明智からのものであった。
「終わる頃に上谷君のバイト先に迎えにいくよ」
文面に戸惑って辺りを見回すと既に日用雑貨売り場に明智の姿があった。仕事をしている様を仕事場以外の知り合いに見られる事は上谷としては少々気恥ずかしい感があるわけである。
その明智を遠巻きに気にしていると余計な男が上谷に絡んでくるのだ。
「お、上谷。お目が高いな、お前もあの子が気になったのか」
まるでタイミングを計っているかのように現れる玉置を全くもって厄介な男だなと内心思った。そのせいもあって上谷が明智に見つかるのはそれから間が無かった。
気付いた明智が、少し距離のあるところから上谷に向かって小さく手を振る。
「おお、上谷君。これは我々、脈アリなのではないか?」
「いや、無いと思うけど」
「お前の目は節穴か。今こっちに向かって好意的に手を振ったじゃないか」
「あの子、大学のサークルの知り合いなんだ」
上谷の一言に「あ、そうなの?」と間抜けた返事をする玉置。皮肉混じりに鼻で溜め息をつく上谷にも、だが玉置は直ぐにめげる様子は無かった。
「よし上谷。紹介しろ」
「嫌だよ」
大げさにおどけて見せた玉置は「はいはい」と諦めましたという素振りをした。それから上谷と明智を交互に見やって直ぐに何かを感じ取った様子である。
「ふーん、それでよくサークルの知り合いからの連絡は気にするのね」
「何だよ、そんなんじゃないって」
思わず声が裏返って答える上谷の対応に玉置が低く喉を鳴らして苦笑する。この男、何しろ感が鋭い。
珍しく玉置が上谷の上げ足を取ってからかっていると遅番のアルバイト勢が出勤を始める時間帯が間もなく迫ってきていたようだ。
「おはようございまーす。二人で何の話しをしているんですか?」
まだ学校指定のブレザー服のままの北条が上谷と玉置に出勤一番で声をかけてきた。ぎょっとしたのは玉置の方で「いや、何でもないよ愛理ちゃん」と何かよそよそしそうに、いつも通りを取り繕う。
「また二人で私のことをのけ者にしているんでしょ」
「そんな事ないって、なあ上谷」
話しを振られた上谷は素直に「僕の大学のサークル仲間が店に来ているって話しをしていただけなんだ」と言う。勿論、上谷の発言に他意等は無い。だが玉置は北条の後ろから上谷に向かって「馬鹿」と声を出さずに上谷を罵った。
しかし上谷には何故自分が玉置に罵倒されているのかが理解出来ないのである。
「え、どの人?」
既に北条の方は興味津々といった様子だ。
「お前なぁ、それ良くないよ」
「?」
玉置の心配もよそに上谷は北条に明智の方を目線で指し示してみせていた。
上谷達のそんなやり取りには明智は気づいていない。日用雑貨売り場にあるがらくたの商品が珍しいのか、それらを手に取ってまじまじと眺めたりひっくり返したりしている。北条は明智を遠くから訝しげに観察するなり少々むうっとふくれた様なご機嫌斜めな雰囲気である。
それをいち早く感知した玉置は即座に場を仕切ってみせた。
「はい、もう雑談は終わりにしようぜ。愛理ちゃん早く制服着替えてきな。上谷も、もう直ぐバイト上がりだからってサボらない」
「何だよ、君から絡んできたくせに」
「むー」とふくれっ面の北条だ。
反発しようとする二人の尻を軽く叩く玉置。
「やだあ!セクハラ番長!」
喚き立てる北条に「いいから行け」とやや強引な勢いで玉置は二人をその場から追い払う。納得しない様子で散る二人の後ろ姿を見て玉置はやれやれと頭を掻き毟った。
それから程なくして早番と遅番が仕事の引き継ぎを済ませてバイトが一斉に入れ替わる時間となった。上谷は明智を外に連れ出すために手早く支度を整える。
「ごめん、待たせた」
「ううん、勝手に来ちゃたから」
アルバイトを上がった上谷は決まりの悪そうに明智に寄る。そんな上谷の態度に明智は何だか意地の悪そうな子供の様に笑っていた。
二人で店を出ると産業道路を少し離れた所まで来る。勤務中での緊張の糸がこの辺りで解けるのが上谷の普段のリズムなのだが、今日は明智に作業ぶりを見られていたせいか、いつになく自分の今日の勤務態度は不味くはなかっただろうかなどと頭の中で反復していた。
「いつ来てたの?」
上谷が聞く。明智は「んー」としてから午後四時半ぐらいだったかな、と言った。上谷が明智に気がついたのが丁度その頃か。明智には今の上谷の困った様な参った様な表情を見ているのが楽しくて仕方がない、といった感じである。
「知り合いに仕事を見られているとやりにくいからさ。頼むからあまりバイト先に顔を出さないでよ」
少し明智を牽制してみる。
自らの生活空間がこの奇妙な恥辱心でかき乱される発想をするのは、上谷がこと明智に関しては恰好悪い様を彼女だけには見られたくないという感情が意外にも柄に無くあるせいだ。
ところが上谷の内心もよそに、明智とくればマイペースな様子である。
「私ねえ、少しお腹すいた」
内なる本質をいつの頃からか恐れるようになった上谷には明智が特に眩しく見える瞬間がある。この子ならば少しは自分の抱える葛藤を和らげてくれるのかもしれない。
そんな事を思った。
駅ビルの一階フロアには軽い飲食店が立ち並んでいる。実は上谷自身、仕事を上がった後で少々小腹が空いていたから間食をするのも丁度良いかなと思っていたところだ。
ただ上谷は胃に何か入れればそれで良いという習慣が身体に根付いているので、何を食べたいかというのを普段からよく決めていない。ここは明智の食べたい物に任せることにした。
「何にしようか?」
上谷が聞く。ところが明智はもう決めていましたといった表情をしていた「あれ」と言って目線を送った先にあるテナント。
たこ焼き店だった。
てっきり上谷は明智がスィーツ辺りを選ぶものかと身構えていたのだが、意外である。
二人が店内に入ると応対良く小さな二人用のテーブル席に案内された。そういえば上谷は久しくたこ焼きなんて食べた記憶が無い。そのせいもあってか青のりとか入っていたら女の子は気にするのかな?などと後から考えてみたが、まあ明智ならそんなことは気にもしないのかもしれない。
二人の席にたこ焼きが届くなり香ばしく漂う香りが二人の鼻をつく。それを前にして満面の笑みの明智が自分よりも先に箸を着けるのを待つ。
実に美味しそうにたこ焼きを頬張る明智を見て上谷が少しどきりとする。
「どうしたの?食べなよ、上谷君のおごりなんだから」
「あー、うん、そうだね」
しどろもどろな相槌になってしまった上谷も一つ箸で摘むと一度小皿にそれを避け、口に運んだ。
振りかけられた鰹節がたこ焼きの熱に踊り香ばしい香りを漂わせる。外側はかりっとしていて中はとろっと関西風に仕上がっておりメインのたこは大入りとなっている。
これは正に合格点。
「うん、美味いね」
久しぶりの食べ物は大概何でも美味く感じるものであるが、それ以前に上谷の場合一人暮らしのせいもあってか、まともな食生活を維持しているとは到底言い難い。
だからこういったちょっとの至福の瞬間にはいつもどこか新鮮味がある。
ふと明智が箸を休め「本当はね…」と上谷に話しを始めた。
「私ちょっと用事が出来ちゃって、今日は顔見せに来ただけなんだ」
「今日は大学には行かないの?」
「もしかしたら後二日か三日ぐらい。上谷君には悪いかなって思ったんだけど、今日の午前中で私の方は終わりにしちゃった」
明智は絵を描くことには慣れているから自分より早く作品が仕上がってしまうのは仕方の無い事だ。と上谷は頭では理解しつつも、先を行かれて内心少しばかり切ない。
明智の描く油絵。
それは眼鏡をかけていない上谷の肖像画。
そういえば今日の午前中に配達に赴いた時のこと、精肉店の見知らぬバイトの子に言われた言葉を思い出した。
──眼鏡なんてかけてるから一目で解らなかったよ。
明智が上谷を裸眼で描いたのは何故だろうか?
それとも、やはりあれは何か作品としてのセンスとか修練を積んだ者の表現すべき何か?
この際だから本人に聞いてみることにしよう。
そう思った。
「明智、あのさ」
なるべくさり気無く、台詞を掻い摘んでみる。
「君の描いた僕には眼鏡描かなかったけど……何でかなって思って」
上谷がそう言うと明智は箸を置き、そしてその透き通った瞳で、じいっと上谷の目の奥を覗き込む。
思わず気恥ずかしくなり上谷が視線を逸らす。
「じゃあ上谷君は何で眼鏡をかけるの?」
「え?」
明智は一体何を言っているのだろう?何故そんな下らない質問をするのだろうか?
「何でって?視力が落ちてるからに決まってるじゃないか」
それ以外に理由なんてあるわけが無い。まさか芸能人が変装するわけじゃあるまいし。明智が何を言いたいのか、上谷にはまるで見当がつかない。
その胸に不思議と妙な憤りを感じる。
そんな上谷の心が読めているのか否か、明智はふっと優しく微笑むと、
右手で上谷の左手を握った。
「明智…?」
上谷の憤りは一瞬のことだったかの如く、今は逆に明智を意識して自身の脈が上がっていくのが身体で解る。明智の握っている手を通して自分の鼓動が彼女に伝わってしまうのではないのかと、心の焦りがより一層増すばかりである。
「知ってる上谷君?」
言って明智は握っている上谷の左手を自分の指に絡ませる。
「人間ってね、生きているうちで情報と呼ばれるものは凡そ八割を視力に頼っているんだって」
明智はどぎまぎしている上谷のその手を取ったまま、二人を挟んでいるテーブルの下に一緒に手を隠す。
「これ、解る?」
そこでやわらかであった明智の手が離れるや、上谷の左手にはその替わりに得体の知れない何やらを握らされた。
ねっとりとしていて気色が悪い。どうやら球体状のものらしかったが、それを握り込む勇気が上谷には少しなかった。
ふと、上谷の目の前にはテーブルに乗ったたこ焼きが目に映る。
ぎょっとして思わずテーブルの下からその手を抜き出すと、上谷の手の中には何やら珍妙なカラーボールが握らされていた。
「いや明智、何これ?」
「名前はわかんない」
「自分で持っといて解らないの?」
「でも壁に投げるとくっつくんだよ」
そういえば昔、こういった類のゲル状の子供玩具が流行ってそれらの枝分かれ玩具がいくつかあったような。握り込んでみると僅かに粘着質を感じるふにゃふにゃとした弾力でそのやわらかいシリコン樹脂の中に特殊な内溶液が仕込んである仕組みだ。流石にたこ焼きを握らされることはなかったか。
「何でこんな物を持ち歩いてるの?」
「さっき上谷君のバイト先で売ってたのを買ったの」
確かに思いだしてみれば、三栄の会計レジスターの前には下らない小物類のがらくたが山の様に沢山並んでいる。玉置いわく「上谷専用」と言ったやつだ。
だが当の上谷が陳列棚の中身をきっちりと把握しているわけでもなく、そのカラーボールにも当然のように全く見覚えはなかった。明智はそういった物の中からこれを見つけ出したのだろう。
面白いでしょ?といった表情の明智の笑顔に上谷が少しどきりとするが、敢えてこれを買う明智のセンスはどうかとも思った。
しかし明智の分析する感性の前にはもはや何を言っても無駄なのだろうと、その経験から上谷は直観している。
結局のところ上谷一人で絵を描くことになったというのは言葉通りで、部室に来てみれば学校は休日も出入りできるとはいえ冬休みが正式に近いこともあり、部室に人が訪れている気配はなかった。
何しろクリスマスも近く、若者は各々忙しい時期にもなるだろう。
明智はどうなのだろうか?何か用事があるのだとは言っていたが。
彼女に恋人がいる、としても当然不思議なことではない。今までそういった話しを明智にするのを何となく避けていたのは上谷自身あるし、上谷の知らない明智の男友達だって何人もいるだろう。
上谷の上着のポケットには行き場を無くしたあの珍妙なカラーボールが入っていた。
急に苛立ってそれを向いのホワイトボードに投げつけてみる。するとボールはホワイトボードに張り付くどころか、まるで潰れたトマトのように弾けてそこ一面を蛍光色に汚したのだった。
一人で掃除をするはめになった。
あまりの下らなさに上谷の癖である溜め息すら出てこなかった。絵画に使うガーゼでホワイトボードと床を拭ったが、ホワイトボードの方は何やらカラーボールの内溶液が浸透してしまったらしく盤面が既に変色してしまっている。
上谷はもはや、今日ここで絵を描く気には到底なれなかった。
部室を出ようとする上谷へ、明智の完成した肖像画がその視界に入る。
そして上谷は今まで気がつかなかったが、その絵の上谷がまるでダヴィンチのモナ・リザの様にほんの僅かに微笑みかけていて、だがそれはどこはかとなく悲しい。
何故、明智にはこの様な描写の絵が描けるのだろうか。そして自分に見る感情というものをどこから感じ取り表現するものの対象として決定しているのか。
上谷の描く明智の肖像画は未だその表情が描けていないままであった。




