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本日も大したクレームやトラブルもなく一日の業務を終了した。後半で唯一の大一番といえば社長が閉店間際にトラックで持ってきた大型家具類の一式を社員と男子バイトで定刻の午後八時までに大慌てで店内に運び込んだぐらいだ。
上谷と玉置は閉店後、いつもと同じ様に搬入口のプレハブ小屋で一服し、それから食事をとって帰るかどうかを話し合っていた。そこへ北条が二人に挨拶をしにやって来たので、
「じゃあ今日は俺が奢るから、三人で飯食うか」
「番長、太っ腹だね!」
それをきっかけに玉置が提案した。上谷は悪いからと遠慮した様子だったが、玉置はバイトの内でも自分が一番自給も待遇も良いし、何より給料日が近いから大丈夫だと言って上谷と北条に気負いさせないよう振る舞った。
何処で食事をとろうかという事になった。結局、駅近くのファミリーレストランに決まったのは北条が学校のブレザー服のままなので夜中にうろうろさせまいという玉置の配慮だ。
ウェイトレスに案内され禁煙席に腰を下ろす三人。玉置は出てきたおしぼりでまず一番に顔を拭った「番長、おっさんみたい」と北条に冷やかされた玉置はただ喉を鳴らして一人苦笑していた。それから頼んだ物が一通りに出揃ったところで、当然の様に三人の話題は仕事場の話しになる。
「上谷君、クリスマスは出勤?」
「そう、朝からシフトを入れたんだ」
「愛理ちゃん、俺にも同じ質問しようよ」
「え、番長のは別にいいよ」
北条に言われ「こらこら」と怒った素振りを優しく見せる玉置。当の上谷は一人もぐもぐと無心で料理にがっついてるのである。
そんな感覚の鈍い上谷に話題を振るのが玉置の役目か。
「そういえば、お前。相変わらず給料銀行振り込みにしないのな。なんで?」
「え、上谷君。お給料手渡しなの?」
料理を頬張りながら上谷は「世の中、色々と物騒でしょ?」とただ簡単に言った。上谷が三栄に雇用されたとき、給料の手渡しを社長に談判したのだ。三栄の社長は元々古い体質の人間なのでこれを特に気にもせず、快く承諾された。
玉置には何やら上谷がこの話しを深くされたくないかの様な、そんな印象をこの話題から密かに感じ、
家庭的な事情か?
と、これ以上詮索するものではないなと話題を変えることにした。
「しかし閉店間際に家具の搬入はしんどかったが……なあ上谷」
是非も無かったようで、
「全くだよ、どうせ持ってきた商品の分だけ店内を模様替えする事になるだろ?ならフロアを空ける時間を取って積み荷はトラックに積んだままにして、降ろすのを明日の朝にしても良さそうなのに」
「何かと急だったんだよ。それに明日の朝に搬送があるんだ、上谷。お前も明日は九時半出勤だな?」
玉置は他のアルバイト達のシフトも充分に把握していた。上谷は今年の大学の授業は今日で終了している。次に授業が始まるのは年を越した冬休み明けからで、玉置はそのことを理解しているのだ。
「えー、じゃあ上谷君。明日は夕方上がりなの?」
朝番のアルバイトは午後六時には退勤になる。
残念そうに北条が言うと「まあ、僕はそれほど男手の頭数にならないから」と、一応の社交辞令的な謙遜をした。
「そうじゃないんだがなあ……」
「?」
玉置がぼやくが上谷がよく分からず、どちらかと言えば北条の為に玉置が自腹を切って設けたこの場だったのだが、その意味の無さを物語っていてちょっと切ない。
「まあ別に……いいけどよ。トラックを空けたのは明日の朝一番で注文品を届けるのに使うからだ。俺と上谷とでな」
上谷には何が「いいけど」を指しているのか解っていなかったのだが。というより単に他人の感情を理解するのが苦手なだけなのであるが「ふうん」と、軽い相槌だけで話しを受け流した。
北条が二人の間に入ろうとして聞く。
「上谷君と番長ってさ、仕事が終わってから晩御飯食べる時いつもファミレス使うの?」
「たまにかな?だいたい俺と上谷二人だけなら、普段は産業道路沿いに良いラーメン屋があってね、大体はそこかな。愛理ちゃんラーメン屋そんな入らない?」
「うーん、今まで一回もないかも」
「女の子だと、なかなか店に入りづらいかもね」
そう聞き、だから玉置はあえて北条にラーメンを語ることとした。
「そこね、この辺じゃ一番美味いね。豚骨出汁のスープがこってりとしていてね……」
「でも、ラーメンって何か料理としては簡単そうなイメージがある」
玉置の話しを遮った北条のこの一言は、何やら玉置の変な感情のスイッチを入れたらしい。
「馬鹿言っちゃいけないよ愛理ちゃん、ラーメンは日本の文化だよ?ラーメン屋で勝ち組になれた有名店なんて年収が一億もいくんだ。スープの管理とか特に大変な筈だよ。一度沸騰させちゃうと風味が飛ぶから、動物系の出汁ってのは温度を調節して神経質に煮込まないといけないし。夜の客足が一番重要だから夜明けまでお店を営業させるなんて基本だしね。職人さん達の生活リズムはそりゃもう大変なもんさ。俺は味玉を食べただけでも小さなひと手間が掛かってるのを舌で感じちゃって、店の人の苦労がラーメン一杯に表れているよ」
呆れた上谷が玉置に一言。
「君、ラーメン屋になれば?」
「番長はラーメン番長だぁ」
言われて我に返った玉置は「あー、失敬」と途端に紳士ぶって見せる。北条はそんな玉置に思わず吹き出してしまったが、それでは少し玉置が可哀想に思えてきたので僅かにフォローを入れてあげることにした。
「そこのラーメン食べたかったな」
「今度は外が明るい内に三人でね。愛理ちゃん、夜の街を制服で歩き回るといやらしー奴に何かされちゃうから危ないんだよ」
「へー、番長ぐらいいやらしーんだ」
ちょっと待ってくれよ、といった感じの玉置に北条は言ってやったと言わんばかりの表情である。
「愛理ちゃん、男女が交際する理由の凡そってのはね、そのいやらしーのが目的で交際するんだっていう統計学がちゃんとあるんだよ」
「やだー、何でそんな事いうの」
「いやほら、生物学的なもんだから」
わざと意地の悪そうにする玉置。
むうっと顔をふくらました北条は「そんな事ないよねえ?」と上谷に話しを振ってくる。んん、ああ、といった様な語勢の悪い上谷の相槌がややともする北条の情緒を煽りたてた様である。
「もー、番長はね自分の好きな部分とかコンプレックスとか考えて無いんだよ。だから他人を好きになったりしないんだ」
八つ当たりする所の無い北条はとにかく玉置に喰ってかかる。が玉置は「俺だって人並みには考えるさ」と軽く北条をなす。
「じゃあ番長のコンプレックスって何?好きな人誰なの?付き合ってる人いるの?」
一気にまくし立てようとしてくる北条に玉置が「ちょっと待て、落ち着いてくれ」と、とにかく北条を宥める。
まるで闘牛士だな、と上谷は玉置に思った。そしてこの冷静沈着な闘牛士は眉間にしわを寄せながら、どの様にしてこの猛牛を抑え込もうかと思案していたようだ。
「コンプレックスねえ……在る、と言えば在るけど、まあ俺の場合は無いみたいなもんか?」
コンプレックスが、無い?
北条以上に驚いたのは上谷の方だ。
上谷も北条も、じいっと玉置を見入る。
「あー、まあ、そんな大袈裟なことじゃない。二人とも、三蔵法師って知ってるよな?」
「西遊記?」
「そう、その三蔵法師一行が天竺へ向かう道中に妖怪を退治して回るのはそれが修行の一環だからだ。牛魔王とか、金角に銀角とか有名だな」
上谷と北条には未だに玉置の話しの意図が見えてこない。
「じゃあ妖怪を退治して回る三蔵法師が何故、三匹の妖怪を弟子として従えて天竺を目指していたのか、考えた事あるか」
「天竺は願いを叶えてくれる場所だから…」
「違うよ、俺の質問はそういう意味で言ってるんじゃないって。物語そのものの目的じゃなくて、この西遊記という話しを考えた著者が何故そのような『設定』にしたのかって事」
少し間を置いて玉置は続ける。
「西遊記ってのは仏教、とまあ厳密に般若心経なんだが一応、面倒くさくなるから今は仏教の枠で話しを進ませてくれよな。で、その仏教ってやつは自身の煩悩を認識することを重んじている……とここまではいい?」
二人に再度確認をする玉置。
「西遊記の話しに戻るな。三蔵法師達は悪い妖怪を次々に倒して行き、道中で民衆を救っていくわけだが……その妖怪ってどうやって倒してる?」
「悟空達がやっつけるんでしょ?」
そんなの小学生でも知ってるよ、といった感じで北条が言う。
「そうだね。そしてもう一つ、彼らは妖怪を退治する方法を持っている」
玉置は自分の両手の、掌を左右合わせる仕草をする。
「呪文だな。この三蔵法師の呪文も助力になってるのさ。悟空達と呪文が、彼らを天竺へ導く為のかけがえの無い力なんだ」
「そりゃファンタジーなんだから。そういった設定は在るだろ?」
物語上のただのお約束事なんだろ、という上谷に玉置は「違うよ」とその考え方を否定した。
「三蔵法師ってのは実在した人物なんだよ。彼は中国で学んだ仏教の解釈をより深めようとして単身、インドへと旅立つわけだ。昔の中国は外の国に厳しいから、その頃の三蔵法師は国を黙って抜け出た罪人ってわけだ。この実話をモチーフにしたフィクションが西遊記ってこと」
冷や水を一杯呷った玉置が続ける。
「呪文ってのは、すなわち三蔵法師が学んだお経の事だ。そして彼はインドへ向かう道中で人生に心悩み苦しむ中国民衆に自分が学んだお経を読んで聞かせて、人々を励まして各地を回ったんだ」
それはつまり、
「西遊記の妖怪とは、人の持つ『コンプレックス』そのことだ」
「…?その話しと、でも君のコンプレックスが無いって言いきれる事は繋がらないよ」
不思議な焦燥感が上谷にはあった。
玉置が導き出そうとしている答えは、
「三蔵法師の従えた三匹の妖怪は、つまり三蔵法師自身が抱えたコンプレックスってことだよ。だが同時にその三匹の妖怪は、間違いなく三蔵法師をインドまで導いた力であり仲間なんだと思う」
そんな馬鹿な解釈が。
だがしかし、荒れ狂う攻撃的な己の正義が、大岩に下敷きにされ鬱積した怒りを抱える猿の妖怪。
欺瞞=孫悟空というメインキャストとなりえているのか。
「例えば、そうだな……愛理ちゃんの今ある悩みとかは?」
「えっ、えっと……好きな人の事とか……」
ちらと上谷を見るが、
「でも一番の悩みは進路かな。高二だし」
ふむ、と玉置が相槌をうつ。
「進路か、なるほどね。何処の大学に行きたいとか自分の学力が周りに追い着いているのかとか、そもそも将来何をしたら良いのか分らないって事だね?」
北条が小さく頷くと玉置はそうだろうね、といった感じで話しを続ける。
「だからね、頑張るだろ?とりあえず勉強はしておこうとか思うしね。この世の全ての動物が恐怖って感情は持ち合わせてる。でもね、心に不安を感じるという感情は未来を予知しようすることの出来る人間だけなんだよ」
いつになく神妙な玉置のこの話しには上谷は到底納得しえない気持ちがその胸にあった。北条には玉置のこの発言が納得出来ているのであろうか。
「俺は昔、とても親しい友人に悪い事をしてしまって、そいつは俺の事を許してくれたんだが、俺には自分を許せなかったんだ。でも、その事は今の俺が存在する上で必要で大切な通過儀礼であったんだと今では思ってる。きっとね」
思えば玉置の過去を上谷はよく聞いた覚えがない。
「そういえば愛理ちゃんて、高校は何処だっけ?」
その話しを続けたくないのか、玉置がさり気無く話しを切り返した。
珍しいなと上谷が思う。
「私は第二だよ」
特に北条は気にしなかった様子である。
北条の言う第二とは御鏡市立第二高等学校の事である。御鏡市には市立高校が全三校程ありそれぞれに簡素な名前が付けられていた。北条の通う御鏡市立第二高等学校はその内では一番偏差値の高い高校である。
「第二か、じゃあ愛理ちゃんだったら御鏡大は大丈夫なんじゃない?」
玉置がそう言うと上谷は「ウチに来たいの?」と北条に聞いた。
「もー、馬鹿番長!なんで言うかなー。入学してから上谷君を驚かせたかったのに」
ふくれっ顔の北条に玉置は「あー、そうだっけか?悪い悪い」と軽い乗りの反省である。一年なんてあっという間ではあるが、それにしては随分気の長いドッキリだなと玉置が苦笑いする。
少し機嫌を取り戻した北条が上谷に聞く。
「そういえば上谷君て高校どこ出てるの?」
「え、高校……?」
「そう、上谷君どこ出身」
「勿体ぶる所でもないんだろ、どうせ」
玉置が茶化す。
「そういうわけじゃ、ないんだけど……」
名前がすんなり出てこないのである。
──何故だろう?
内心奇妙な焦りを感じながら自身の記憶を探る上谷は言葉を詰まらせながら「真十かな」と少し弱々しく言った。
「真十?あの私立のでかい学校か」
最寄り駅を御鏡本町駅より一つ隣り駅に構える私立真十高等学校。全校生徒が四千人強を誇る地元地区で有名な巨大学校だ。そしてその学科は普通科、情報科、工業科、公民科と四科を揃えていてそれぞれの偏差値に大きくばらつきがあることでも特に知られていた。
この学校の一番の進学コースというのが公民科でそのカリキュラムに経済、政治を中心に心理哲学を専攻できる珍しさがある。
「何科だったんだ?上谷」
玉置が聞く。
とはいえ玉置はどうせ数学の得意な上谷であるから、恐らくは普通科か情報科であろうと踏んでいる。
ところが上谷が口にした学科は玉置や北条が一番予想しえなかった学科であった。
「えっと、工業科…?」
「工業科!?」
ファミレスに居た事も忘れ、玉置と北条は二人で口を揃えて思わず叫んでしまっていたのだ。周りにいた他の客達の冷ややかな視線が二人に送られる。
「二人とも、声でかいって」
「……確か真十の工業科って、地元の偏差値でも四十切ってなかった?」
そんな視線を受けた北条が声を小さくして言う。
この御鏡市において真十高等学校の知名度が高いのはその工業科が一番の理由となっていた。私立高校ということもあり地元の不良系男子学生を一身に寄せ集めた『収容所』としてその名を馳せていたのである。
「上谷、お前よく御鏡大に入れたな」
玉置は素直に上谷に感心をしていた。それまで学業を怠っていたであろう一生徒が、卒業間近にして血が滲む程の勉学に励んでいたのだ、と。
しかし当の上谷といえばその脳裏には真剣に受験勉強をしたという記憶がまるで無い。
──おかしい、何故だ?
母校の名前も、また在籍を置いた自分の学科が何処であったかも、その記憶から捻り出す程に全く「単語」というキーワードでしかそれ以上に表現出来ないのである。
校内の情景は?
同級生達の喧噪は?
音も映像も皆無。
「上谷君、頑張ったんだ。私も勉強頑張らないとな」
北条の溜め息混じりの弱気な発言に対してだが玉置は「愛理ちゃんなら大丈夫だって」とあくまで明るく振る舞う。
しかし二人のそんなやりとりにも、今の上谷にはどこか上の空であった。
「上谷、どうかしたのか?」
玉置がふとして上谷の雰囲気を察する。
「いや……少し疲れただけだよ」
何でもない、という素振りを見せた上谷であったが玉置の目にはどうにも本人が言うようには映らなかったのである「明日はお前もバイトは朝からだし、今日はもうお開きにしようぜ」そう玉置が提案した。
「お大臣」である玉置の発言に二人が断れる理由も無いだろう。それから店を出て直ぐ目の前にある御鏡本町駅でまず先に北条を見送る。その後で玉置は上谷の表情があれから明るくないのを気にかけていた。
「帰りに銭湯でも寄るか?」
思わぬ指定先に上谷はきょとんとしていた。
駅から続く繁華街の中に大きなSPAがあったのだが上谷はこれまで一度も使用した試しはなかった。そもそも自分の生活している行動範囲の中で銭湯という選択肢が出てくることがない。入場券を買うのでさえ少し手間取ってしまい、そういえば自分が銭湯なんて入ったのは小学生よりずっと幼かった頃だったような、そんなことを思う。
店内は上谷が想像していた以上に客層が幅広い。正直もっと高齢者ばかりを相手にしているものかと思っていた。
玉置は湯上り美人の通った後を鼻を効かせながら「勿体無いからお前も嗅いどけ」などと上谷に進める。玉置に「阿呆か」と差し込んで言ってやろうとしたところで玉置は上谷の鼻先で人差し指を立てる仕草をすると、それを軽く左右に振って上谷の発言を去なすのである。
「人間の五感の中で最も記憶力の鋭い部位ってのは、鼻なんだぜ?」
そういう問題なのか?
一人で上機嫌な玉置は歩き心地の良い絨毯に敷き詰められたフロアを上谷を置いてすいすいと進んでいく。玉置のあまりの無邪気さに暫し唖然としてしまった上谷を後目に、先に男性用脱衣場に着いた玉置が大分後ろにいた上谷に「迷子になるなよ」と、憎まれ口を叩いた。
「やれやれ……」
鼻で溜め息をつくのは上谷のよくやる癖だったがこうして玉置と二人で銭湯に入る事に何の嫌悪感も抱かないのは意外に思う。
どんなに親しい間柄であれ今時、肉親以外で銭湯へ行く事に僅かも抵抗の無い者なんてそんなにいないだろう。これも玉置正也という人柄の成せる技なのか。
脱衣場へと入ると玉置はロッカーの番号を物色し始めて直ぐに十一番のものを選びだした。どれでも同じだろ、といった感じの上谷の表情を察したのか玉置は「十一月生まれなんだよ」と説明した。
「何だ、先月じゃないか」
上谷が眼鏡を外しながらさして興味も無さそうに言った。脱衣場に足を踏み入れた頃から眼鏡のレンズが少し曇っている。
「当日にも教えたろ、覚えろよ。来年は誕生日に何か貰うからな」
言いながら手早く服を脱いだ玉置はタオルを片手に「早くしろよ」と上谷を煽った。
「君は、前ぐらい隠したら?」
上谷に言われた玉置は仁王立ちのまま自分の前を確認する。それから何故だか少し誇らしげにして「まあ、そう悔しがるなよ」と一人身勝手な解釈をもって上谷を慰めるのである。
「……」
沈黙する上谷に玉置は喉を鳴らして低く苦笑していた。
ところがふと、その玉置が笑いを止めてやや真面目な趣で何かものを考える仕草をしていたかと思うと上谷の右肩をじっと見据えて切り出した。
「上谷、それ古いものか?」
質問を伺って良いものかどうか迷っていた様である。当の上谷は何のことであるのかさっぱり理解に至らず、不意に言われた者の顔を覗かせていた。
玉置の目線の先を見ると、自分の右肩には縫い目のある恐らく何か鋭利な物で切ったか刺さったかしたのだろうという古傷があった。
「どうしたんだ、それ?」
見覚えが無かった。
「……さあ?」
「さあ、ってお前。記憶に無いのか?それとももっとずっと小さい頃?」
玉置はしばらく訝しげな様子をしてみせていたが「まあ、いいけどさ」と最後は投げやりに言って一人大浴場の方へと消えていった。
──何だろうか?
しかし玉置の言う通りそれは自分が物覚えをするずっと以前の幼い頃に作ったものなのかもしれないと。だが、それにしてはこの傷、まだ自らの身体に馴染みきっていないかのような、何年も前の傷というものにはどうにも見えなかった。
考えが及ばない、そう言うより他なかった。
「……まあ、大したことないんだろう」
少しその縫い傷を左手で摩ってみたが、特に何かを思い出すこともなく、
玉置に遅れてこの広い公衆浴場で迷子になる事の方が今の上谷には心配だったのである。




