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人間が集中力を発揮するのは精々、一時間がいい程度という。学校の授業が高校まででも一時間置きに休憩を入れるのはこの為で、大学でも一つの講義で九十分というのがスタンダードだろう。
上谷がふと疲れを感じ筆を下ろすと時刻は午後四時半を回っていた。上谷には午後五時にアルバイトがある。
「じゃあ、僕はもう行くから」
「……うん」
言うと上谷はいそいそと道具を片付ける。こういう時の明智はまるで耳の萎れた子犬の様になるのでその様子には上谷も内心、いつも後ろ髪を引かれる気持ちだ。
他人に気を使う、などと上谷は当然の様に苦手としたのでそういった場面がある際は手早く撤退するのが、自分にとっても他人にとっても最良の選択であると信じて疑わない。
周りに「おつかれ」のジェスチャーを振って部室を後にする上谷。
その背には明智の視線を感じた。
大学を出る。アルバイト先へは一旦、駅の南口を抜けなければならない。そこから南口駅周りの繁華街を端まで歩くと大きな産業道路に差し掛かった。最寄りになる御鏡本町駅から距離はまだ依然として近かったがなかなかの交通量で大型のトラック等も多く行き交う為、道路はえらく空気が淀み埃っぽい。ディスカウントショップ『三栄』はここに店を構えていた。
産業道路や国道沿いにディスカウントショップを構えるよく考えられた経営戦略だ。日用雑貨や家具は勿論、業務用電気機器等も取り扱う。
大型家電量販店の類は結局、来客の殆どが車によるもので店の正面に大きく開けた道路があり駐車場をしっかり構えている方が御鏡市のような大都会になりきらない町では集客が得られる。
三栄もそれに倣っている、というわけだ。
そこディスカウントショップ三栄の社長という人は江戸の商人がこれ、といった感じの来客に対しては物腰が低い一方どこか強かな、仕事にはきっちりとしていて従業員に程よい緊張感を与えられる人だった。
仕事の外でも愛想と愛嬌を持ち合わせていて上谷は「天職なんだろうな」と心の底から思った。三栄はこの社長の個人経営ながら、正社員を五名に、そしてパート・アルバイトを現在で二十五名ほど。
しかしながら、この三栄と言う店のアルバイトは男手が妙に少ない。実に上谷を含めた二名以外は男手は正社員しか雇用せず、接客は女性中心の方が集客力が良い、というのが社長の方針だ。
職場に着いた上谷を真っ先に出迎えたのは三栄では数少ない、男子アルバイトの一人であった。
「おう、来たか上谷」
待っていた、ということは直ぐに与えられるべき仕事が有るというわけだ。上谷は「何かやるの?」と聞くと青年は満面の笑みで親指を立てる仕草をした。
「とりあえず着替えてこいよ」
着替えと言っても男子には更衣室などは設けられていない。男子作業員は私服の上から配布されたジャケットを羽織るだけだ。
代わって接客中心の女子アルバイトには見た目にも一通りの一式が揃えられている。厚手の白と黄緑色のチェック柄の前掛けに白のブラウス。キュロットの上からは緑色の腰巻をして、頭にはペイズリー柄のバンダナを被った。身なりも接客に大きな影響を与えるのだと社長は注意を払っている。
この三栄女子アルバイトの正装が地元の女子高生の間で密かに有名らしい。三栄では卒業シーズンを迎えた後には、直ぐに新しい世代の女子高生アルバイトが面接にやってくる。その為、この店では基本的に女手に困ることが無く、またパートには古株の熟女達が席を構えているから『女子特有の治安』もここ三栄では表向き安定している、というわけだ。
女子更衣室は店の裏手が駐車場兼、搬入口となっておりそこから二階に上がる階段がある。店の二階にあるのは正社員用の事務所と女子更衣室だけで、営業には一切使用していない。
搬入口の隅には六畳半程のプレハブの物置小屋が建てられていて、ここが工具資材置き場と男子の休憩室、そして従業員達のタイムカードが備えられている。
上谷が店の裏手に回ると直ぐに廃品の山が目に入った。恐らくは何所からか回収してきたのであろうそれを見て上谷は出勤一番の仕事を把握した。
今ではディスカウントの冠を付ける三栄の前身は真の『バッタ屋』である。商品は新品も中古も取り扱うし買い取りも行う、引っ越しの業務も受け持つこの店は今の社長が一代で築き上げたものだ。
プレハブ小屋の引き戸を開けると室内には敷居が設けられてありそこに社長と他の社員が三名、円になってちゃぶ台の周りに座り込み煙草を蒸かして休憩をしていた。
「おはよう、上谷君」
社長が言い、社員三名も空いている手をひらひらさせて上谷に挨拶をした「おはようございます」と上谷は四人に頭を下げてから入口に設置してあるタイムレコーダーに自分のカードを入れ出勤を申告する。
時刻は午後四時四十七分。上谷のような夕方出勤のアルバイトは実質の出勤時刻を午後五時で義務付けられている。五分前ともなると女子高生のアルバイト勢がプレハブ小屋に出勤の申告をするために列を作る。その混雑を回避するように上谷は早めにタイムカード付ける様に心掛けていた。
それから小屋の隅の方に教材の入った鞄を置き、私服の上着を脱いで仕事用のジャケットを羽織った上谷に社長が言った。
「表の廃品の山は見たかい?あれの使えるのと使えないのと玉置君に指示を出しておいたから、二人で片付けちゃって」
「分かりました」
そう言って小屋の表に出た上谷を待っていたのは、先程の男子アルバイト、玉置正也であった。
玉置は三尺ほどの大きな土木作業用の大槌を持ってくるとそれと一緒に軍手を一つ上谷に手渡した。
「そこにいらない家具類を別けといたから、これで細かくしてからゴミにまとめてくれ。俺は電化製品の直せそうなやつ見てくるから」
玉置は上谷と同い年だったが仕事歴はもう二年ぐらいになる。パートタイマーの主婦勢を除けば若手のアルバイトの中では一番長く三栄で働いていた。
高校はというと、どうも中退したらしく朝から三栄で仕事をし、その働きぶりは正社員並みであった。女子高生バイト達から付けられたあだ名が「バイト番長」で普段、女の子達から番長と呼ばれている。
「お、上谷。女子高生がおいでになったぜ」
言うと玉置は廃品を分解している上谷の肩に肘を掛けてもたれかかった。上谷はそれに構わず大槌を振り回すので玉置は思わず肩をすくめる。
「おはようございまーす」
女子高生達が上谷と玉置に向かい声を揃えて挨拶すると二人は手を上げて応対した。
「いやあ、女子高生は良いねえ。上谷君」
階段を登っていく高校生達を下から眺め、上機嫌な玉置へ少々げんなりとした様子の上谷である。
と、咄嗟に一人が勘付いたのか後ろを振り返って大声を出した。
「あー!今、番長スカートの中覗いてた!」
その一声に反応して女子高生全員が振り返ったので玉置はお手上げのポーズをとっておどけてみせる。
「いやいや、見てたけど見えてないって」
「それ見てたじゃん!」
「君達があんまりにも可愛いから思わず目が向いちゃったんだよ」
この後に及んで大袈裟に振る舞い歯の浮く様な冗談を言えるのは玉置ならではと言えた。実際、女性の扱いに慣れているのか否か、玉置は異性として見ているという事と性欲が有るという事を上手く使い分けて発言出来るようで今も、階段の下から見上げる女子高生達にはそれほどの剣幕は立てられていないようにも窺える。
それからやりきれずに一人の女の子が「スケベ番長」と最後の悪態をつくと全員が更衣室へと入って行った。
みんなが居なくなった後に喉を鳴らして苦笑する玉置に上谷は一旦、大槌を振るうのを休めると長い溜め息を鼻でついた。
「あのさ玉置……君、仕事したら?」
言われた玉置は頭を搔き毟り「へいへい」と歯切れの悪い返事をして家電売り場へと向かう。それを後ろで見送ってから上谷はもう一度その鼻を通して、そして先程よりもずっと長い諦念の溜め息をつく。
それは、玉置やアルバイトの女子高生達に対し向けたものではなく、
人のコミュニケーションそのものに対して、だ。
上谷は他人に対して気を遣うのも苦手だが反面、自分に対して気を遣われる事も苦手だった。だが後者は言うなれば後天的な理由である。
「自分は他人に気を遣われていないから、自分も他人には気を遣わない」そう思うことでそういうことにしようとしているのだ。
利己的で保身的な考え方が基礎に在る人間が常に抱く慢心。
そういった者達が、己の欺瞞を正当化する為に生むある一つの世界観。
「被害妄想」とは被害が先にあって形成されている。そしてその被害は対となる本質が『嘘であれ現実であれ』その人、本人の真実となりうればそれでいい。そこには自律性など全く皆無だ。
自分の存在を現実に結び付ける「自己形象」とその心のバランスとが臨床でいうところの自律性という人の持つ心の機能である。そしてその自己形象とは他者存在からの認識・承認がなければ成り得ないというのが定義となっている。
だから結局、上谷が抱いている感情は、現代人にありがちの典型的な承認欲求からなる反動形成だ。
人は社会生活をしていく過程で次第に他人を認識しようとする能力を身に付けていく、即ち自分と他人の違いであり、自分を形成する情報や他人を形成する情報の違いをだ「誰かから認められたい」と思う感情は、ここから生まれている。
承認欲求には「他者承認」と「自己承認」の大きくこの二つに分類される。広く、他者承認は「他人」の求める(見ている)水準に自分が適っているのかどうかを考える欲求で、自己承認は自分の求める水準に他人が自分を見ているのか(また実質的に自らが足りているのか)を考える欲求だ。
こういった欲求は『見る側と見られる側』双方の個々の生活環境や性癖などを突き詰めて分解していけば、結局限りはなく最終的なところは「他人」の解釈に依存をしていて取り留めの無い感じである。
他者によって承認する自己形象は確証が不安定で、それを知る主な手段は人とのコミュニケーションだ。だから尊重すべきはその他者である筈だが、自律性の乱れた現代病では他人を尊重することなどまして出来はせず、そこを危険な被害妄想でバランスするだろう。
上谷がコミュニケーションに溜め息をつく時、一人身勝手な被害妄想をたてている。
「僕が仕事をしているのに、彼らはおしゃべりをしていて仕事をしない」といったふうに、だ。
休めていた手を再び振るおうとする上谷の後ろから「あー、言い忘れてた」と玉置が声をかけてきた。
「木製の家具分解するときによ、木片が目に入らない様に気を付けろよな……てか、お前の場合…」
玉置は上谷を指差し「眼鏡してっから大丈夫か」と歯を出してにんまりと笑った。
元々、イギリス国の政策用語として使われていたニートと呼ばれる単語が日本で一般認知されるにあたり「日本における若年無職業者問題」を示す言葉として扱われるようになった。
上谷もこのニートという単語に自分自身の姿を照らし合わせることぐらい、日々の中に何度もある。
だが「彼にはそういったものは、無いのか?」などと、上谷は玉置を見ていて思う。
「玉置、君さ……」
「何だ?」
上谷に声かけられた玉置は少しきょとんとした様子で続きの言葉を待った。
「君、今時変ってるよね」
言われて玉置は腕を組み、そして眉間にシワを寄せて言われた言葉の意味、その内容を考えていた様であった。それから何か思い当たったのか、ぽんと左の掌を右手の握り拳で叩くと「まあな」と何故か得意げに答えるのであった。
意味解って言っているのか?と上谷は思ったが、他人から変わっていると言われて喜ぶ玉置を上谷は今一度、変わっているなと思った。
午後八時にもなれば外は当然の様に真っ暗で産業道路を行き交う車の群はライトを光らせて走り、忙しなく見えた。
閉店作業に取り掛かった三栄はまず店頭に出展している商品の内の、大型のものを男子群が店内へと運ぶ。それらは道路に舞う砂埃に晒されるので、これをアルバイトの女子群が清掃する。後は少し店内を片付けていけば時間は各々が忘れている間に午後八時半、本日一日の業務は終了した。
正社員は明日の打ち合わせや毎日の売り上げの集計作業等、諸々を行うため仕事の上がりはそれよりもまだ後三十分程は遅れる。アルバイトの方は午後八時半から十五分間にタイムレコーダーの申告を済ませるよう、義務付けられている。
上谷と玉置はプレハブ小屋で女子バイト達が退勤の申告を終えた後、店内にまだ残務で居残る正社員を後目に、二人で一服することを日々の暗黙の日課としていた。
そこのちゃぶ台に二人が胡坐をかいて座る。
小屋の隅には業務用の箱丸ごと安物の缶コーヒーが置かれてあり玉置はそこから二本を取り出すと一本を上谷に投げて寄越す。御礼も言わず上谷はそれを受取ると二人は無言で缶を開けた。
「相変わらず不味いなぁ、これ……」
上谷がぼやくと玉置はけけっと喉を鳴らして笑う。
未成年喫煙も特にない二人。プレハブ小屋で一息吐くのは実は女子バイト達の群れが引くのを待っている為だ。
上谷がプレハブ小屋で少し時間を濁している習慣を目にした玉置は、普段何処かひょうひょうとしていているが一方で抜け目なく周りを観察している様子の、上谷には玉置がそんな風に見えることがある。玉置も上谷のこの一息に自然と付き合うようになっていた。
安物の不味い缶コーヒーの最後の一口を上谷が呷ると二人は、さて帰るかという雰囲気になる。
その時突然、勢いよく小屋の引き扉が開かれた。
ぎょっとする上谷と玉置を後目に、言うが早く女子高生が一人小屋の中に入ってきて真っ直ぐに入口に設置してあるタイムレコーダーに時刻の申告を行う。
カードを切ると一段落したのか、女の子は上谷と玉置に向き直り、えへへと照れ笑いをして見せた。
「退勤押すの、ギリギリ間に合いました」
如何にも今時の女子高生という感じの女の子である。化粧こそまだ幾分大人しい方であるが、勢いのある行動や言葉使い等、上谷にはどうにも苦手としている点も多い。
「二人とも帰らないんですか?バイトはみんなもう上がりましたよ」
女の子は敷居には上がらず短くしたブレザーの学制服の、スカートの裾を気にしながら、土間と敷居の上がり框に腰を掛ける。ああ、と玉置は相槌をうってから自分の携帯を見開き時刻を確認する。
「いや、そろそろ帰ろうかと思ってね。愛理ちゃん、コーヒー飲む?」
玉置が聞くと「歯が汚れるし、それすっごく不味いからいらない」と北条愛理が言った。現役の高校二年生の言葉に玉置は逐一、一人うむうむと頷いている。
「愛理ちゃん今時の子にしてはしっかりしてるし、喫煙もしないもんね。感心感心」
「私、スケベ番長と違って良い子なの」
頭を搔き毟り玉置は「参った」の仕草を取る。北条は玉置のその様を見て夕方の事は充分仕返ししてやったと思ったのだろう、満足そうな様子である。それから北条は続けて上谷の顔を覗き込んでいった。
「上谷君、私って良い子?」
選択の余地が無いかのような質問に「ま、まあね」と詰まって答える上谷。それを察した北条がむうっと上谷を睨みつける。
「仕事も沢山こなすし、接客態度も良いしね」と上谷は慌てて付け加えた。
北条の顔がまた直ぐ明るいものにと変わると、上谷は空になった缶コーヒーを飲む振りをしてそっと胸を撫で下ろしていた。そんな上谷を見て玉置は「ざまあみろ」と声を出さずに茶化してやる。
上谷の渋い表情から何かを感じたのか北条は玉置に向き直る、が玉置は咄嗟に何事も無いかのような態度だ。
「さて、飯でも食って帰るかな、上谷はどうする?」
切り返しが早い。上谷は溜め息の出る思いであったが、これ以上喰ってかかる気も湧かないので、ただ「そうだね」と答えた。
「二人とも、ご飯作らないんですか?」
北条に言われて上谷と玉置は顔を見合わせる、上谷が「出来ないって事は無いけど……」と言いかけ玉置が、
「一人暮らしで何か作ると使った材料が余って消化しきれないんだよな」
「そうそれ、また次の分を作ると……まあ、永続的に材料が使いきれないんだよね」
ふうんといった感じで聞いていた北条は両手の指先と指先とを合わせて、何か言うタイミングを窺っていて人の話しが耳に入っていないような素振りである。
「上谷君……今度さ、私がご飯作ってあげよっか?」
思わずぎょっとする玉置に、だが当の上谷が呆けた様子なのだ。
「面倒をかけさせるから、遠慮しておくよ」
上谷には北条から言われている言葉の意味がまるで理解出来ていないのである。飽きれた玉置は北条の後ろから今度は「鈍い奴!」と声を出さずに上谷に言ってやった。
その強い気配を感じて、北条は再び玉置に向き直る。
「もー、さっきから何を二人でコソコソしてるの!」
だが、したり顔の玉置。
「何でも無いって、さあ帰ろうぜ」
腑に落ちない上谷と北条はだが、玉置が仕切るとそこはかとなく流れに従うのである。ここは玉置が他のアルバイトから呼ばれているバイト番長が故であろうか。
三人がプレハブ小屋の表へ出てみれば搬入口の大型照明は既に落とされている状態で、明かりは臨時灯と月光が換気口兼用の窓から差し込まれている薄らぼんやりとしたものだった。
月明かりに照らされ、夕方に上谷が分解していた家具類の残りが玉置の目に留まる。その中の一つにある大きなクローゼットは何とも、あちらこちらに子供向けのお菓子に付属されるおまけシールが貼り巡らされ、これはもう中古商品としては扱えない様な廃品が残されてあった。
「その食玩のシールって、昔に流行ったものの復刻版かな?」
玉置の視線に気づいた上谷が言った。玉置はただ「そうだな」としか相槌を打たなかった。
このクローゼット、何故ここにあるのだろう?
こういった一生ものの大型家具が果たして、一般の家庭で買い替え時期をいつか迎えるだろうか。
処分したのは、子供の卒業、就職、結婚等で実家を出て行ったから?然し、この食玩のシールは最近の世代のものだ。
長くバイトをしている玉置には、物から上谷と北条には感じ取れない記憶が分かることがある。
「二人とも、早く帰ろうよ」
北条に急かされる玉置の回答は決して良くないものを想像していたが、ある一つの経緯について他の者が多くを語れはしない。
「……離婚か夜逃げか……世帯だった家の祖父母が亡くなった、後は……自己破産か」
現実はいつも儚い。




