─15─
アルバイトをする為、いつもの通り三栄に着いている。時刻は午前九時二十五分、仕事始めの眠気覚ましに安物の缶コーヒーを一気に呷ると昨日の晩から食事を取っていなかったせいか、安物特有の酸味が胃を刺激する。だがあまりの不味さに目だけは少しばかり冴えた。
男性店員一同が揃い開店準備に取り掛かる。
流れに乗り出した上谷だったが調子はやはり上がらず、その気分は酷く悪い。目に映るものは天蓋に邪魔をされ視界を悪くしているような錯覚をし、全てがまるでくすんで視えた。
「どうした上谷?調子悪いのか?」
気にかけて玉置が声をかける「…少し」と歯切れの悪い返事で上谷は返すと、一人で黙々と自分の仕事を始めだした。
「駄目そうだったら早めに言えよ」
玉置の荒っぽくも優しさを込めた言葉。それは上谷にも充分に解っていたが、今の状態では頭が理解していたのだとしても、その心に受け入れるだけの容量がまるで皆無だ。
人間の相手をするのが面倒くさい。
ただ眉間にしわを寄せたまま、聞いているのかいないのかという風に、血の気の悪い表情がより一層深まって感じた。
それから今日出勤の店員が全員で集まり毎朝通りの締まりの入った朝礼を行い各々が各自の持ち場に着く。
もう本格的に年末に入り高校生バイト勢も大分頭数としてシフトの計算に入ってくるような時期になった。特に開店準備はあわただしいので人数は居るに越したことはない。朝から店員には若い顔ぶれも並び、その中には北条の姿もあった。
仕事が始まる。上谷は手持ち無沙汰になると、その葛藤と睡魔とで自分の気がふれてしまいそうであった。
とにかく何か身体を動かしていようと、手当たり次第に一人で勝手に行える雑用を探す。フロアや電化製品の清掃、中古木製家具のニス塗り、小物類の棚の仕分け、従業員用の資材置き場の整理。
しかし、そのどれもがそう長々と時間を潰せるような仕事ではなかった。昼の休憩を過ぎてからそれらに少し手を加えると、作業は直ぐに片付いてしまう。
こういう時にこそ、店の表へと出て行ける配達が何かないものかと期待をするが。店員の数が多い今日に限って、店内は閑散とした様子である。
仕事を探して上谷は店の中をぐるぐると歩き回る。
まるで夢遊病だ。
そんな自分の皮肉にアイツの姿を感じて、思わずぞっとする。
違う、この意識が自分のはずだ。
今、この視界こそが現実なのだ。
けれども上谷のその脳裏には、いつか玉置が語っていた台詞の連続再生が繰り返し行われている。
「何となくとってしまう行動だよ。社会性ってのは単に秩序を厳守しようとする無意識に限ったことではなく、そこにおいての自らの存在や価値観を保守しようとする無意識や生活環境への依存なんかも含んで言ってる」
依存じゃない、依存なんかしていない。
学校や仕事に行っているのは、自分の意識で決定している結果。
他の誰かや社会を揶揄したり否定したりする場面であったって、それは自分の意識で決定している結果。
ただ強く、そう思って、
しかし上谷のその胸には、何故か不快な気味の悪い感情だけが取り残されている。
思考の上手く回らぬまま、結局店の裏手から竹箒と塵取りを持って表にでるとそこで冬の落ち葉を掃き集めることにした。
上谷が思いつく最後の雑用だ。
流石に今日は三栄の社長ですら暇そうな仕草で首と肩を軽く回すと、渋い顔を見せて玉置に視線を送る。
「玉置君、何とかならんかい?」
「僕に言われましても…うちの店もこの業界じゃ鰻の寝床、と言いますか」
「そういう場面で使う言葉じゃないだろう、失礼だね玉置君。それにねえ、うちは頑張っている方だよ?」
すると北条が二人の会話に絡んで入った。
「何ですか?鰻の何とかって?」
「狭いって事」
玉置が言った。北条は不思議そうな表情をしている。
「え?この店って結構広くないですか?」
「おいおい、玉置君。北条君に変な事を吹きこまないでくれよ」
たまらず玉置を制した社長に「すみません、調子に乗り過ぎました」と玉置は少し意地の悪い笑い方をして見せた。
やれやれと社長は一度、苦笑いをすると自分の財布から一万円札を一枚取り出して北条の目の前に差し出した。
「今日は珍しく寒いし暇だしねえ。北条君さ、これで繁華街行って全員分の中華まん買ってきて。みんなからも注文聞いてきて」
「え、おごってくれるんですか?やったー」
そう言って北条はばたばたと駆けだすと、意気揚揚と従業員全員の要望を聞きつけて回った。
しかしただ一人、上谷の姿を見つけられなかった北条は、一旦店の裏の搬入口へ戻りそこから表に向かってぐるりと回り込んだ。そしてようやく上谷が店の入り口を僅かに離れた産業道路の歩道付近で箒をかけている姿を見つけることができた。
「あ、いたいた。上谷君」
北条が声をかける。
だが今日の上谷の心境は、その全てを鬱陶しく思う。
「何?」
「社長がね、みんなに中華まん御馳走してくれるんだよ。上谷君何がいい?」
鼻で溜め息をつく上谷。
「…何でもいい」
「え、でもせっかくだから」
何もかもが癪に障る。
「ならいい」
そんなことを口走っていた。
「え…でも」
「いい、いらない」
強い口調で北条を跳ね除ける。
北条は上谷にかける次の言葉が出せず口籠ってしまった。
「はいはい、愛理ちゃん?そいつは俺のと同じでいいから」
突然、話しに割り込んできたのは玉置だ。
玉置は間髪入れずに北条の背中を押してから「もう行ってきな」と軽い乗りの口調で北条を買い出しへと向かわせた。
それから北条が遠く離れたのを確認すると玉置はぼりぼりと頭を搔き毟り「上谷、お前なあ」と呆れ果てた様子である。
「阿呆だな、お前は」
「何だよ」
「お前は言葉に対して不用意なんだよ」
ただ全てを忌々しく思う。
玉置がその感情を見逃すはずはなかった。
「調子が悪いのは気が立っているせいか?だからって他人に当たるな」
「別に、当たってない」
目も合わせずに言う上谷。
玉置を無視して一人、黙々と掃き掃除に没頭しようとする上谷にしばらく腕を組んで見つめていた玉置は、やがて「やれやれ」と自分一人に聞こえる様に呟いた。
「なあ上谷」
意外なほど穏やかに玉置が声をかける。
上谷は聞いていないふりを決め込んでいた。
「お前が何にイライラしているのか俺には解らんがな、それと仕事とは別にしてくれ」
物腰柔らかに玉置が上谷を窘める。
「それが私情での事なのか、お前にも学校とか友人関係とかあるだろうけどよ。でもここは仕事を貰って給料を貰うところだ」
叱るという事と怒るという事は違っていて、それを使い分けられない大人が大勢いる。あえて冷たい言い方をする玉置であるが、その辺りの配慮はしっかりとなされている。
すると黙っていた上谷が反発した。
「他人のことなんか、よくも知らないくせに指図するなよ」
「ああ、知らないな」
玉置は怯まない。
「俺にはお前という、上谷美紀という一人の人間の存在に関して此処で面接に持って来た履歴書上の内容でしか知らないし、目の前に居るお前しか知らない」
じっと、玉置は上谷を見据える。
「そして例えばお前の大学にいる仲間達もまた、お前という存在は大学に通う上谷美紀という存在しか知り得ないはずだし、別の場面で存在するお前の事は詳しく知り得ないはずなんだ」
その理由。
「存在する空間や場所が違えばそれは、もう既に別の認識でしかない」
上谷が初めて玉置の方を向くと、二人の目が合う。玉置が何を言わんとしているのか、それは上谷にも理解はしている。
でも心では受け入れていない。
それは詭弁だ、と思う。
上谷の負の感情を感じ取り、玉置は慎重に言葉を選んでいた。
「何時何処でだって、お前という存在を知り得ているのは上谷、お前以外を置いて誰一人だって存在しないんだよ。お前が何に対して悩んでいて何に対して感情を抱くのか、やっぱり俺には解らないし、それは多分お前以外の他人には到底理解できないことなんだと思う。だからよ、お前自身の問題はお前自身で改善しなきゃいけないんじゃないのか?今、お前が悩んでいる事で、お前が何か出来ることはないのか?本当は何か出来ることがあるのに逃げているんじゃないのか?」
上谷の脳裏に映る一人の少女。
だが、
「存在?存在だって?そうじゃなくたって、自分で出来る事なんて、たかが知れてる」
上谷はその手に取っていた清掃用具を既に投げ出してる。もはや、やっている事の全てが無意味に思えた。
その情操は玉置にも伝わっている。心の弱い人間の感情の構造は、本人が言い訳をするほどには複雑でない場合の方が多い。
玉置は落ち着きさえはらっていた。
「なあ上谷、俺は以前お前に『想いの因子』がその人、本人の周りの環境を形成するって話しをしたのを覚えているか?」
上谷は返事を返さなかった。その話しは覚えているような覚えていないような、その程度の記憶でしかないのだろう。
どうでもいい。
そんな考えに囚われていた。
玉置は上谷の顔色を伺うと、そのニュアンスを感じ取ったのか「まあ聞けよ」と話しを続ける。
それから玉置は、おもむろに自分の財布の中から十円玉を一枚取り出した。
「十円玉のどっちが表でどっちが裏なのかは、解るな?」
玉置の質問に上谷は馬鹿にしたような素振りをする。
「何だよ、そんなの…」
「答えろよ」
強い口調で玉置が言う。
上谷は重く、その溜め息を鼻でつきながら、
「平等院鳳凰堂が描かれている方が表で十円が描かれている方が裏だろ」
吐き捨てるようにして、そんな当たり前の質問が何なのかといった感じの上谷だ。
ふむ、として玉置。
それから十円玉を右手の親指に乗せると、
きいんと、コイントスをした。
何をしようというのか?
回転して宙に舞うコインを目で追う上谷には玉置の考える意図がまるで理解できなかったが。玉置の方はそんな上谷にはかまいもせず、その宙に舞った十円玉を右手で捉えるとそのまま自分の左手の甲の上に覆い隠すようにして上谷の前へとさし出した。
「今からお前に、二つ質問をするからよく考えて答えろよ」
真剣な玉置の表情。
「まず一つはこの手の中にある十円玉が表か裏の、どちらを向いているかってこと」
そんなことをして、一体何になるというのだろうか?
うんざりとする上谷。
だが玉置といえば、真面目そのものの様子であった。その質問を続ける。
「もう一つは、俺がこの右手を離した時、一体いくつの未来がそこに在るのかを、だ」
そう言った。
「答えろ」
玉置の真っ直ぐとした透き通る視線が上谷を射抜く。それはあの子の瞳にすら似ていて、上谷は一瞬ぎくりとした。
「そんな事に何の意味があるんだよ」
思わず話しをはぐらかそうとする上谷であったが玉置は毅然とした態度を変えない。
少し沈黙していた上谷だが、やがてくだらないと思いつつも本気の玉置を相手にして仕方なさそうに、そしてそれから半ば投げやりに口を開いた。
「じゃあ裏だよ。それに未来もなにも、十円玉には表か裏かしかないじゃないか。この後に在る未来なんて、お前が何か仕掛けして無かったら二つ以外には存在しない。もう、いいだろ?」
こんな質問をして一体何になるというのか、まるで不毛なことだ。疲れ果てたように上谷はそう思った。
そして玉置がゆっくりとその右手をどけ、左手の甲の上に乗るその十円玉を上谷に向けて見せる。
平等院鳳凰堂。
十円玉は表を向いていた。
「俺はよく考えて答えろって言ったが?」
口を開く玉置の顔は、呆れた者を見ているかのような表情だ。
「だから何なんだよ?どっちだって同じことだろう」
「違うよ」
「何が違うんだよ。表が出ると何か違うのか、裏が出ると何か違うのか」
「どちらが出るかなんて重要じゃない」
「じゃあこんな質問、初めから何の意味も無い事じゃないか」
玉置はゆっくりと首を左右に振った。
そして、
「お前がどちらを選んだかが重要なんだよ」
静かな抑揚で玉置は言った。
どちらを選んだか?
そんなもの、どちらだっていい。
表が出た。
ただ、それだけだ。
しかし、玉置の次の言葉は上谷にとって予想しえなかった。
「未来の数は二つなんかじゃない」
そしてまた、きいんと十円玉を宙に弾く。
「何だと?」
今、再び宙を舞う十円玉を玉置はその手に取り、そして先程と同じ様にして右手の中に伏せたまま上谷の前へ差し出す。
「お前が表を『選んで』表か裏が出るのか、お前が裏を『選んで』表か裏が出るのか。未来はな…お前が選択する時点では四つは『在った』はずなんだよ上谷」
一瞬、呼吸が止まった。
両手の中を未だ見せようとはしない玉置に、上谷はようやく息を整えて、それからかろうじて口を開くことが出来た。
「…け、結局は、表が出ただけだ」
「違うな、お前はどちらでもいいとして未来を蔑ろに扱った。お前は表を『選ぶ』という未来を放棄したんだ」
放棄した。
「違う!俺はっ!」
「いいや、そうなんだよ上谷。俺が言う『想いの因子』ってのはその事なんだ。まず、そもそもお前が選ばなければ『在り』さえしない事なんだよ」
玉置は伏せていた十円玉を上谷に見せることなく右手の中に取ると、それをポケットの中へとしまった。
それから暖冬と言われていた今年の冬でも珍しく寒い、今日のその空を一度仰いで見せた。
「でも逆にそれは、お前自身が望みさえすれば、未来は既にここに『在る』って、言えないかな?」
冷たい風が吹き二人の間を紡ぐ。
上谷は言い訳をする言葉すら見つけられずにいた。
いや、そういう自分から変わりだそうとしていたのかもしれない。
「なあ上谷。お前が今、悩んでいる事でお前自身が出来る事は本当に何も無いのか?本当はお前が、ただ一人で放棄して忘れたふりをして逃げているだけなんじゃないのか?」
忘れたふりをしている。
頭の中では、何かが眠ったままでいる。
ある一つの想いが、それを呼び起こそうとしている。
玉置は上谷が放り出していた清掃用具を拾い上げると、それを手に取って資材置き場へと片付けに向かった。その後ろ姿を眺めながら上谷はただ一人、そこに立ち尽くしている。
──ならば自分には一体、何が出来るというのだろうか?
ふと、上谷はあの子の事を思い学校のある方角を見つめてみる。
今の自分に出来る事、それは、
「何か、在るんだな?」
玉置が戻ってきていた。手には上谷が朝方羽織ってきた上着を持っている。そして玉置からそれを無言で差し出された。
上谷はそれを受取ると、仕事用のジャケットを脱いで自分の上着を着込んだ。
「社員には俺が言っておくからよ上谷。お前、今日は使い物にならんから、もう上がれ」
上谷から三栄の深緑色のジャケットを取り上げた玉置に「すまない」と、上谷は短く一言だけ言うと風が立つかの様に颯爽と駆けだしていた。
それを見送りながら頭を搔き毟る玉置。
「あれだけ元気なら、大丈夫そうだな」
と、小さく呟いた。




