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─13─

 快晴。

 雲一つまるで無い。

 暦の上ではもう秋に入っていたが九月はまだまだ暑さの名残を感じる陽気があった。太陽が今、丁度空の真上辺りにあり恐らく昼頃だろう。アイツは授業を投げ出し屋上で風に煽られていた。

 日照りを少し強く感じたら貯水タンクの日陰に隠れれば良い。暇な一日をただ漠然と此処(ここ)で過ごす。

 そうやって無作為に学生生活という(とき)が流れ逝くのが、もはやアイツの日常となっていた。

 屋上にいたのは他にも二名。

 金髪の坊主頭に肌をやや小麦色に焼いた、加藤と呼ばれている少年。

 週刊情報雑誌に掲載されている様な流行りの中性的志向の頭髪のそのセットに余念が無い、寺鵜(てらう)と呼ばれている少年。

 アイツは二人を名前という『記号』でしか知らない。

 ただアイツは何の縁もゆかりも無い彼らが行き場を無くして授業を放棄し、こうやってここに集まることが、自分を含め目的を失くしたゴミ同等の人間だという自覚を持っている。

 アイツ以外の他の二人の考えは違っていたようであるが。

 自分は特別な存在。

 そう思っているに違いなかった。

 いや、そう思うことでしか現実と向き合うことが出来ないでいたのだろう。

 不良を気取って粋がっているのだ。

 結局、YESかNOでしか与えられない現代社会という世界においてのその選択肢の中でNOを選ぶことがクールでオリジナリティがあるのだ、とそういう勘違いをしている。

 YESでもなくNOでもない、それ以外の選択肢を導き出す真のオリジナリティというものを持ち合わせてはいないのだ。

 そういった若者達に与えるニートだとかヤンキーといった無闇で俗的な肩書きが彼らの半端な自尊心を掻き立てて、或いは逃げ道を作りオリジナリティの欠如を助長している。

 快晴。

 雲一つまるで無い。

 だがその眼に映るアイツの世界は恐ろしくも黒く歪んで見視えている。

 加藤が制服の内ポケットから輸入煙草の箱を取り出すと一本を蒸かし始めた。それからのっそりと立ち上がってアイツの傍に寄ると「吸う?」と短く言って箱から葉巻のフィルターが少し出るぐらいの間隔で差し出す仕草をした。

「ああ、そいつ吸わねえの」

 寺鵜が横から言った。

「うっそ、吸わねーの上谷?真面目じゃん」

 汚い笑みを浮かべながら加藤はまるで自分のスタンスがアイツよりも格好良く決まっている、とそう言わんばかりの態度でアイツの周りをへらへらと笑いながら行ったり来たりする。

 屋上から見下ろした所、工業科の校舎は他の学科の校舎より鉄格子ともとれる柵で囲まれており、まるでそれは自分達が囚人として隔離でもされているかの様なそんな感じだ。

 直ぐ隣に二mぐらいの距離幅で普通科の校舎が目と鼻の先に立っていたが、その間には渡り廊下などは設けられておらず代わりに建物下の足元にはやはり二階建てほどはあるだろう鉄格子が立てられているばかりである。

 私立真十高等学校の工業科とその他の学科の確執たるは歴然なものであった。

 工業科の校舎の屋上からは公民科のグラウンドが遠く一望できる。

 他の校舎の人間に見つからぬ様、フェンス越しに低く身を伏せていた寺鵜は公民科のグラウンドで体育の授業を行っている女子生徒を上からまじまじと眺めて言った。

「工業科にも女がいりゃあな」

 加藤が反応する。

「公民科は可愛い子が多いよな。茶色いブレザーって何かお嬢様っぽいし」

 真十高等学校の差別化は、学科ごとの制服の柄にも表れている。

 それから寺鵜は一人で勝手に意気込み、二人に語り出した。

「工業科に女いたらマジで俺、モテんぜ?」

 自意識過剰もここまくると見苦しくすらないんだなと、アイツは思う。

「マジか、やっぱバンドとかやってるとモテんの?」

 加藤の聞き方は寺鵜には気にいらなかったようである。

「お前、目ぇ腐ってんだろ?俺の場合は顔でモテんだよ」

 胸くそ悪い寺鵜の発言に、アイツは大きく鼻で溜め息をついてやる。しかし寺鵜には、きっとその意味は一生掛かったって解りはしない。

「ま、確かにバンドやってるってだけで調子に乗ってる奴は結構いるけどな」

 お前が正にそれだろ?

 そんなアイツの本心など寺鵜は知る由もなく話しを続ける。

「行き着けのライブハウスでよ、俺んとこのバンドの人気はまあ当然だけどかなり良くてよ。周りからも注目されているわけよ。しかも最近どっかのレーベルのプロデューサーだかディレクターだかの業界の人間の目に留ったっぽいんだよね」

 何の信憑性も無い話しに頭の悪い加藤がほうほうと感心して聞き入る。

「でよ、そこのライブハウスにたまに出てくるジャンクションって奴らがうぜーのなんのっての。バンド出来てるってだけで調子に乗ってる様な連中なわけよ」

 ジャンクション、何処ぞのアマチュアバンドの名前だろう。

「そいつらのセンス無いのなんのって!特にベースの奴がウゼー。同い年(タメ)らしいんだけどよ。明京(めいきょう)に通ってるとか言ってんの」

「明京?それはウゼーな!」

 加藤が煽る。

「だろ?親に寄生してお高い学校なんかに行ってるような軟弱な奴がセンス在るわけねえじゃん?そんな奴がライブハウス出てくんなって感じだぜ」

 頭の悪い会話にアイツは耳が痛かった。

 私立明京大付属高等学部。

 高校から大学までを上級教育機関とする学校で、地元でかなりの学力を有する名門校だ。

 要するに二人は、そこがエリート校であるということが気に入らないだけのことだ。

「ただボーカルの子は可愛いんだけどね。まあ向こうも俺のこと意識してるっぽいけど」

「ああ、ボーカルで人気保ってる感じだ」

 加藤の一言に寺鵜が気を良くしたのか「おうよ」と二人で身勝手に一喜一憂している。アイツはこいつらこそが本物の馬鹿なんだろうなと、心の底から思った。

 特別という枠で見れば天才も変態も同じであろうが、天才と変態はやはり違うのだ。アイツは寺鵜に教えてやりたい気分でさえあった。だが、

 彼の精神という心の器にはましてそれを受け入れるだけの許容は皆無であろう。

 精神疾患を類する病気としてうつ病が医学的に認められたことは人の倫理にとって偉大な躍進と言える。この手の病にかかっている本人とその周りで影響を受ける人間を救う大きな手助けとなるのに重要な要素としてまず病気としての世間一般の認知が各々にあることが課題なのだ。

 だからアイツはピーターパン症候群も同じ様にいち早く広く世間一般の認識として、それは医学的に精神疾患として扱われるべきなのだと、そう思っている。自分達はまだ実際子供ではあるが、寺鵜のような人間が二十歳を過ぎても尚、世の中には広く溢れている。

 疾患者を病魔に侵す最大の原因は、本人のもつ疾患者たる故の性格や行動が反映して、周りの環境に悪意の精神が悪循環を形成するからだ。しかし、うつ病と違ってピーターパン症候群は本人自体がその悪循環に対して「自らが悪循環を形成している」という自覚と「自らが苦しみを感じている」という二つの自覚が無い為、病気と断定するのが難しい。だが逆にいえば、それこそがピーターパン症候群の最も恐ろしい側面であり、周囲を『疾患者の持つ悪意』に巻き込んでいく特徴がある。一見「彼は子供っぽい性格」だとか「大人にしては少し勉強が足りていないだけ」といったその人の個人的な自己主張で周囲が振り回される様に見てとれるが。

 もしそれらが個人的なものの問題なのでは無く疾患者たる故の「社会性機能不全」だとしたら?

 アイツは思うのだ。学校や職場や家庭において、己の為にいつでも輪を乱す者がいるとして、そういった者に対するピーターパン症候群としての定義が早く立証されるべきなのだと。

 でもこれはアイツ自身上手く誰かに対して、説明が出来ない。

「ま、直に俺はメジャーデビューしちまうからな。将来に向けて何もやってないお前らとは格が違うってわけよ」

 本当に馬鹿な奴だ。

「ああ?俺だって将来のプランぐらいあんぜ」

「へー加藤、何かやってんの?」

「打ち子」

 本当に馬鹿な奴だ。

「スロットか?結構儲かんの?」

「おうよ、まあ今は下っ端だけどな。直に上に上がって自分(てめえ)で打たなくても手下持って金が入ってくるっていう寸法よ」

「加藤、考えてんな」

「まあな、将来に向けて何もやってないのは上谷だけだな」

「ああ、上谷だけだな」

「上谷は将来やべえな」

「ああ、上谷は将来やべえな」

 そうか、

 俺もこいつらとそう大差ないってことか、

 本当に馬鹿な奴だ。

 晴天の空を仰ぐも自分は一体ここで何をし、何を見ているのだろう。果たしてこの先、自分の認めるべき未来など自分に在りはするのだろうか。

 アイツはじっと、公民科のグラウンドにいるあの女の子を見つめていた。

「おい!誰かいるのか」

 突然声がした。

 恐らくは見回りの教員であろう。もう直ぐ屋上の扉の前までその気配がしていた。

 屋上に『たむろ』をしているのが知られると今後此処が使えなくなる恐れがある。三人の中では暗黙の了解として、早々と逃げ出す習わしがあった。

 屋上はその非常用の鉄扉の外側から鍵が掛けられる為、多少の時間稼ぎは効いた。因みに屋上に三人が出入り出来るのはアイツがその扉を開錠できるためで、何やら彼には奇妙なピッキングの技術が身についている。

「シケモク残して行くなよ」

 寺鵜が小声で加藤に言う。加藤は慌てて屋上から煙草を投げ捨てた。

 それから三人は高さ二十mほどはあるだろう五階建ての校舎の上から、隣接する普通科の校舎の外側に掛かる非常階段に向かって、飛び込んだ。

 いつか動画で見た、海外の不用意なパルクールを真似て──

 アイツは不意に感じている。

 今、視界に入るのは真下に広がる遠く小さな地面。

 だがその向こう側には別の世界があって、そしてまるで自身がそちらの世界に吸い込まれでもするかの様に。

 その先に辿り着ければ、多分この現実というみんながこぞってその価値観を競い合うような下らない世界ではない、また違う世界がそこには在る。

『もの』の形式や内容なんて、どうせいつだって時間や空間によって変化させられていて一定していない。そんな不安定なものを人生でいつも気にして追っかけているなんて自分には疲れるだけだ。きっとその別の世界でなら、そういったものを超えてるって思う。

 でも結局、自分はいつも現実を何となく生きてる。

 そうやって三人は学校を抜けだすと、それとなく互いが散り散りになった。それぞれが一緒に行動を共にするほどの仲ではないからだ。

 それからアイツはいつだって行く先を無くす。自分が存在出来る場所なんてこの街はおろか現実の何処を探したって、多分無い。アイツは日々そんなこと思っている。

 アイツが最後に辿り着く場所はいつも独りでに、御鏡本町駅にある市営の大きな森林公園のベンチと決まっていた。

 市の間を流れる沙門(さもん)川の橋を渡ってここまで徒歩で来る。面倒をしてまでアイツが日中にここに来るのは最寄り駅前には真十高等学校の工業科が年中起こす悪さのせいで交番が建てられたからである。おかげで昼間は制服を着たまま駅周りをうろうろと徘徊していられなくなったのだ。

 アイツの正面にはホームレス達の青いテントの群が立ち並びまた、その横のベンチには仕事を失くしたスーツ姿のサラリーマン風の男性が鞄を抱えて俯いている。

 もしかしたらそれは近く自分自身に与えられる未来の象徴なのかもしれない、とアイツには思えた。

 一億層中流社会を掲げて生きた団塊世代の人達の中流幻想が、まるで呪いの様に未だ生活の何処かに染みついていて、後から生まれる世代に、そしてそれよりも後の世代にそれらを無意識的に受け継がせているかのようにアイツには感じる。

 てか『中流』って何?

 曖昧な基準点。それでいて何だか、個々が同じ様なものを目指していて、それってひどくアイデンティティが無い。

 本当にそこに平等があって誰もが嫌な気持ちにならなければ良い。けれども実際「かく、ある、べし」と言い育てられて、ところがそのくせ「他人よりも一つ何かは優れていなければならない」なんて大人は後から言うから納得がいくわけがない。でなきゃ最近の大人は、育児や教育の責任を放棄しているか、どっちか。

 だから寺鵜や加藤のような決して正しくない心の在り方を持って、そしてそれが現実と対等に向き合う術なのであると本気で錯覚している若い世代が、多からずとも少なからず現れる。

 次第にその歪んだ錯覚はいずれその人、本人の主観を侵食し生活の基準となるまでに成長をしてゆく。

 アイツの目に映る世界もまた歪んだ錯覚であるのだといえた。そしてその歪んだ視界の中で自らがもはや『ものを視る』という事に疲れ果ててしまうほどに。

 だからアイツは、日々眠る時間というものが絶え間なく多い。

 アイツは公園のベンチに腰かけたまま、ゆっくりと瞼を閉じ、今も深い深い眠りの中へと誘われていった。


 意識の中に宿りし、自我の虚像。

 心の中に宿りし、無我の虚栄。

 魂に(うつ)せむ破滅の倫理は、空へと帰さしめる悟りの門。


 それからアイツが目を覚ましたのは日が沈みだした夕方頃、腰掛けていたベンチが西に傾いていたため瞑っていた眼に強い西日が射し込んで半ば無理やりに目をこじ開けられる形になったからだ。

 瞳孔がまだ大きく見開いたままなのが解る。その夕暮れの淡い光が、まだ少し夏を過ぎ去ったばかりの森林公園を紅葉色に染め、アイツの目に映る視界はひどく眩しかった。

 ふと突然、正面に人影が立つ。

 寝起きの自分を覆った影にすうっと視界が楽になり、アイツはその人影の顔をしぶしぶとした目で見上げてみる。

 よく見なれた少女、顔見知りだった。

「明智」

「また、学校さぼってたの?」

 明智と呼ばれた少女は困ったような呆れたような感じでアイツをじっと見つめていた。アイツは「こんな所までわざわざ確認しにきたのかよ」と一人ごちると、うんざりとした表情をし、それから長い溜め息をその鼻でつく。

「お前、ウザい」

「人がせっかく心配しているのに……」

 アイツと明智は幼馴染だった。

 小さい頃から明智はただ黙って何かとアイツの世話を焼く。

 高校に進学を決める時、アイツはろくに勉強などした試しが無かったし、アイツの中学三年の頃のクラス担任はアイツの相手をするのがまるで面倒だと言わんばかりに「真十の工業科でしょう」という簡単な会話でその当時の三者面談を投げ出した。

 偏差値の低い私立真十高等学校の工業科なら推薦入学を取る手間が書類一つで済みまた、担任としての面目も保てるわけだ。

 何しろこの工業科、入学は男子生徒のみだが、地元周辺の各中学校からの問題ある生徒やそして知的及び身体的障害を持った生徒を率先して集めた。

 かわって明智の通う公民科は頭の良い私立高校のイメージをそのままに政治経済を基本とした文系カリキュラムの多い学科だ。恐らくは学校の理事長になる人物が熱心な仏教団体のお偉いさんのようで、そういったところからなる体系が今の公民科を構えた大きな理由の一つと思われる。

 真十高等学校の工業科に対する監視は一入(ひとしお)のものがあった。その学生手帳には、

「各学科の生徒は無断で他の学科の校舎に侵入してはならない」

「不純異性交友、又はそれらに準ずる行為を禁止する」

 等の校則が特に厳格で、その要所で工業科を独立させた管理の中に置こうとしている。

 それでも尚、この学校に工業科が設けられているのはやはり『それなりの収入源』であることは明らかだった。

 特に障害を持った生徒の入学に関しては学校側にとっても特別なことのようである。

 真十高等学校の工業科にはそういった学校のしがらみのような部分がしわ寄せされているのだと、アイツは思わずにはいられなかった。その本質というものをよく理解できていない常識知らずの生徒の集まりではあるが、それは少なからずどこかでみんなが肌で感じ取っていたに違いない。

 うんざりだった。

 自分を取り巻く環境、それに干渉する者。

 全てを否定せずにはいられなかった。それは自分を気遣う幼馴染の優しい少女にですら該当するほどに。

 アイツは自分自身を最低の人間の、その一人であると認識している。

「上谷君、昼間に屋上から普通科の非常階段まで飛び乗ってたよね?」

 明智が言った。あの体育の授業の時に見られていたらしい。

「何?」

「危ないから、やめなよ…」

「いちいち、俺に構うな」

 間抜けな男。本当に彼女にかけてあげるべき言葉はこんな情けないものではないだろうに。解りきっている。だが、

 アイツは今、自分自身が世界で一番嫌いだ。

 ようやくベンチから重い腰をあげるとアイツは明智には見向きもせずただ黙って駅に向かって歩き出した。

 その半歩後ろ、明智がアイツの後ろをついて歩く。何しろ帰る方向が同じなので、アイツは決して付いて来るなとは言わなかったが。

 ただ煩わしく感じて、それでいて明智といると自分自身を情けなく思ってアイツには仕方がなかった。

 何をしているんだろう自分は?

 吐き気のする不快な輪舞(ロンド)が頭の中で、

 形の整わない奇妙な万華鏡を描くように、

 ぐるぐると回っていた。


 駅前まで出てくればアフターファイブ過ぎの退勤ラッシュに少しばかり気後れした。

 横断歩道を渡る一つ手前、車道を挟んだ向こうの通りは自分のいる反対側の歩道とは対象的に人間で溢れていてアイツはまるで人がゴミのようだなと、もっと小さい頃に見たアニメの悪役の台詞を借り頭の中で比喩してみる。

 信号が変わりその雑踏、アイツの思うところのゴミの群生に自分も混ざる。明智も相変わらずアイツの後ろをついて歩いていた。

 行き交う人々が人間というよりはまるで物のように感じられた。街全体が夕焼けの単一色に染められていてそれは作り込まれたジオラマの中を歩いている様なそんな感覚。

 だからアイツは群集の中にいて奴の存在に気がつかなかった。その蜥蜴(かまきり)の様な面構えをお互いがすれ違う、ほんの目の前まで。

 はっとしてそれが寺鵜だと理解した。

 ともあれ寺鵜にしろ加藤にしろ、学校の外で鉢合わせることがあった場合三人はまるで他人のふりであった。ただアイツは屋上以外で彼らの悪意に満ちた顔を見るのはとても胸くそ悪いことだ、と普段そう思っている。

 案の定、二人は互いが挨拶をする事もなくただ目が合っただけの素振りで、そしてそれぞれが相手に構うことなくその脇を通り抜けていく。

 はず、だったが。

「あれえ?君のクラスさ、今日の昼間の授業で体育やってたっしょ?」

 アイツの後ろで寺鵜の甲高く目の粗い金切り声がした。

 耳障りな、黒板に爪を立てたような嫌な感じだ。

「……え、私?」

「そう、君。てか授業中に毎週、時々俺のこと見てるじゃない?」

 寺鵜が明智に絡んでいた。

 こいつの馬鹿さ加減にも、もううんざりだなとアイツは鼻でつく溜め息の中に微かな怒りを込める。

「公民科の制服、君が着ているから余計に可愛く見えるよ。いや、本当に」

 言って明智を抱えるようにその肩に手を回す寺鵜。明智は恐怖心と驚きにおののき委縮してしまっている。

 勘違いもここまでくると手に負えないか。流石に見かねた。

 アイツは寺鵜の視界に入り込む様にわざと正面に立ってやる。頭の悪い寺鵜を煽るにはそれだけで充分であった。

「何だよ?行けよ、テメえ」

 その金切り声をアイツに向ける。

 アイツは明智を挟み込む様に寺鵜に近付くと明智の肩に掛けていたその手首を掴み半身分、外側に強くひねってやった。

「痛え!」

 蟲が鳴く様な声。

 寺鵜は慌てて掴まれていない方の手でアイツの手を払った。

「上谷!何しやがる!」

「街ん中でもウザいことやってんなよ」

 もめる三人の周りには直ぐに人だかりが鷹った。明智はただどうしていいのか解らず、そして怒りに満ちた寺鵜のその眼にはもはやアイツしか映っていないようである。キレる若者の典型的な性質、屈辱の形相を浮かべる。恥をかかされたということ以外にはもはや頭が回らないのであろう。

 引き下がるとは到底思えなかった。

 ふと、アイツはその目線の先、寺鵜の後方の野次馬の中に加藤の姿を見つける。

 どうしてこうも、自分のその生活空間の中に彼らを引き合わせるのか。

 加藤は相変わらずへらへらと笑った態度でいながら二人のいざこざを「やれ!殴れ!」と外野から周りの人間を煽りたてている。

 何か色々なものにやるせない気持ちのアイツは、もう彼らとの馴れ合いも終わりにしよう。そう思っていた。

 その刹那、

 頬に痛みが走った。

 寺鵜がアイツに殴りかかったのだ。

 とはいえその拳は勢いだけのもので喧嘩慣れをしているような腰の入った一発というわけでは無かった。

 寺鵜の方はやってやったと言わんばかりの少し得意気な表情をしている「俺は強いんだぜ」ってことらしい。

 頬に覚えた軽い痛みとそして、その寺鵜の過剰な自意識にアイツは何だか久しぶりに妙に楽しい気分になってくる。だからそのお返しをお見舞いしてやることにした。

 大振りにならないように軽く脇を絞めて手首の力を抜く。それから左足を半歩踏み出してから腰を捻る瞬間に拳を握り込み、

 撃つ!

 がっと鳴る鈍い音。

「…ってぇ」

 あまりに上手く相手を捕らえたので殴りつけた拳が痛かった。思えば誰かと殴り合いの喧嘩をするなんてアイツにしても結構久しぶりだ。

 目の前では寺鵜が文字通りのた打ち回っている。とりあえずこいつとなら生身の喧嘩は負けなそうだな、とアイツは思った。

 だが寺鵜が起き上がるや、少々相手をするのが面倒な状況になった。

「上谷!調子に乗りやがって!」

 寺鵜が制服の上着から取り出した物がきらりと光る。

──バタフライナイフ。

 観衆のざわめきが一層強くなる。

 流石にアイツも格闘技のプロというわけではない。処理に困った。いつだって武器を持たせると始末が悪いのは、心の弱い中途半端な連中の方だ。

 プラシーボ効果なんて事を思う。

 人間は思い込むことにより脳の交感神経を活発にし自身の持てる潜在能力を遺憾なく発揮できるというものだ。

 だから馬鹿は怖い。

 寺鵜がアイツに向かって突き出す右手は先程よりも刃渡り十cmはリーチが長い。ハリウッド映画の主役級ならここは格好良くナイフを蹴り上げているところだが、実際そうはいかない。

 何より怪しく光り輝くナイフに焦点がいってしまい距離感が上手く掴めずにいる。

 身体が酷く重い。

 強引に左側から状態を捻り込み、ナイフの外側へ逃げようとしたが、

 ぷつりと、右肩に地味な音がした。

「っ!?」

 声にならない声。

 咄嗟の防衛本能からか、アイツは寺鵜の股間を蹴り込むと空いている左手で肩に刺さったナイフを取り上げた。

 刃が抜かれてじわり肩から血が滲み出る。その様に周りがどよめくが、だがその雑音も耳に入らないほどにアイツは焦っていた。利き腕をやられたのはかなりまずい。

 明智が声も出せず、ただ黙って泣いている姿が目に映った。喧嘩の最中に喧嘩以外のことを気にしてしまう奴は、アイツの経験上では負ける側だ。

 そして今はそれが自分なのだと、覚悟を決めている。

 血塗られたナイフを後ろに放ると悶絶していた寺鵜がようやく起き上がった。

「ふざけた真似しやがって!」

 子供向け特撮番組の悪役のような奇声を上げる寺鵜が腕を振り回しながら、でたらめにアイツに殴りかかる。まるで小学生の喧嘩だな、と受けながらにアイツは苦笑するが。肩の痛みが酷くて手が出せない。

 防戦一方であった。

 ふと、視界が真っ白になる。

 あれ?

 どうもまぐれで『良いやつ』を貰ったらしい。

 膝から崩れていくのが解った。


「おい!誰か!」

「畜生!上谷!」

「ちょっと、何あれ?」

「おいおい、一方的じゃないか」

「いけ!殴れ!」

「喧嘩?喧嘩?」

「全く、最近の若い奴らは」

「誰か止めないの?」

「ナイフ刺さったんだよ、アイツ」

「おーい、こっちだ!」

「警察、誰か呼べよ」

 勝手な奴ら。

 薄れ逝く意識の中、

「…上谷君…」

 最後に明智に呼ばれた気がした。

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