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そこは見知らぬ街の裏通りだった。
アイツはまるで擦り切れたボロ雑巾の様で全身が痣と砂汚れにまみれている。コンクリートの地面に蹲るアイツの存在など表通りを行き交う人々には石ころ程の価値だって無い。
その傷はいつ癒えるのだろうか。
講義の途中のほんの数十分、ついうとうととして僅かに寝入ってしまった様である。はっとして教壇に目を向けると、自身がノートを執っていないことに気が付く。この授業の講師は先に書いたものを消すのが早い。
頭を切り替えるという作業は上谷にとって得意分野である。存外、寝起きも良い方で時間に急かしたこともあり居眠り分のロスは他愛なく取り返すことができた。
上谷の今年最後の履修は半日で終わりとなった。昨日の夜にアルバイトを上がってからそのことを明智にSNSで連絡すれば直ぐに返信は返ってきた。
「十二時過ぎから描かない?」
断る理由など上谷には無かったから二つ返事をすれば明智から理系と文系の本校舎同士を繋ぐ渡り廊下で待ち合わせしようとのことだった。
昨日にて明智との待ち合わせに若干ながら遅刻をした上谷は今日の約束には充分注意を払っている。ただそれは前回のことに対して相手に罪悪感などを抱いた、ということではなく他人に上げ足を取られたくないという考えが上谷の根底にはあるからだ。
渡り廊下にまで辿り着くと明智が先に待っている姿が上谷の目に映った。今年の冬が暖冬であるいうことの、そもそもの原因が地球の温暖化にあるという現実や危機感など今日の陽気からはまるで感じられない。廊下に照る冬の日差しに当てられて明智は立ったまま目を閉じ、うとうととしていた。
「……」
「立ったまま寝てる……変に器用なんだなぁ」
明智が上谷気づいている様子も無く、だが上谷は現代人にありがちな苦手意識は当然のステータスとして持ち合わせている。今、声を掛けて明智を起こしてやらないといけないのだが。自発的な行動と、そもそも上谷にとって女子が苦手だ。それが例え親しい友人であれ仕事仲間であれ躊躇した。
異性が苦手、というのは決して嫌いだからという訳ではなく何処かその扱いが奇妙に特別で崇高で厳かな対象である。
だからといって、明智が上谷に気付くまで側でうろうろ待っている様な変質者染みた事をしているわけにもいかないので、上谷が明智を起こそうとその傍へふつと近寄る。
──甘い香りがした。
「明智?」
彼女の髪からほんの少し甘さが香る。その香りに誘われて、思わず明智の顔を覗き込んでいた上谷に明智が目を覚ました。
二人の目と目が合う。
「……上、谷君……?」
「うおっ、と……」
息が掛かるぐらいの距離で。
自分の無意識の行動に上谷が動揺して驚く。咄嗟、腰が引けてか反射的に明智から横跳びで離れた。
「いや、寝てたから……起こそうと思って」
しどろもどろな態度をとってしまった上谷の精一杯の弁明だが、明智はまだ夢見心地なのであろうか、きょとんとした様子である。
「……白雪姫みたいな?」
「いやいやっ、何もしてないって」
「?」
ほうっとしている明智を見て上谷は自分一人だけ慌てふためいていることに気が付く。上谷が少し拍子抜けした感じで「起きたの?」と聞くと明智は軽く頷いた。
それから、
二人は昼食をとっていなかったので食堂へ向かうことにした。上谷としては自分の昼食はいつもの通りでいけばパンだけでも良かったのだが今日は時間に余裕がある。
「待ち合わせしなくても美術室で顔を合わせるし、結局同じじゃなかった?」
上谷がそう言うと、
「同じじゃないよ」
と明智は言った。食堂に着きランチを持った二人が席を取る。明智は続けて「あの瞬間だったからあの夢を見ていて、それで上谷君が起こしてくれたのかもね」などと言いながら箸で人参をつつく。
「短い眠りでも夢って見るんだ」
なるべくその時のことについて明智に触れられぬ様、話しの流れを逸らそうとする上谷。そんな上谷の態度に明智は何だかつまらなそうにしている。
「人間が夢を見る時の時間ってね、丁度あのくらいだと思うよ」
一応、明智は話しの流れに乗ることにした。
「上谷君、レム睡眠とノンレム睡眠って知ってる?」
健康ブームに乗って、いつだか昼のワイドショーか何かで聞いた覚えがある。
「ああ、レムの方が浅い睡眠でノンレムの方が深い睡眠だっけ?」
「そう、レム睡眠は睡眠中でも意識が起きている状態でノンレム睡眠はその逆で睡眠中、意識まで眠っている状態。夢っていうは、レムとノンレムのどちらの状態でも見ているとされているんだけど……目が覚めてから人の記憶として頭の中に残るためには意識の起きているレム睡眠の時間に起きなくては駄目なの」
ほうほうと上谷が聞き入る。
「本当は細かいバイオリズムとか個人であるんだろうけど。動物によっても違うみたい。人間の場合、大雑把にレム睡眠とノンレム睡眠は九十分間でワンセットになっていて、その内で夢を見たとして記憶の中に残るレム睡眠は九十分の中の、前後の十五分ぐらいなんだって」
それから嬉しそうに話しを進める明智に、上谷は嫌な予感がした。
「だからね、私が居眠りしだした丁度に上谷君に起こされたから私は今、夢の内容を覚えているんだよ」
結局話しが戻ってきてしまった。
上谷は後悔した。明智は上目使いでじいっと上谷を見入って、それからほんの少し間伸びした様な、猫なで声を出した。
「あのまま、ずっと寝てたら白雪姫みたいに起こしてくれた?」
「えー、あーいや、どうかなぁ……」
こういう場合に玉置のようなあの滑らかな弁舌が自分にも欲しかったな。などと今、上谷が思う。だが今は全く冷や汗をかくばかりだ。明智のことは出逢った頃からずっと意識してしまっているが、雰囲気を作るとなると上谷はやはり苦手だ。
明智は普段、他人の後ろを付いて歩く様な女の子だったが、時折思いもよらないぐらいの個性を発揮することがある。そういった場合、大概は上谷のボキャブラリーでは手に負えないのが殆どだ。
「でもね、私の夢の中のお姫様は私じゃなかったんだけど」
上谷の箸が止まる。
明智がどのような続きを言おうとしているのか、上谷には全く読めずにいた。
「白雪姫はね……」
明智が上谷を見つめる。その眼差しはあの絵画に取り掛かっている時の明智のそれと、酷似していた。
「上谷君だよ、私が王子様」
「へ、変な夢を見るね……」
精一杯冗談が解るような苦い顔を作る上谷。だが上谷には明智の瞳が本気に見て取れていた。本当はそれを茶化すところなのか笑ってやるところなのかさえ判断しかねなかった。
お姫様って言葉は女性に使うものだろう?多分、簡単にそう言えば良かったはずだ。だが上谷には即決でそれが出来ないでいた。
それからその話しはうだうだに流して、ほどなくすると明智の表情はいつもの朗らかな感じに戻っていた。もはや食欲を奪われた上谷はまたいつ明智が対応の難しい冗談を吹っかけてくるのかと身構えていた。
明智は上谷の食が進まないのを見て昼食はもう済んだのかと判断したのだろうか。
「そろそろ美術室に行こっか」
そう言って席を立った明智の昼食の皿にはまだ人参が残っている。
合間に休憩を挟んでいるとはいえ流石に昼過ぎからずっと絵を描いている。北東側のこの部室に西日が傾いてくるとまるで安っぽいアパートの様な雰囲気を醸し出す。それよりはまだ少し時間が早かったが午後四時を前にして上谷の集中力はそろそろ限界だった。
そんな上谷などお構いなしという感じに明智は今も尚、その集中力を遺憾なく発揮している。上谷の方といえば部室に正味四時間は缶詰状態であったから頭がぼうっとして、もはや絵を描くどころではない。
今思えば明智に煽られて昼食をしっかりと採っていないのである。日本人が主食にしてきた炭水化物がこの世で最も美味しい食べ物なのだと、上谷は日本人ながら改めて思う。一人暮らしを始めてからその考えはより一層強くなった。人間が摂取する御飯の茶碗、凡そ三分の一を脳の活動に使うというのだから、今集中力が朧げになるのも当たり前のことか。
明智のせいにするのも悪いが今日はもう切り上げようと上谷が決めた。
「もう疲れたから、僕の方は上がるよ」
絵の進み具合には、一応それなりに成果はあったから上谷には充分であった。
「上谷君のバイトまでまだ時間あるよ?」
明智が寂しそうに言うが、だが上谷は聞き入れなかった。腹が減っては何とやら、この後にはアルバイトもある。
明智はまだ少し描いていくと言うので上谷はもう先に失礼することにした。自分の道具を片付け、そそくさと部室を出ていこうとすると何気なく明智が描いている絵が上谷の目に止まった。
その絵は、既に完成しているかの様に上谷には見えていたが──
これでも尚、描き足りない箇所があるのだろうかというのが上谷の率直な感想だ。そういえばダヴィンチの描いた作品には未完成のものが多いということだが、モナ・リザなんかも生涯にかけて筆を入れ続けたというから、その描くものに対する執念には頭が下がる。
この辺がファッションで芸術に取り組む人間と、そうでない人間の違いなんだなと上谷が思う。太宰治は言う。傑作ってやつは世の中に認められようと思って作ったものの中から出来上がり、そして選ばれる。でもそれは真の傑作ではない。真の傑作ってやつは作り手が本当に訴えたいものの感情や思想を、だがそれは全くの完成作品にならないかのような本人も制御しきれない程の「自分の中にある強い潜在意識」によって振り回されて、結局駄作になってしまうそんな駄作の中に真の傑作があるのだ、と。
だから上谷の脳裏には明智の執念が引っかかるのだ。それは以前明智の絵に感じた『何かが足りない』というあの感触。
上谷は廊下を歩きながらに引っかかりのあるそれが何であるのかを今また、頭の中で検索していた。
ふと、窓硝子に映る自分の姿が目に入る。
「あ……眼鏡をしていないのか」
油絵は修正が効き易い。とはいえ流石に作品の構成から大きく描き直しをするなんてことは到底考えられない。ましてそれが絵を描くことに慣れている明智がである。
とすればあの眼鏡をしていない上谷はやはり明智の意志による作風であり、わざとそのように描いているものだと思われる。
「感性ってやつなのかな」
何故わざと裸眼にするのか、上谷には明智の意図が全く読めずにいたから素直にそう思うことにした。自分の思いも寄らないところに修練を積んだ者にしか解らない何かがあるのだろう。
在るものを描く。絵に関して上谷の最大限はここまでだ、即興なんてまして無い。
そう考えてみれば昔の宗教絵画は凄い。特にルネサンス頃のキリスト教のものは現実に目の前に無い描写や、そこ此処に存在しない神や天使ってやつをよほどリアルに描く。その仮想のリアルはなにしろ写実主義の前衛を以降に築き上げるほどだ。
そもそも感性とは何なのか?
人間は日々『意識体験のデータ』を感じ取って生きている。この『感じ』を個々の持つ概念から形成し具体化していくことが感性だ。最終的に、物事をカテゴライズしクラス別けをしていくこと(または『した』こと)がそうだとも云える。
概念は普遍的、統合的、社会的、であるから住む世界観や環境によってその価値は大きく変わってくる。
その人間の根底にある概念が『直観』だ。
直観と聞くと一瞬、野性的で神秘的な本能の様な能力を連想する人も少なくないだろう。実際に予想的であり空想的である側面を持ち合わせているが、直観とは知識や言語や経験の即時的な形式で記号表現との関連性である。
──どういった事か──
人間がその感覚器官(五感)を通して外側からの情報を捉えた際に、その意味というのは記号内容という形で情報に置かれる。この記号内容というものの意味は、どの人種や性別からいっても『同じ意味』を共有している。
一方で記号表現というものは個々の持つ社会への概念に依存し、また直観との意味論的な意味連関を持つ。
具体的な例として──例えば普通、視覚に障害の無い人であれば「赤い色」というものを間違えることなく色別出来る。記号内容で言えばこの赤い色はほぼ全ての人が同じ意味の『もの』を認識していっている。
だが記号表現でいえばそれは「赤い色」という言語(今回は日本語)を理解し、社会や生活によって、
「これを視覚として捉えた際の呼び方を『赤い色』とする」
というようにして与えられた統括的な知識や記憶、即ち情報を用いること無しには、人間は直観というものをその頭から引き出すことが出来ない。
感性、それは感覚と直観を使った『もの』の分解認識能力。
立体主義や比喩表現、また超現実主義などといった世に広く認識されている形式を持って感性が構成される必要は必ずしもない。何故ならそれは、個々が社会や環境の影響によって、根底にもつ概念が変化した時の価値観の現れなのだから。
上谷は気になったのだ。
明智未来の概念に今、自分がどの様に映っているのかを。
感性や才能とは無意識の中に顕在している能力ではない。そしてまた本能という言語の認識も世の中では間違って使われている。
潜在された知識という解釈が正しい。




