表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/17

─6─

 玉置とは銭湯を出たところで直ぐに別れた上谷だったが、心の内に淀む妙な猜疑心に駆られアパートへの帰宅を急かされた。

 先刻のファミレスにて北条から進路の話題があった時、何故すんなり自分の母校の名が出てこなかったのだろう。

 御鏡市に通い出すようになったのは高校に進学してからで、隣町から電車通学をしていた筈だ。大学に入ってから始めた一人暮らしは確かに全てが規則正しい生活だとは言い切れないが、この程度の生活の乱れが原因で自分が痴呆性疾患の一種にでもかかっているとしたら、少々ぞっとしてしまう。

 上谷は今日は外で食事も風呂も済ませていたので自分のアパートに戻ってから直ぐ、探し物に取り掛かることにした。

 学校の卒業アルバム。

 小・中・高、どの時期のものでもいい。

 だがそれは、何処を捜しても見当たる気配はなかった。

 必要ないと思って実家に置いてきたのだろうか。やはりそのことについても記憶が無い。捜すのを諦めて、ふと顔を上げる。

「…あ、れ…?」

 こんな部屋に住んでたっけ?

 そう錯覚したのは自分の住んでいる部屋が何とも生活感を感じさせない無機質な模様の室内だったからだ。必要最低限まで断捨離(だんしゃり)されたワンルーム。

 まるで生活する『機能』そのものででしか作られていない。

 上谷は自分の目頭を摘まんでみる。

 と、眼鏡をかけていなかったのだ。

「……銭湯に、置き忘れた……」

 心なし長めに鼻で溜め息をつく上谷。眼鏡が無いことでいつもと視点が変わったから部屋が違って見えたのだな、と解釈する。

 それから上谷はもう寝ることにした。起きているのが何だか癪に思えたからである。

 銭湯にゆっくり浸かったせいであろう、あのとき湯船の中でほんの少し寝入ってしまったが、その睡魔の続きは何分もかかることはなかった。


 高い鉄格子に四方を閉鎖された不可思議な空間。

 ひどく居心地が悪い。

 立ちはだかるその格子の向こう側には、幾つかのコンクリートでできた正確な立方体の建築物が軒並みを連ねている。

 その窓枠から覗く人影が学生であると気がついたのは、彼らが揃って同じ柄の学生服に身を包んでいたからだ。授業を受け勉学に勤しむ彼らのその姿を彼方に感じた。

「むかつく」

 何処からか声がした。

「ウザい、むかつく」

 辺りを見渡してみる。けれどもそこはただ鉄格子に囲まれた、それだけの空間。

「ダルい、面倒くさい」

 格子の向こう側、その建物に目をやる。彼らは授業に集中しているのである。まさか到底、離れた向こう側からの声がこちらに届いているとは思えなかった。

 だとすれば、この声は?

「何で俺なんだ」

「俺は何も悪くはない」

 ネガティブで否定的な言葉ばかりがエスカレートしている。

「馬鹿じゃねえの」

「死ねばいいのに」

「俺は知らない、関係ない」

「お前がやればいい」

「どうでもいい」

 鼓膜を刺激するノイズ。チューニングの合わない壊れかけのラジオといえば、ずっと以前に有名な邦楽の歌詞の中で聞いた覚えがある。でも少年は時間が経てばいつか大人になるものであろう、と。

 本当に?

 ピーターパン症候群(シンドローム)は?

 あのピーターパンというおとぎ話は大人が読むには少々残酷で恐ろしくもあり、またどこか描写がリアルだ。

「みんなが僕から離れて大人になっていく。だから置いて行かれる僕はその腹癒せに、僕がフックを殺してやる」

 ピーターパンはネバーランドから出れないのではなく『出ようとしない』のだ。それを邪魔している感情とは「僕がネバーランドの隊長だ」という危険で浅はかな自尊心があるからだ。

 だから此処に居てはいけないと。

 耳がどうにかなってしまいそうだった。だがその鉄格子は越えてみようと思うにはあまりに、高かったから。

 この空間にいて聞こえてくる声とは、ただの一つしかないのに。


 アラームが鳴りはっとして目が覚めた。咄嗟に枕元にあった目覚まし時計を鷲掴みにした上谷は焦点のやや霞んだ瞳でその時刻を睨みつける。

 午前八時四十五分。

 いつもより大分遅い設定だ。昨日で今年の大学の授業を終了していた上谷の年始までにかけての新しい起床時間である。冬休みの期間中はほぼ隙間なく午前九時三十分での出勤から午後五時に上がるシフトをアルバイトで決めた為、この時間に起きることが望ましい。

 手早く着込む服装には必要最低限のセンスしかなく、いつもながら何となくモノクロームを基調とした色使いになってしまうのである。それから昨日失くした眼鏡のスペアを机の引き出しから取り出した。

 冬物のコートを羽織りバイト先へと向かう。足早に駅へ目指すサラリーマン達を後目に彼らとは反対の方向へ。今日から年始にかけて、上谷は朝に駅ビルの改札入り口を跨がない。

 だが夕方からは大学に足を運ばなければならなそうである。携帯には明智からのSNSが着信していた。

「おはよう、今日もサークルに顔出すよね?」

 上谷は直ぐにその返信を打ち返した。

「今日は五時までバイトがあるから、終わったらその後にいくよ」

 まもなく明智から「それじゃあ後でね」と簡単なスタンプを返信で貼り付けされる。それを確認してから上谷は自分の携帯電話を仕事用にマナーモードへと切り替えると、ディスカウントショップ三栄はもう目の前であった。

 朝は正面入り口のシャッターが下されていて裏手の搬入口の脇に付いている勝手口から中へと入る。

 そこに止めてあったトラックが真っ先に上谷の視界に入った。荷台に乗っていたのは横幅2(メートル)ぐらいの硝子(ガラス)貼りの、商業用の冷却ショーケースだ。

 と、そこへ朝から元気な男が一人やってくる。

「押忍!上谷」

 含みのある笑みを浮かべる玉置はどこか機嫌が良さそうに見えた。既に作業用のジャケットを着用しており、今から仕事のやる気は満々といった感じだ。

「どうかしたの?良い事でもあった?」

 上谷が聞くと「まあ、なんだ」と少し怪訝そうな顔つきをする玉置が続ける。

「朝から一緒に仕事をするのは久々だろ?」

「…?…あー、そうかも」

 それがどうかしたのか?という上谷の態度に「何が、って訳じゃないんだが…」と頭を搔き毟る玉置。

 近頃では朝から登校拒否しかけの小学生みたいに、成人有職業者が寝起きの悪いことを具にして午前中から不機嫌な顔をしている。挨拶も返さずにだ。本当は自身の精神が大人として成熟しきっておらず、日々を嫌々職場に生活依存している小さな心理的コンプレックスの現れだが。

 そういった人達が毎朝周囲に発している気持ちの悪さで職場の士気を下げ、常に空気の悪さを現場に持ち込み誰かに当てている。それよりは上谷の対応なんて、玉置からすればまだずっとましな方なのだろう。

 玉置の上谷の対する誠意のコミュニケーションだが、当の本人は理解に至っていないのである。

 気を取り直して軽快にトラックの荷台に飛び乗った玉置は積んであった硝子貼りの冷却ショーケースがしっかりとラッシングベルトで固定されている事を再確認する。

「コンプレッサー付いてるからな、なかなか重いんだぜ、これ?今から朝一で運ぶからな。硝子割るなよ?」

「ああ、解っているよ」

 解っている、というには少し曖昧な返事をした後で上谷は離れのプレハブ小屋に荷物を置き仕事の準備を整えた。

 開店作業は重量のある目玉商品を表へと出すので必ず男手がいる。それから床を清掃、これだけで凡そ三十分。それから午前十時の五分前には正社員、パート・アルバイトが出揃って朝礼をした。

 その後、上谷と玉置は荷物を積んだトラックへと乗り込んだ。

「御鏡本町駅の駅ビル地下の鮮精食料品売り場な。そこの精肉店に持っていく」

 玉置がトラックを運転しながら上谷にかいつまんで説明する。十八歳を迎えてから玉置は直ぐに車の免許を取得したようでそのハンドル捌きは今ではもう大分安定した様子であった。月に何回か玉置は商品の搬送がある際には正社員の代わりにトラックに乗り込むことがあったが、それでも午後三時以降の車の運転は道路が混む為なるべく避けていたようであった。

 若葉マークを外せる一年まで後もう少しだと、玉置は最近いつものように言っている。

 免許取得から玉置はこの近辺の交通に関して云えばかなり入念に運転の練習を繰り返した様子で自分は地元地区では絶対に事故を起こさない、という気持ちに加えて何故か確信的な自信と言えるものを内に備えているようであった。

 上谷から見た玉置正也という人物は『嘘と本当の区別』というものをあまり気にしていないかのような、常日頃からそんな人間として捉えていた「ただの個人的な慢心じゃないのか?」普通に解釈すればこうなるのが当たり前である。

「別に俺は高をくくって言っている訳じゃないんだ。心の底から本気で他人の命というものを尊重している。特に事故ってものに関しては、な」

「……?」

『想いの因子』がその人間の、周域と世界の環境を形成するのだ。

 最後に玉置はそんなことを言っていた。何を意味して言っているのか、上谷には全く理解に及ばないのである。誰か有名な偉人が使ったことのある言葉か何かか?そんなことも考えたが、だが上谷には同時に自分の中に秘める感情が玉置の言っていることを理解してはいけないのだ、といった歪んだ警鐘を鳴らしていたのである。

 何だろう、この心の違和感は?


 駅ビルの車庫にトラックを納めて玉置は上谷に「ちょっと待ってろ」と言って席を外した。五分ぐらいすると注文先への挨拶やら入館手続きやらを済ませたらしく玉置が急かしく戻ってきた。

「業務用のエレベーターを使っていいんだとよ。直ぐに帰れるぜ」

 早速二人は運んできた注文品を担ぐ事となった。硝子貼りになっている面に傷が付くことのない様に慎重に取り扱う。トラックを駐車した業者用の昇降口からエレベーターを下るまでは難無かったが、地下生鮮食料品売り場まで出てみるとクリスマス近くに活気付いた消費者達が二人の行く手を阻んだ。

「すみません!荷物通ります!」

 玉置が声を張り上げて先頭を行く。

 雑踏の中での仕事は上谷には少々気恥ずかしい感じがしてやり辛かったが、それでも注文先の精肉店まで辿り着くと上谷のやるべき仕事はもはや終わったも同然であった。

 精肉店兼、惣菜屋といった感じの店である。

 日本では二十一世紀初頭にBSE牛の問題があってからその翌年には鶏インフルエンザが流行して一般消費者の食肉へ対する関心というものが近年では急速に高まった。ここを皮切りに生鮮食料品はおろか、加工食品や製菓なんかの監査も厳しくなったわけである。食品トラブルの隠ぺいや偽装行為で大手製菓会社でさえもニュースで名指しされる時代だ。

 だが年末ともなると当時のことはまるで幻かの様に盛況である。

 クリスマスに向けて売れ筋なのはやはり鶏肉らしく、これを目当てに精肉店の備え付けショーケース越しにある接客カウンターには駅ビルの開館直後からちょっとした行列が出来ていた。遠巻きにそれを眺め来客に邪魔にならない安全な位置に硝子ケースを置くと玉置は商品に傷が無いことを確認する。それから「ここで少し待ってろ」と再び上谷を待機させた。ケースの前面に付ける硝子の引き扉があってそれは持ち運びの際に危険視して、別に取り外しておいたのだ。

 走らず歩かず玉置は他の来客の隙間をすり抜けてトラックを駐車した昇降口まで一人戻って行った。

 ふと上谷は手余りになってしまい何となく居心地の悪さを感じる中で視線を泳がせる。精肉店の会計に並ぶ客の流れが一旦止まり、そのレジスターを担当する精肉店のアルバイトの女の子と上谷の目が合ったのである。

 気まずさで上谷は思わず視線を逸らそうとした、だが、

「……あれ?君は……」

「は?」

 間抜けな返事をしてしまう上谷、他に言葉が出てこなかった。近付いてくるなり、突然はっと上谷の手首を掴む彼女に、自分はこんな公衆の面前で何かやましい挙動でもしていたのだろうか、などと可笑しな思考を巡らせてしまう。

 彼女は上谷をまじまじと見つめるなりびっくりとした表情であった。

「久しぶりじゃない!元気にしてた?眼鏡なんてかけてるから一目で解らなかったよ」

 そんなことを言うのである。だが上谷にはその女の子に全く見覚えがない。彼女の胸元にあるネームプレートには義輪久留美(ぎわくるみ)と書かれてあり、頭で再確認するもやはり自分には縁の有る女の子では無いと断言できた。

 恐らく人違いをしているのだろう。

「二年ちょっとぶり、ぐらいだよね?あれから退院してたんだ」

 退院?

 この義輪久琉美という女の子が自分と勘違いをしてしまっているその人物とは、少し特別な事情を持った人なのだろうか?

 だとすれば自分は間違いなく人違いだ。こんな平凡な男を捕まえて。

 何処でそれを伝えるべきなのだろう、上谷はタイミングを計りかねていた。

「どうした上谷?知り合いか」

 この男は毎回良いところに出てくるものだな、と上谷は今まさに思った。タオルに包まれた硝子製の引き扉を持って現れたのは戻ってきた玉置である。

「……上谷?」

 女の子はゆっくりとした口調でその名前を噛み締める。それから咄嗟に掴んでいた上谷の手首を離した。

「ごめんなさい!私てっきり昔の知り合いかと思って……」

「あー、いえ。別に気にしてないですよ」

 そんな二人の不可思議なやり取りを「なんだあ?」と外野から訝しげにしていた玉置だったが直ぐに自分のやるべき作業に取り掛かることとした。彼女は二人が作業している間も時折、上谷のことを気にかけていた様子であったが当の上谷は彼女にはなるべく目を合わせまいとしていた。気まずいのは人違いをした向こうだろうし余計な気は使わせたくないと、そういう理屈だ。

 だが勿論、それは無意識的な己への擁護として、自分自身をも対象に当てはめて云っている結論でもあるのだが。

 でも何故だろう?

 それとは別に、上谷の胸の内には奇妙な罪悪感が取り残されているのである。


「そう、俺はああいう長い黒髪の似合う何ていうか凛とした感じの子も好きだね」

 先程人違いをされたと玉置に言えば直ぐにこのような話しの流れだ。玉置の場合は要するに少し可愛ければそれで良いらしい。

「そこを皮切りに、何でお前はSNSとか聞いておかないんだよ」

「初対面でそんな失礼なこと出来る訳無いだろう。君じゃあるまいし」

「まあ確かに愛理ちゃんに怒られそうだ」

「なんで北条が出て来るんだよ……」

 三栄のプレハブ小屋で昼休憩を取ることは上谷には結構久しい。ここ最近は休日の出勤は無く土日といえば専ら絵画サークルに足を運んでいた為だ。

 普段、大学で昼食を摂る際に上谷は殆どパンばかりなので今食べているコンビニ弁当の方が意外に美味しく感じるようである。だが玉置の方は同じ店の弁当が毎日のようで、その表情はもううんざりといった芳しくない顔を覗かせている。

 それから一気に自分の弁当を胃に流し込んだ玉置は口直しになっているのかいないのか、安物の不味い缶コーヒーを一杯呷った。

「あー不味い。やっぱコイツの不味さはなんか安心するわ」

 なんだそれ?と上谷が苦笑いするが、

「てか上谷、本当に人違いなのか?まあ俺なら知り合った女の子は絶っ対っに忘れないけどな」

「そうだと思うけど……どうだろう?」

 自分の交友関係はそれ程広くはない。高校の頃の工業科は周りは男子ばかりであるから考える必要はないとしても、大学の絵画サークルで見かけた覚えもない。何より彼女は「久しぶり」だと言ったし、自分の名前に聞き覚えが無かった様子だ。

 それでも心に抱いた妙な罪悪感に上谷が今一度思案を重ねているとその様においおいと玉置が心配をする。

「お前、普段からぼうっとしてることあるからな。そんなだと時期に、自分で自意識のコントロールをするのが下手くそになるぞ?」

「え?」

 自意識のコントロールが下手になる?

「自分でコントロールしているから自意識って言うんだろう?そんなこと有りえるの?」

 不思議な恐怖を覚える。

 自分と云う人間はこの世でただ唯一の存在だ、と誰しもが思っている筈だ。

「あー、どんな説明を示すのが正しいって言えるかな。ちょっと考えさせて」

 玉置が言葉を掻い摘もうとして低く唸る。何やら適切な台詞を選んでいる様子だった。それはいつもなら瞬発的に良く喋る玉置にしては少々時間が掛かったようにも思う。

「人間ってのはよ、物事の決定を『意識』で行っている。で、この意識は臨床でいうところ大きく三つに分類されるんだ」

 玉置は一瞬呼吸を置き、間を挟む。

「まず一つ目はエゴ、自我のことだ。よく言われている『利己的な』という意味使うエゴではなくちゃんと臨床としての解釈のエゴ。あっちは大衆用にエゴイズムという言葉が流行って勝手に意味が独り歩きしたものだな。本来のエゴは自我のことを指して言っている。これは理性の事でありまた自意識とも言う」

 次の説明をするぞ、と目配せする。

「二つ目の意識はイド。生物的欲求にして生理的欲求の事。説明の必要は無いよな?これはまた無意識とも言う」

 自意識と無意識。対を成す言葉同士に聞こえるが、その他に「意識」と定義される言語が特別に何かあっただろうか?

 上谷は玉置の言葉を待った。

「三つ目は、スーパーエゴって言うんだ。これは道徳原則といって社会性のことなんだよ。ところがスーパーエゴは意識のカテゴリーとしては『無意識の自意識』であり大半を無意識の中にその存在を置いてる」

「?…何、それは?」

 上谷が理解に苦しむ。

「何となくとってしまう行動だよ。社会性ってのは単に秩序を厳守しようとする無意識に限ったことではなく、そこにおいての自らの存在や価値観を保守しようとする無意識や生活環境への依存なんかも含んで言ってる」

 具体的な例を上げる玉置。

「家に帰るととりあえずテレビをつけたり、喉が渇くといつも同じ飲み物を買ってるとか、人数の多いときの移動ではみんなの後ろに隠れたり、何となく常に早歩きとか」

 ああ、と解りかけて上谷が相槌する。

「他愛ない様なことならいくらでもあるけど酷いやつなら……他人の意見に無闇に反発するのが癖だったり、どこか愚痴っぽいとか悪口が多いとか。ふいに誰かの上げ足を取ったりする習慣のある奴とかいるな。お前の身近にもいるんじゃないかな、他人の失敗や不運に対してわざわざ『やったじゃん』とか嬉しそうに言う奴」

 簡単に肯定して良いものだろうかと上谷が返す言葉に詰まる。

「ちゃんと考えた上で否定しているんじゃないの?発言する側の個人的な人格もあるだろうし」

 人間だってそれ程馬鹿ではないだろうという上谷の理屈だ、しかし個人の尊厳とはこの世で最も大切な権利であり、また究極的な言い訳でもある。玉置はふむと一度低く唸ってから「個人の人格、ねえ」と静かな抑揚を上谷に見せた。

「自分の価値観を守る為に他人を攻撃している奴が世の中にはいるんだよ。そして他人に嫌な気持ちを与えることが自らを保守する手段だと本気で思って習慣になってる。しかもそれが無意識なんだ」

 異常であることが習慣化されていて、もはや異常ではなくなっている。

「社会に生きるって事は無意識の自意識で生きるって事。無意識はその都度では自分でコントロール出来ていないから普段からの習慣付けが大事なんだ」

 解る?と玉置の表情。

「一見意味の無さそうな生活習慣や既に出来上がってしまっているその本人の周りの環境も、人にとっての大きな意識の一部そのものなんだよ。意識とは『何』において決定をしているのかって事」

 生活、社会、環境、時代。

「普段から何かまわず発言してたり、ぼうっとしてたりすると……」

 玉置は挑発的ともとれる視線で上谷を見据えると、にやりと笑った。

「自分のアイデンティティを本当に見失うぞ」

 ぞくりとした。

 己の存在を守るが故に意識して何事においても理由付けする半面それは無意識に何かを否定している。無意識の自意識という言葉のその真意が深く上谷の胸に圧し掛かるのである。

 渦巻く倫理に頭を使うことを面倒に思って、昼休憩の残り時間はもう寝て過ごしてしまおうと上谷は決めた。


 環境に適応する事を進化と呼ぶのならば、社会に迎合する事もまた、進化と呼んでいいのだろうか?

 けれどもそれでは、

 今日羽ばたいたダーウィン・フィンチは、明日にはもう羽ばたかないのかもしれない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ