─16─
人々が彩る年末の街並みとは大分代わって、大学のキャンパス内といえばその学生の姿はまばらなものであった。そうでなくとも今は大学が正式な冬季休業となっていて敷地内は閑寂としたものである。
今日の空を埋め尽くす灰色の寒冷前線は、そこ一帯を悲しげなコンクリート色に染めあげていた。サークル連棟へと入り廊下を歩くと空気の冷たく乾いた、上谷の足音ただ一つだけがそこで木霊している。
冬に全てが凍りつく、ある渓谷の物語。
春になると訪れるハーモニカ吹きの親友は毎年何処か見知らぬ国の、聞き慣れない曲を持ってやってくる。
冬眠する精霊の主人公はある冬、ふとして親友を待ちきれずに目を覚ますのだ。
だがそれは、決して早過ぎた起床では無い。彼が自身で生まれて初めて雪の中に眠る冬の世界を体感するきっかけとなるものだったのだから。
部室は相変わらずの油と炭の混ざった様な匂いでいて、昨日とまるで同じ状態にあった。この部屋の時間だけが他と違ってずっと取り残されているかの様な、上谷にはそんな錯覚さえ覚えていた。
上谷は明智の描いた自分の肖像画をこちらに向け、それからいつもの椅子に腰を降ろす。未完成の肖像画、そのカンヴァスを斜めに構えて描くべきあの子の表情を上谷は文字通りじっと、心の中に思い描いてみるのだ。
それは最初、朧気であったが次第にはっきりと、そして上谷を呼ぶその声さえ今はよく聞き取れていた。
何故忘れていたのだろう。
いや、何故忘れたふりをしていたのだろう。
けれども気づいてしまった。
今、自分は気づくことが出来た。
秘められた過去とか結論といったことではない。そんな事は元よりどうだってよかった。それは現実よりも尊く、偽りよりも儚いこと。そして自分が視るこの世界において、最も大切にするべき感情であった筈なのだから。
それに気付かないふりをしていたからこそ、そしてそれを忘れたふりをしていたからこそ、自分はこの事を見失っていたのだ。
明智未来。
彼女の描く肖像画の青年はただ真っ直ぐに上谷を見つめていた。上谷は掛けていた自分の眼鏡をゆっくりと外し、その肖像画の青年に焦点を合わせてみる。
最初、左右に別れてぼやけていた景色が次第にその中央で溶け合って、実に一つの立体的な空間を作り出し、そしてその肖像画の青年を今はっきりと視覚として捉えていた。
明智が視ていたのはいつだってこの青年だった。だが青年は決して何も見ようとはせず、また決して何も聞こうとはせず、ただ一人黙し未来が変わるのを待っていた。
象牙の塔。
一人じっとそこここに籠り、そして得たある一つの解釈。
それを思い出すかの様にそっと目を閉じると上谷は深い深い夢の中へと誘われていった。
夢想。
空虚にしてそれは上谷が対峙する唯一無二の真実。
アイツは自分の名前が嫌いだった。
まるで女の子のようだとよく周りから馬鹿にされていた。
上谷が視るアイツの姿は、今はまだ小学生のようである。夢というのは常に主観的な映像だ、といつかやっていた配信チャンネルが言っていた。だから自分とアイツを切り離して考えようとするこの心理こそが自身の真実を見えなくしてしまったその本質であり、そして今それをはっきりと現わしていると理解できる。
明晰夢。
自分は夢を視ているのだな、というこの実感。その間、明晰夢というものは実に自身で夢の内容を自在に変更することが可能であるのだとか。
その手の専門家や精神カウンセラーによれば、明晰夢は訓練次第では自分から任意で視ることも出来るようになる様で、そういった技術を精神病の治療やストレスの緩和などに用いている。
だから今の上谷にとってはアイツの周りに鷹る子供心にも残酷な小学生達を追い払うことは訳の無いことのはずだ。
だが、そうはしない。
今、上谷にとって重要なのはこの真実に向き合うこと。未だその夢の中に眠る、いや眠ったふりをしていると言った方が正しいのだろう。その真実なる想い。
上谷には乖離性同一性障害なんていう器用な真似は決して出来はしないから精々、忘れたふりをするか、見ていないふりをするか、聞いていないふりをするか、
その程度のことだ。
そしていつか現実とすり替わった。
アイツを取り巻く小学生達。アイツはただ黙っているばかりで反抗する術を備えてはいなかった。
「アイツ、女みたいな名前しているんだぜ」
男の子の一人がアイツを吊るし上げる。何か会話の拍子に他の誰かに白羽の矢を立てて影口や因縁を付けるのは、大人も子供も同じだ。
「お前、自分の名前言ってみろよ」
別の子が煽りを入れる。
それでもアイツはじっとして、黙っているだけだ。
「言えって」
襟首を掴まれ振り回される。真新しいシャツはいつでも一日で駄目になった。今、これは何枚目のものになるのだろう。
ものを考えるのが、すごく面倒くさいってアイツは思う。
だから自分には何が起きても、誰に対しても、いつでも黙ってる。
「こいつ、つまんねえ」
「女みたいな名前してるから、男の俺達とは喋れないんだ」
「男でも女でもないよ、こいつはオカマなんだ」
「この、オカマ」
全員でアイツをまくし立てる、でも言葉は右から入って左から抜けていくだけだった。
それからしばらくしてアイツをいびるのに飽きると、他の子供達はアイツを一人残して散っていく。
「こいつ、やっぱりつまんない」
「お前なんか、学校に来るな」
そう言われて突き飛ばされた肩は痛くも痒くもなかった。
ただ、
「貴方はどうして着ているものをいつも駄目にするの?」
後でいつも母親に怒られている。
上谷には、自分はアイツをしっかりと見届けてやる責任が在るのだと、今は新たにそう思う。
夢の中にのみ存在するアイツ。
違う、自分が夢の中に閉じ込めたのだ。
そして今の上谷にはアイツに触れることは基より、その過去を変えるなんてまして出来ない。
──視る、
ただそれだけ。だがそれでも今の上谷にはそれはとても重要なことなのだ。
そうしてアイツを最後まで見届ける。
しばらくすると、何処からともなく女の子の呼び声らしきものがその耳に入ってくる。
でもそれは、上谷にもアイツにも、よく聞き取ることが出来ないぐらいに遠くの方から聞こえてくるものだった。
黒い学生服を身に纏い、窓際の席に腰を降ろしている。ただぼんやりと教室の外の景色を眺めていた。
黒板に描かれている文字はまるで意味が難解でそれが何を指し示しているのかアイツには全く理解も興味も無かった。クラス全員が聞き入る教師の話す単語の中には時々、人間のものとは到底思えないような発音で放つ言語がいくつかあって、恐らく自分と彼らとは別々の生き物なのだろうとアイツは感じずにはいられなかった。
そんな自分を見る教師達の視線が冷ややかである事も充分承知であった。
赤い西日が教室に差し込む。気がつけば窓の外はいつの間にか夕暮れへと移り変わっている。
アイツ以外の誰一人として居ない教室にグラウンド側から体育会系運動部の声が木霊する。教室には西日が入るとはいえ流石に肌寒さを感じる時間帯になっていて、アイツはようやくその重い腰を上げることにした。
登下校時でのアイツはいつも手ぶらで教材は机の中に入れっぱなしだ。間違いなく自分には不必要なものだと思った。廊下ですれ違う教師達がそんなアイツを訝しげに見やるその眼は、まるでゴキブリを見ている様なそんな感じだ。
自分の身近な大人達が自分の目と耳の届かない所で悪意を伝染させている。そのことはアイツの社会に対するわだかまりを更に助長させるのである。
小学生の頃にあったアイツの周りからのいじめは、今では無くなっていた。
中学校に進学して、それから少し背が伸びた。理由はそれだけだった。
昔の知った顔の人間が自分を差し置いて熱心に勉学に励みだしている様がアイツの目には妙に滑稽に映っていた。その一方でアイツは、周りが自分から奪っていった貴重な時間がもはや取り戻せないものだと悟ると、日々社会に対して異常な復讐心を駆り立てられた。
いつも何かに憤りを感じて生きている。
廊下で目が合う学生、学校の教員、公園ですれ違う子供、ゲームセンターのオタク、疲れ果てたサラリーマン、道端に駐輪している自転車、公共の植木、薬局店のマスコット、工事現場のコーン、電柱の捨て看板、メディアに映る芸能人やそのポスター。
幼馴染のあの子はアイツを心配していた。
「何でそうやって何かを壊そうとするの?」
「別に、つまんねーから」
「面白くないからって周りの物に八つ当たりするの?」
「先に周りの奴らが俺の時間を奪ったんだ。だから他の奴らだって、何かを無くしたっていい」
「…それって良くないと思う」
「俺だけが取り返せないものを無くして、他の奴らは何も失わないなんて不公平だろ」
「どうしてそういう考え方になるの?そんなの間違えてるよ」
「悪いのは周りの連中なんだよ。俺は悪くないね」
「それは、絶対に違うよ」
「違うって?どんなふうに?俺には後味の悪い過去ばかり社会から与えられているのに、でも他の奴らは普通に生活をしていてもいいなんて、そっちの方がおかしいじゃないか」
「もう昔のことは終わりにしてもいいじゃない」
「昔じゃない!今もなんだよ!」
「でも、それは今の周りの人達には関係ないことだよ。それに昔のことにこだわってたら…これから先で、きっと今よりも、もっと時間を無駄にしちゃうよ」
「昔も今も関係ないね、どうでもいい。俺は周りの奴ら全員が均等に不幸じゃなきゃ気が済まない」
「私が貴方の心配をしているのは、昔や今のことじゃないよ……」
あの子の切ない表情は、アイツの目にはもはや映っていない。
「未来だよ?」
言葉がただ虚しく宙を舞う。
「いつも、辛そうな顔してる」
校門を出て赤く染まった空を見る。そこにはうっすらと自分の影法師が映っていてまるでそいつが自分のことをあざ笑っているような、そんなふうにアイツは思った。
軽い飛蚊症だ。
ヴィア・ドロローサ。
茨の冠、背には重い十字架を。
ゴルゴダの丘を逝くイエスの様に、
その心を貫くのはロンギヌスの槍。
何に対してなのかは解らない。
ただ、悲しかった。
中学校を卒業する時に、みんながこぞって綴り合っていた色紙の寄せ書き。
自分はただ誰に何を書いてもらう事も無く、白紙のままのそれをそっと、
もう戻らない机の中へと置いて行った。




