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いつだって難癖をつけて物事の荒探しをしていた。
だが最近はそれすらも面倒に感じている。何しろ自分ばかりが時間や労力を使うので、むしろ生きていることそのものが馬鹿馬鹿しく思う。
自分が存在していることが紙一重だ。
色んな事が周囲で混ざり合っていてどうにも身動きがしにくい。身の回りの悪意というものが常に悪循環をしていた。更には敵となる者を寄せ付ける性質が自分にはあるらしい、とアイツは自らを分析する。
今週末にも、アイツは宛ても無く街をぶらぶらと徘徊していた。すると向かい側から如何にもそれらしい形の悪い三人組の学生がやって来るのが目に入った。
マーフィーの法則というものがある。
アイツの嫌な予感というのはなかなかの的中率があった。向かい側の三人は歩道を横一列に並んで歩き、喋り合いながら正面などまるで気にもしていない様子だった。気付かずに真っ直ぐ歩いて行けば肩ぐらいぶつかるかもしれない。だが、寸でのところで身体半身分外側に避ければ良いだけのことだ。そう思っていた。
それが良くなかった。
突然、死角だった彼らの後ろ側から自転車に沢山の買い物袋をぶら下げた中年熟女がアイツの正面に飛び出してきたのだ。
反射的にそちらを避けると、都合の悪い事にアイツは三人組のうちの一人とぶつかってしまう形となった。
嫌な雰囲気を作り出す。
喧嘩になりはしないだろうと高をくくっていたアイツは、何しろ謝るということが出来ない若者の象徴だ。口論していくうちに相手の気性が荒くなっていくのが解った。流れが非常に不味い。
向こうのうちの一人がアイツの襟元に掴みかかった。
「貴方はどうして着ているものをいつも駄目にするの?」
その言葉が頭の片隅を過ぎる。
だからそれを強く払い除けた。
それが口火を切る合図になったのだ。
一対三での喧嘩の何処に勝ち目などあるのだろうか。袋叩きという言葉が相応だった。退屈に満ちたこの街で起こる久しぶりの勃興行事を誰が止めに入ろうとするだろう。
行儀悪く歩道を歩く三人の学生にも、ふらふらと右に行くのか左に行くのかも解らない中年熟女の自転車にも、ただ一つの罰も与えられず。
もし、人間にはそれぞれ運命的な役回りが在るのだとすれば、それは何かとてつもなく理不尽なもののような気がしてアイツにはならないのである。
いつだって周りの踏み台になるのは、自分の様な人間の役回りなのだ。ただそう思って、彼らが殴り飽きるまでアイツはじっと耐えるしかないのだ。
最後の拳の後に何か捨て台詞を言われたようだが、もはやその言葉すらアイツの耳には届かないほど意識が遠のきそうであった。
自分がまるでボロ雑巾だ。
周囲の視線を集めているのが悔しくて、表通りを歩きたくなかった。身体を引きずり、人目を避けて路地裏へと隠れ込む。
影に向かって一歩踏み込めば、足もとにいたゴキブリが数匹、アイツから逃げる様に四方へと散った。
自分もこいつらとそう変わらない。
アイツは崩れ落ちるようにそこへ座り込む。じめじめとした湿気とカビ臭さを感じたが居心地はそれ程悪くないと思った。きっとこれぐらいが、自分にとっては丁度良い環境なのだろう。
少しでいい、痛みが引くまでは此処で。寄りかかる背中には、ビルの壁の冷たい感触。
一昔前のテレビアーティストが比喩するところのコンクリートジャングルにはこの街はまだまだ程遠く発展途上であったが、近頃ではこのようなビル群も立ち並ぶようになったのだなと、アイツはその硬い岸壁の隙間から僅かに覗く空を仰いだ。
その眼に映るのは今再び、あの影法師。
あざ笑うそいつを厄介に思って、アイツは自らの目を瞑った。けれども影法師の姿は消えるどころか瞳の中の暗闇でより一層その存在を増すばかりである。
逃げる様にして、アイツは深い眠りへと堕ちていく。
しかし何故なのか、
意識が途切れるその最後。昔懐かしいあの子に心配されている様な、そんな気がアイツにはしていた。
何をしていても退屈だった。
それは何をしていても不満へと変わった。
最後には何をしていても不安になった。
始めの頃は外科か何かの病室のベッドに寝ていて隣のベッドには足に大きなギプスをしたガテン風の男性や、向かい側のベッドには頭部を包帯で巻いてその上から網目の医療用のニットをした、如何にも亭主関白そうな五十歳前後の男性の姿などがあった。
それがいつの間にか自分ただ一人だけ病室を移されたかと思うと、簡素ながら清潔感のあるそこそこの間取りの、あえて表現するならば真っ白な箱の様な部屋を一人で貸し切ったような状態で、そしてそれからずっと、そこでぼうっとしている。
右肩に包帯が巻かれていて、そういえば街頭で情けなく意識を失った。あれから何日経ったのかさえ覚えていない。というよりかは解っていない。
相変わらずものを考えることに酷く疲れ果てていた。だから暇な一日を絶え間ない白昼夢で過ごし、夜が来ては寝た。何故此処に自分が居るのかという理由は解らなかったが、あえて他人を避けられる選択肢があるのだとすれば、その人生は今の自分にとって、とても叶っていることだと心の底から思った。
「貴方は駄目な子だからしっかりしないと」
よく母親に言われた。
「ほら見なさい、失敗したでしょう?貴方は駄目な子なんだから」
新しい事に挑戦すると、いつも言われた。
「貴方は駄目な子なんだから、周りに負けないように人一倍頑張りなさい」
試験や催し事があると、それを当たり前のように言われた。
駄目って?何が?
自分は何をするのにも、そして何をする前からでも駄目な子だったな。そう思ってふと、真っ白なこの部屋の天井を見上げてみる。
そこに映る影法師の姿に、飛蚊症が生んだ虚像の幻影でありながら、またアイツなのかとむしろ親近感すら覚える有様であった。
こつこつと、ドアをノックする音がする。
「上谷さん、面会に来てくれている人が今いるんだけど…やっぱり逢わない?」
部屋の外から細い女性の声がする。だが返事は返さなかった。
「ほら、幼馴染だっていうあの女の子。今日も心配して来てるわよ?」
やはり返事はしなかった。
それから「解ったわ」と扉越しに残念そうな溜め息をつくとハイヒールの高い足音が遠くに歩いて行って、それがしばらく聞こえなくなるまでは、ひっそりとしたグラデーションを余韻に奏でた。
「何故、逢わないんだ?」
アイツの声がした。
逢うって?誰に?
「あの子が、来ているんだよ」
誰のことだか、全く覚えが無い。
「小さい頃から心配をしてくれていて、ビルの隙間で蹲っていた時にだって、見つけてくれたじゃないか」
さあ、知らないな。
なら君が逢えばいい。
「違うよ!目を覚ませ!あの子に逢うのは君じゃなきゃいけないんだ」
どっちだって同じことだろう?それに、それを認めてしまったら、君の存在意義は無くなってしまうよ。
「無くならない、無くなりはしない。だって今は解るんだ。自分の、嫌いな部分やコンプレックスも全部ひっくるめて…自分という存在であるんだって」
何で?どうしてなんだよ?
上谷が聞いた。
「気づいてしまったから」
するとアイツは静かに言った。
それは忘れたふりをしたのだとしても、視えないふりをしたのだとしても、今再びお互いが同じように感じ取った。
「君の胸に抱く想いと、僕の胸に抱く想いはどちらも一緒だから」
そうして上谷は対峙したのだ。
それは自らを支える、ある一つの概念。
自分自身の強さと弱さと、
振り返る過去の成功と過ちと、
未来に抱く希望と不安と。
もう目は覚めている。眠っていたのはほんの一時間と少しといったところか。そういえば人間の睡眠時における一回ごとの夢の周期というのは九十分単位なのだとか、明智が言っていた。
今はまだ上谷の正面に飾られているカンヴァスのその絵画は仕上がっていない。
けれど、もう決してあの子の表情を見失うことはなかった。筆を取れば、どうやってその絵を描いていけばよいのか、どうやってその表情を描いていけばよいのか。身体で感じそして意識で感じることが出来た。
斑模様に薄汚れた、絵の具の跳ねたパレットがその絵の配色を創造する。何が必要で何が必要では無いのか、また必要であるものと必要では無いものの意味を、上谷は今はっきりと理解していた。
自分自身という一人の人間はこの社会を変えられる様な大した人間ではないけれど、自分の身近な領域だけならば言葉一つにしてみても少しの努力でその未来は変えられる。
「お前は言葉に対して不用意なんだよ」
玉置に言われたことを思い出して苦笑した。そんなあまりにありふれていたことに気づきもしなかったから。
後で北条には朝のことを誤っておかなくてはね、上谷はそんなことも考えて。
それからの筆の進み具合は軽快そのものだった。驚くほど集中していた上谷がついにその肖像画を描き終えた時には部室の外は既に日が落ちていて時刻は午後六時を回っていた。
上谷は自分の携帯を取り出し、そこから彼女の登録名簿を見開く。
SNSではいけないと思った。
声に出して言うのが大事なのだ。上谷は登録されている明智の番号を確認すると間違いなくそれを発信する。
コール音は六度鳴った。
「もしもし?」
明智のか細い声。それから少し、向こうの雑音が上谷の耳に入る。
「今、電話大丈夫?」
「うん、一人だから。上谷君、珍しいね電話なんて」
そういえば明智に電話をかけたことがあるのは何カ月ぶりぐらいだったか。
「ああ…絵を、君の絵を描き終えたんだ」
「え、本当?手抜きしたりしてない?」
明智は上谷を茶化したりしてみせたが、
「逢いたい」
「え?」
「君に逢いたいんだ」
上谷がはっきりそう言った。思わぬ事を言われたのか、電話越しの明智の表情は上谷にも解らないが、少々沈黙したまま戸惑っていたようである。やがて、
「…うん、大丈夫。今ね、駅にいるんだけど。どうしようか?」
「直ぐ、そっちに行く」
「えっと、場所…」
明智がそう言いかけると上谷は「いつもの所」と言って不作法に電話をきった。
そして上谷のその足は、既に自らの真実に向かって駆け出していたのである。
学校を抜けて街に飛び出せば周りは三六〇度に渡ってクリスマス・イヴのイルミネーションに包まれていた。だがもはや上谷がこの街に気後れすることはない。
人々の行き交う歩道、その隙間をすり抜け駅に向かい駆ける。
吐く息は白く、目に映る街の蛍光色、色鮮やかなネオンが人と街とその年末の催しをより一層に演出していた。
視界に広がるパノラマは幻想的、且つそしてリアルに。上谷の周囲を彩る聖なる前夜はだが、今日という一日をこの国とキリスト教を根源に持つその国とを間違いなく同じ一色に染めていることだろう。
もはや世界が曇っているなどとは思わない。そう思うことがその世界を曇らすということ、そして『想いの因子』が引き起こす奇跡を上谷は充分に理解していた。
赤信号に捕まった。足止めされている間に息を整える。別に急ぐ必要というのはなかった、そして明智はそうでなくても、いつだって上谷よりも先に二人の待ち合わせ場所に居て、上谷を待っているのだから。
だが、もう知らないふりをして動かないでいることなど我慢出来はしなかった。
自分という者の本質を知り、その弱き部分を認め、だが決してそれを改善出来ているとは言えないけれど、認めている事と認めていない事とは圧倒的に違っているのだ。
そして信号が青に変わると横に並んでいた誰よりも先に飛び出した。
頬を切る、冷たい冬の風よりも速く。
駅近くになればその雑踏は先程にも増して濃くなった。群衆を掻き分け駅の北口を目指す。
まだまだ大都会には程遠かった御鏡市だが、それでも自分達の求めているものが何なのか、それが解らないからこの街にも人々を募らせるのだろう。
だが自分はもう大丈夫。上谷は駅の北口の階段を一気に駆け上がっていた。
そして今、目の前には自分を待っていてくれる子がいる。
──明智未来。
息を切らす上谷に彼女がゆっくりと振り向き、そして彼の存在に気がついた。
「上谷君?」
戸惑ってその名を呼ぶ。
明智は上谷を見るなり少し驚いた様子で続く言葉を失っていたようであった。だがやがて白い吐息を小さく吐くとその懐かしさが偽りではないのか、聞いてみたのだ。
「…上谷君、眼鏡……」
「もう、いらないんだ」
はっきりと、そう言った。
しばらく二人の間を流れる冷たく凍えた記憶、沈黙。
そして明智がそれを理解すると、そっと涙した。
「ずっと、貴方のことを待ってた」
「ごめん、俺は…聞こえているのに聞こえていないふりをしていて。視えているのに視えていないふりをしていて……」
そう言って上谷は優しく明智を抱きとめた。
「でも俺は、いつどんな時だって、どちらであった時だって君を好きになったから」
だからこそ上谷美紀は今、此処にいる。
「俺の願ったこの想いは嘘でも現実でもない。間違いなく自分自身で選んだ、この世界の真実なんだ」
愛おしいその想いそして己の未来を胸に抱きしめて。今日という日の寒気を肌に感じれば、
もう訪れないと思っていたホワイトクリスマスが空からゆっくりと舞い降りて来ていたのであった。




